三
「櫻子さんは、ときどきすごく心臓に悪い方ですね」
「…………」
率直な感想を言われて、ぐうの音も出せずに朝食を終える羽目になった。
それから昼にかけて、櫻子はしばらく庭の掃き掃除をしていた。
沈思黙考。掃いても掃いても次の日には元通りに戻る手品のような葉っぱを見つめながら、櫻子は思い返している。
朝のこと。
……いや、あの恥ずかしい一幕のことではなくて。その後に目にした出来事の方。捨てられたぬいぐるみ。泣きながらそれを拾って行った郁。
最初は悲しかったけれど、今はどちらかと言うと心配の方が勝つ。
昼にそれとなく確かめてみたところ、努力の甲斐あって、肇は捨てられたぬいぐるみを目に入れなかったらしい。相談できないのは少し心細くはあるけれど、自分が直したぬいぐるみが捨てられていたとわかれば、きっと彼も傷付くだろう。そう思えば、あのときはああしてよかった――その代償のことを考えないようにしながら、とりあえず今は自分をそう納得させる。
昼からは、いくつか蔵から店頭に配置換えする予定の品物を教えてもらったので、その陳列の方法について思い悩んでいた。
立地の問題もあるから、どこでも買える日用品よりは少し特殊なものがいいだろうというのが肇の判断らしかった。しかし果たしてそうしたものを細々と売ることが最見屋の経営にどれくらい資することになるのか……思いつめれば、自然と視線は窓の外に逃げていく。
桜の木が目に入った。
そういえばと櫻子は思い出す。ここに来たときもそうだったけれど、あの桜はずっと花を付けていない。いよいよ春は終わりも近付くから、実は遅咲きではなく早咲きで、自分がここに来る前に散り終えてしまったか。いやでもそうだ、確か幸多があんなことを――
その幸多の姿が見えた。
学校が終わって、そのまま来たらしい。小さな子どもに特有の忙しなさで、早足でこっちに向かっていた。
「こんちはー!」
「はい、こんにちは」
幸多はときどき、こうして一人で最見屋まで来る。
何かきっぱりとした理由があるわけでもなさそうだから、暇つぶしみたいなものだろう。家に帰っても父が仕事の間は誰もいないし、ときどきは友達と都合が付かないこともある。そういうとき、幸多は登川の主のところに行くこともあれば、最見屋に来ることもある。
立ち寄る場所がたくさんあるのは、きっと良いことだ。
立ち上がって、櫻子はお茶を淹れる。先日、三田村が「いつも息子がお世話になりまして」「つまらないものですが」と差し入れてくれたもの。悲しいことに、このつまらないものの方が、最見屋に備蓄されている来客用のお茶よりも質が高い。
「今日は何か、楽しいことはあった?」
「校庭に砂嵐でた!」
「えぇっ。大丈夫だったの?」
「みんなで突撃しようとしたら先生にぶっとばされた!」
「あ、危ないからやめようね……」
今日は風が強かったね、と他愛もない話。
機会を見て、さりげなく櫻子は切り出した。
「そういえば、昨日自由市にいたあの女の子。幸多さんのお友達?」
「あ、郁?」
「うん」
「友達……うん。まあ。そんなに一緒に遊ぶわけじゃないけど、ふつーに話すよ」
「そうなんだ。どんな子?」
「え、なんか探ってる?」
「…………」
全然さりげなくはできなかった。
何か言い訳をと思ったけれど、図星を突かれているのだからもう逃げ場がない。幸多は興味津々の顔で、
「川のおねーさんみたいな、そっちの話?」
「……うーん。そういうわけじゃないんだけど」
「ふーん?」
首を傾げて、
「級長やってて、優等生って感じ。なんか大人っぽいっていうか、仕切り屋っていうか。細かいことばっか言うなってときもあるけど、この前、転んで動けなくなってたら保健室まで連れてってくれたし、良いやつだよ」
「動けなくなるほど転んだの……?」
「はしゃぎすぎた!」
幸多のはらはらする日々のことは置いておいて、へえ、と櫻子は教えてもらったことを心に思う。そうなるとますます、直してもらったぬいぐるみを次の日に捨てるということはなさそうだ。
「……そっかあ」
「なんか役に立った?」
「お、何だ。来てたのか」
奥の方から、肇が出てきた。
「君も暇だな、少年」
「てんちょーも暇そうだね」
「そうなんだよな。しかし大人が年がら年中暇してるとな、まずいんだ」
