四
櫻子ですら「わ」と声を上げてしまったし、慣れていない畔上親子はなおさらのことだった。
てってこ、てってこ、と人形劇のようにぬいぐるみは動く。机の上をぐるりと歩き回る。まるで淀みのない動きは凄腕の人形師の手によるものに見えるけれど、しかしどうやら、そうではない。
だって肇は机の上で両手を広げて、ひとつも動かしていない。
畔上の視線が、こっちにも向いた。櫻子は慌てて両手を挙げて、広げてみせる。もちろん彼女も、何もしていない。
信じられない、という顔で畔上は言う。
「手品ですか? どういう……」
「やっぱり、」
けれど。
それに被せるように声を出した郁の驚きは、母親のものとは種類が違って見えた。
「動くんですか?」
「ええ。みたいですね」
「どうやって……機械が入ってるとかですか?」
「触って確かめてみますか?」
肇が言うと、ぴたりとぬいぐるみの動きが止まる。少し遅れて、支えを失ったようにへたりと机の上に座り込む。
郁は言われたとおりそのぬいぐるみを手に取ると、中身を確かめるように、よく指で揉み込んだ。
「……ない、のかな」
「ちょ、ちょっと郁。お母さんも触っていい?」
「う、うん」
郁に手渡されて畔上もまた同じようにするが、やはり手ごたえはないらしい。首を傾げて不思議そうにしている。郁はしばらくそれを見守っていて、それから説明を求めるように肇の方を見た。
「もしかしてと思ったんですよ」
肇は答える。
「郁さんは、うちに持ってきてくださったときぬいぐるみの持ち方が丁寧でしたから。丈夫な生地でもありますし、昨日の今日でこんなほつれるものなのかなと」
ゆったりと笑って、
「本当は、郁さんがぬいぐるみを破ったわけじゃないんでしょう?」
「えっ。そうなの? 郁」
「…………」
郁は俯いた。膝の上の拳をさらに、白くなるまで握りしめる。彼女は勇気を振り絞るように、
「うん」
と頷いた。
「朝起きると、ぬいぐるみがなくなってて。そんなに家から遠いところじゃないんだけど……」
「外に落ちて、破れている。だから郁さんはそれを拾いに行って、お母さんには『自分が破ってしまった』と言っていたんですね」
こくり、と郁が頷く。
畔上は、さっきよりも一層驚いた。
「なんで言わなかったの?」
「…………だって、」
「言えませんよねえ。勝手にぬいぐるみがどこかに行ってしまったなんて。私はその気持ち、結構わかりますよ。畔上さんも、郁さんから急にそう言われて信じられますか?」
「信じますよ」
畔上は自信ありげに言う。
「何だかわからないですけど、そのぬいぐるみの中に自分を歩かせるための仕組みがあるってことですよね。私、こう見えて駅の方の新聞社に勤めていて、科学にも多少明るいんです。子どもの言うことだなんて頭ごなしに否定しないで、ちゃんと原因まで調べますよ」
「……あー……なるほど……」
肇の横で、櫻子も同じ気持ちになる。
なるほど。
これは言い出しづらいわけだ。
「しかしね、畔上さん。これは何だか怪談みたいじゃありませんか」
「怪談?」
ええ、と肇は頷いた。
「聞いたことがありませんか。捨てても捨てても戻ってくる人形」
「話の種としては、ありますけど」
「これ、その逆でしょう。今こうして人形が自分で動いているところを見なかったら、戻しても戻しても捨てられてしまうぬいぐるみです」
畔上は、眉間に皺を寄せてその言葉を受け止める。
無意識のように彼女がぬいぐるみを机に置き直せば、再びそれは歩き出した。
「私は以前に洋行をしていたことがあるんですが、海の向こうでもよくこういう話は聞いたんです。一般的に人形が勝手に動いていたら結構怖いものですし、不思議なことが起こったと考えるものですよ。畔上さんは科学的な思考能力があるから別かもしれませんが、大抵の人はそうです」
「……確かに。私だって、怖くないわけではないですが」
「でしょう。でも、人に面と向かって『怖い』と不安を溢すのは、大人になったって難しいことですよ。それが本人にも現実的な理由に思えなかったなら、なおさらです。場合によっては自分の失敗を誤魔化しているように受け取られるかもしれませんし、普段が良い子であればあるほど、その不安も大きいんじゃないでしょうか」
畔上は癖なのだろうか。またしばらく眉間に皺を寄せて、思考のための間を空ける。
けれど今度に続いたのは、無意識の動きではなかった。
「――言わなかったこと、責めてごめんね」
郁の頭を、彼女は優しく撫でた。
「でもお母さん、ちゃんと郁の言うことは信じるからね」
「……うん」
郁の拳が、徐々にほどけていく。
その様を見届けて、櫻子はひそかに安堵の息を吐いた。
「あの。それで、」
やがて、畔上が言った。
「このぬいぐるみは、どうすればいいんでしょう。何か箱の中に入れておいて、外に出られないようにするとか?」
「お、お母さん。頭もういい、恥ずかしい……」
「あ、ごめん」
「そうですね。最初はぬいぐるみを動かないようにする方法をお教えしようかと思ったんですが……」
「まさか、お焚き上げとか?」
少し胡散臭そうな目をしているのは、やはりその手の話題に厳しいのだろう。
いやいや、と肇はそれを躱した。
「実はうちは、道具屋は道具屋でも少し変わったものを扱う店なんです。この手の人形を動かないようにする品物にも心当たりがあったんですよ」
「あら、そんなものがあるんですか。どこから出ている商品で?」
「……いや。骨董品で、どこというわけでもありません。ただ、その前にひとつお伺いしたいことがありまして。お祖母さんは、今はご一緒に住んでおられますか」
「いえ。年で肺を悪くしてしまって、療養で今は……」
やっぱり、と肇は頷いた。
「お祖母さんではなく畔上さんがぬいぐるみを直しているから、『おや?』とは思っていたんです。もう少し早く気付けばよかったですね」
「でも、ちょっと今は本人に詳しいことを聞くのは難しいと思います。何せ療養中ですし」
「いえ。そのぬいぐるみをお祖母さんのところに連れて行くだけでいいんですよ」
「はあ」
「専門的な話になるので、細かい原理の説明は省かせていただきますが」
はぐらかしつつ彼は、
「そのぬいぐるみは、さっき言った『捨てても戻ってくる人形』なんですよ」
「……怪談の?」
「怪談かはともかく、いくつか実例を知っていますので、そういう種類のものだと思っておいてください。ぬいぐるみは郁さんの下から逃げ出したんじゃなくて、お祖母さんのところに戻ろうとしていたんです。だからお祖母さんのところに一緒に連れて行けば、それで解決するはずですよ」
「置いてきた方がいいってことですか?」
残念がる声色を隠さずに、畔上は言った。
「でもこの子、母から貰ったものだからすごく気に入っていて――」
「お母さん」
その袖を、そっと郁が引いた。
ふるふると首を横に振って、
「いい。大丈夫」
それからいくらか話して、軽い汚れ落としまで追加で済ませれば、支払いになった。
昨日の修理よりも、畔上はかなり多めに上乗せしてくれた。「いやいや、ただ案を出しただけですよ」と肇が言っても「案を出すだけでお金を貰う人なんていっぱいいますよ」と彼女は譲らない。さらに小さく、郁に聞こえないような声でこうも口にする。
「娘のことも、教えてもらえましたから」
会計を終えて、畔上親子が戸口から出ていく。
どうもありがとうございました、と彼女たちが頭を下げるとき、もちろんこっちも同じくらいの礼を返す。
「郁さん」
踵を返そうとしたのを、肇が呼び止めた。
「お祖母さん、元気になるといいですね」
郁の目が大きく開く。
はい、と彼女は頷いて、ぬいぐるみを胸に店から出て行った。
❀
「『お守り人形』、ですか」
その日の夕食で、肇はそんなことを教えてくれた。
古今東西、どこにでもあるものなのだという。
人に降りかかる病や災い、そういったものから守るために作られる人形のことだそうだ。
「実は最初に見たときから、そういう類のものだということはわかっていたんです。ただ、」
てっきり、と彼は鰆に箸をつけながら、
「私たちの一番身近にいる子どもって、幸多くんじゃないですか。郁さんもそういう無茶をする子で、すごい勢いでぬいぐるみが傷を肩代わりしているのかと」
「ああ……」
「後はまあ、誰かにいじめられているのかなと思いました。どこで傷付いているのかわからなかったので、家族か、友人か。だから最後にそれとなくそのあたりを探れればと思っていたんですが……」
こくり、と櫻子は頷いた。
もちろん、その可能性も考えた。あのごみ捨て場で見たとき、郁が泣いていたのもあって、余計に心配していた。
「でも、実際はお祖母さんのところに帰ろうとして、ぬいぐるみがぼろぼろになっていただけだったんですね」
「ええ。見当違いのことを言うところでしたから、櫻子さんにまた助けられました」
「いえ。私は何も。でも、どうしてぬいぐるみはお祖母さんのところに?」
「混ざっちゃったんでしょうね」
「混ざった?」
「きっとあのぬいぐるみは、お祖母さんが可愛い孫のために心を込めて作ったんでしょう。だから最初は、郁さんのためのお守りになりました」
でもたとえば、と味噌汁を啜って、
「美味い」
「あ、たけのこ好きですか」
「好物です。……そうですね。たとえば毎晩大切に大切に、誰かのことを思って抱いて寝たりしていたらどうでしょう」
肇は言う。
たとえば自分が守るべき子どもが、体調を崩して離れ離れになってしまったお祖母ちゃんのことを毎日毎日心配していたら、
「お守りは、その子を守るためにどうしてあげたいって思うんでしょうねえ」