「全然まずいと思ってるようには見えないんだけど……」
櫻子さんこれを、と肇が追加の蔵出し商品の一覧を渡してくれる。
どうもと櫻子がそれを受け取って、直後のことだった。
「……お」
「どうしました?」
「幻かな。向こうからお客が来ているように見える」
うそ、と失礼なことを言って幸多が外を見た。
うそ、と失礼なことを思いながら、櫻子もそれに続いた。
うそではなかった。
親子連れが最見屋の庭先からこっちに、歩いてきている。
片方は、郁だった。
「ぼく、裏から出てくね」
ぴょん、と椅子から降りて幸多が言った。
「悪いな、幸多くん」
「いーよー」
気を遣ってくれたのだろう。お茶だけを飲み干してしまうと、幸多は勝手知ったる様子で帳場の奥へと消えていく。それだけでがらんとした店内。怪しい店。
少し待って、最見屋の戸は開いた。
❀
「ええ。このくらいなら昨日と同じように直せますよ」
「ああ、よかったです。私がやると、跡が目に見えて残っちゃって……」
入ってきたのは
持ってきたのは、やはりあの女の子のぬいぐるみだ。昨日ほどではないけれど、数ヶ所に破れとほつれがある。
直してください、と畔上は言う。そして直せると答えたときの安心した顔は、演技とは見えない。そうなると櫻子は、ますますわけがわからなくなる。
では一体誰が、このぬいぐるみをあの場所に捨てたのだろう?
来客用のお茶を出して、修理用の針と糸も用意する。さっと袖を捲ると、肇はその場ですぐさま取り掛かる。
感心したように、畔上はそれを見ていた。
「お見事ですねえ。私、繕い物は昔からてんでダメで……」
「そうですか? このあたり、畔上さんが繕われたのでは」
「いやいや、全然ダメでしょう。目立ってしまって」
「糸の色の問題でしょう。私と同じ素材を使えば、畔上さんの方がお上手かもしれませんよ。ひょっとして周りにもっとお上手な方がいらっしゃって、その方とお比べになってしまっているのではありませんか?」
「あら。……ひょっとして、占いの方?」
ちょっと不審げな目になったのを察して、櫻子は、
「このぬいぐるみ、とてもよく作られていますから。どちらか、専門のお店に伝手があるのかと。どちらでお買い求めになられたんですか?」
ああそういう、と畔上はその不審の目をやわらげる。
先ほど聞いた普段の郁のことが記憶に残っているのもあってか、その母もどこか知的な風に映る人だった。あまり下手なことを言っては悪い印象を持たれるかもしれない……ちらり、と肇がこちらに一瞬目線を送ってくる。助かりました、と読み取れなくもないから櫻子も、どういたしましてと読み取れなくもない視線を送り返す。何も悪いことをしてはいないのに、詐欺師にでもなったような気分だった。
「いえね。それはこの子の祖母が作ったものなんですよ」
「お祖母さまが? 職人さんか何かで」
「地元がね、人形工芸をやっていたそうで。私はこのとおりさいはて町の住まいですから、そちらとは縁遠くなってしまったんですけど、母はそこで若い頃はずっと過ごしていたんです。職人と呼べるほどのことをしていたのかはわかりませんが、おかげでそういうぬいぐるみ作りは得意だったみたいで」
ははあなるほど、と肇は頷いた。
「畔上さんがご謙遜なさるのもわかる気がしてきましたよ。私もこれだけ素晴らしい技術を持った方が身内にいたら、同じようになってしまうかもしれません」
「でしょう? でも、店主さんの腕が良いから安心しました。昨日娘が綺麗に直してもらったって言ってたから、自治会の方にどこのお店なのか聞いて来たんです」
ね、と畔上は郁に話を振る。
郁は少し俯いたまま、物も言わずにこくりと頷いた。
「そうですか。店構えを見てびっくりされたでしょう。子どもたちの間では『幽霊屋敷』呼ばわりされてるそうですからね」
「あら……。こちらでお店は、かなり長く?」
「ええ。ただ、少し店を閉めていた時期がありまして。おかげで自由市なんかに出て顔を広めているところなんですよ。ほら、こんなぬいぐるみを作って」
とんとん、と肇は空いた手で、勘定台の上に並んだ動物たちを示した。
「これ、全部店主さんが?」
「道具の売り買いが本業で、作る方は本業というわけでもないんですがね」
へええ、と畔上は感心したようにそれらを見て、