お守りのために作られたぬいぐるみ。
そこに込められた誰かを思う気持ちが、他の誰かを大切に思う気持ちと混ざり合う。
そんな細かい原理のことを、櫻子は思って、
「肇さん」
「はい」
「郁さんのお祖母さん、元気になるといいですね」
ええ、と優しい声で彼は頷いた。
❀
ふと気が散って、櫻子は机の上のぬいぐるみに目をやった。
ある昼下がりのことだ。店先の模様替えは着々と進んでおり、毎日せっせと櫻子は商品の説明書きを蓄えている。けれど時々は手も疲れるし、肩も凝る。うん、と背伸びをして、肩を下ろして、それから自然に視線がそこに吸い込まれた。
肇の作った、動物ぬいぐるみたち。
その中のひとつに向けて、何とはなしに指を伸ばす。
「こんにちは……」
「!」
そのとき戸が開いたから、飛び上がらんばかりに驚いた。
「い、いらっしゃいませ」
慌てて取り繕って、櫻子は入ってきた客に笑顔を向ける。久しぶりのお客さんだから張り切らないと、と思って見ると、
「今、だいじょうぶですか」
畔上郁だった。
学校帰りでそのままこっちに来たのだろうか。幸多がよく持っているのと同じ――けれどあれに比べたら格段に傷や汚れの少ない――学校鞄を背負っている。おずおずと彼女は、『幽霊屋敷』なんて呼ばれているくらいだから子ども一人じゃ相当緊張するだろう店の中に入ってくる。
「大丈夫ですよ」
櫻子は、できるだけ彼女を安心させられるよう、優しく言った。
「今日はどうしましたか」
「すみません、今日はお客じゃなくて……あの。店長さんって、いますか」
「ごめんなさい。さっき商店通りの方に買い出しに出てしまって。何か用事があれば、私が聞きますよ」
そうですか、とちょっと残念がるようにしてから、
「あの、ありがとうございました。私、何も言わなかったから、お礼を言いたくて」
丁寧にお辞儀をするものだから、かえってこっちの方が慌ててしまった。
「ああ、いえいえ。どうもご丁寧に……店主にも後で私から伝えておきますね」
「ありがとうございます。あ、あとじゃあ、もうひとついいですか」
「はい」
「ぬいぐるみはお祖母ちゃんのところに置いてきました。……あのぬいぐるみがそばにいるとお祖母ちゃん、何だか調子が良いみたいで。『一緒に帰ってきて』って、渡してきました」
そうですか、と櫻子は笑って、
「それは良かったです」
「はい」
「あ、でも。郁さんはぬいぐるみがないとちょっと寂しくなっちゃいますね」
お祖母さんが早く一緒に戻ってくるといいですね。
そう繋げるつもりだった言葉が、
「――さびしくないです!」
郁の大声で、かき消された。
思わぬことだったから、櫻子は一瞬驚く。郁も自分で自分の声に驚いたような顔をして、しかしすぐに、
「ぜ、全然。ぬいぐるみとか、子どもっぽいですし」
全く本心ではないのだろうと、一目見ればわかる態度だった。
「なくても全然、さびしく、ない、し……」
徐々に、言葉は弱くなっていく。
どうすればいいんだろう、と櫻子は考えていた。どうしてあげればいいんだろう。自分はこの子に、何を与えてあげられるんだろう。
考えているだけじゃ、何も伝わらないから。
拙くても櫻子は、声に出した。
「私はぬいぐるみ、好きですよ」
手に取ったのは、非売品。あなたのためにと肇が贈ってくれた、犬のぬいぐるみ。
「この間この子を貰って、すごく嬉しかったんです」
わん、と。らしくもなくおどけて、犬の右手を挙げてみせた。
郁は、言葉を止めた。
零れ落ちないようにと瞳に溜めた涙を通して、じっと櫻子のことを見つめる。俯く。すん、と一度だけ鼻を啜る音がする。
顔を上げたときにはもう、しっかり者の顔だった。
「あの」
彼女は、ぴこっと突き出したふわふわの耳を指差して、
「このねこって、売ってもらえたりしますか」
郁の背中を見送って、帳簿に珍しく数字を付けて、買い出しから帰ってきた肇と共にその数字と、郁から聞いた彼女の祖母の体調の回復を喜んで。
また仕事の続きに取り掛かれば、少しずつ夕焼けの気配。
窓からは茜色の夕日が差していた。
今度手を止めたのは、気が散ったからではなかった。そろそろ暗くなってくるから、終わりの時間。肇は放っておくといつまでもあの広大な蔵の整理に没頭してしまうから、そろそろ声を掛けておいた方がいいだろう。
立ち上がる。
とんとんと自分で自分の肩を叩いて、それから目を留める。
犬のぬいぐるみが、つぶらな瞳でこっちを見ている。
櫻子はそれを手に取って、腕の中にぎゅうっと抱き締めてみる。
あんまりにもそれが心地よくて。
ふふ、と思わず笑ってしまった。
(第三話・了)
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