「あのう、それじゃあ頑丈なぬいぐるみなんかも作れたりしませんか?」
と言った。
「頑丈な? というのは、どういう用途ですか」
「いえね。この子、ぬいぐるみの扱いがちょっと激しいんですよ。そのぬいぐるみを見ての通りなんですけど、昨日の今日でこんなにボロボロにしちゃって。だから、壊れにくいぬいぐるみがあれば助かるかなあと思って」
ぎゅっ、と。
郁が膝の上で拳を握るのが見える。
何かが変だ、と櫻子は思った。
「なるほどなるほど。抱き心地の問題もありますからあまり硬い素材は使えませんが、たとえばこういうひらひらだったり、突起だったり、全体的にどこかに引っ掛かってしまうような部分をなくすように作れば、多少は壊れにくく作れると――」
「肇さん」
呼ぶ。彼が反応するまでのほんの少しの時間、その理由になる言葉を探して、
「そういう素材に使えるものを、奥の部屋で見たかもしれません。ちょっと、確かめてみてくれませんか」
最見肇という人物は、人の心を読んでいるのか、それとも単に誘われれば何でも頷いてしまう性質なのか、こういうときに余計なやり取りが要らない。
じゃあちょっと見てきますねと彼は席を立つ。櫻子もまた、畔上親子に頭を下げて奥に続く。
物陰で、こそりと話しかけた。
すみません、さっきのはただ連れ出すための口実で、
「気になることがあって」
「何でしょう」
「今朝方、郁さんを見たのは覚えてますか」
「今朝?」
「ごみ捨て場です。あのとき、女の子が走り去っていったじゃないですか」
肇が驚いたように、
「あれ、郁さんだったんですか。すみません、ちょっとあのとき記憶が……」
自分のせいなのだろうなと櫻子は内心で受け止めながら、
「それで、その、拾ってたんです。郁さんがあのぬいぐるみを、泣きながら」
もう肇は、傷付いたぬいぐるみを目にしているのだ。隠す理由もそれほどあるまいと思うから、打ち明けてしまう。
「幸多さんから聞いた話だと、郁さんは学校では優等生なんだそうです。昨日もおこづかいを使ってまで自分で修理に来てましたし、自分であんなにぼろぼろにしてしまうとは思えなくて」
「……そうか。そっちの方か」
「え?」
「いや、私もあのぬいぐるみに変わったところがあるのには気付いていたんです。道具屋ですからね。それに郁くんが塞いでいるのも見てわかったので、終わり際にちょっとお話をするつもりだったんですが……どうも、勘違いをしていました」
いや助かりました、と肇は言って、
「後はお任せください」
安心させるように笑って、店へと戻って行った。
「お待たせしました、ちょっと材料を見てきました」
「あ、どうでしたか?」
「ええ、まあ。ちょっとこちらの修理を終わらせてから、改めて話をさせていただければ」
そう話しながら席に着けば、肇はごく落ち着いた様子で修理の続きに取り掛かる。
瞬く間の手腕だ。そうして繕っている間にもどんどんより良いやり方を覚えているのではないかというくらいに、指の捌きが冴え渡る。はあ、と最後の方になると畔上は何かの手品を見るかのように、じっと肇の手元を覗き込んでいる。
「今度、裁縫教室を開かれたらどうですか? 生徒がたくさん集まると思いますよ」
「本当ですか? それもいいかもしれませんね……と。これで完成です」
とす、と机の上に柔らかくぬいぐるみは置かれる。
全く繕われた跡が目立たない、素晴らしい出来だった。
あらまあ、と畔上からは好感触。私がやったところも直してもらおうかな、なんてまじまじその出来栄えを確かめてみる。
「ほら、郁。よかったねえ。綺麗になったよ」
「……うん」
しかし郁の表情は暗いままで、
「どうですか、郁さん」
肇が訊いた。
「前から後ろから、しっかり見ておいてください。変なところはありませんか」
「……はい。大丈夫、だと思います」
「本当に?」
畔上が怪訝な顔をする。
郁が少し不安そうな顔になって、そこでようやく肇の顔を見る。
肇は、優しく微笑んだ。
「折角なら、立って歩くところも確かめておいたらどうでしょう」
ぴこっ、と音がしそうな可愛らしい動き。
ぬいぐるみが、ひとりでに立ち上がった。
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