元々心当たりはあったんです、と彼は言った。

 このあたりでは有名な話――というわけではないが、少なくとも最見屋には伝わっていて、稲森なんかも当然知っている話なのだそうだ。


 さいはて町の、登川。

 あそこではときどき、足を滑らせた子どもが何事もなかったように、ひょいと陸に戻されることがある。


「え? 戻される……引き込まれるんじゃなくて、ですか?」

「ええ、逆です。だから私も最初は上手く繋がらなかったんですが……ほら、」


 夜更け、その登川の橋の近くでのことだった。

 竹林に少し踏み入ったところで、櫻子は肇とひそひそと言葉を交わしていた。すると彼は、言葉の途中で不意に道の先を指差して、


「やって来ましたよ」


 ふらふらと小さな影が、その向こうから現れた。

 月の光の明るい日で、少し距離が縮まるだけでその影は白々として顔立ちを露わにする。


 幸多だ、とわかる。


 そう真剣に隠れているわけでもない自分たちに勘付く気配すら全くなく、彼は夢見心地のような足取りで橋の方に歩いている。


 実際、夢見心地なのだそうだ。

 肇曰く、あれは寝ているのだという。


 危なっかしい足取りで橋の上まで辿り着くと、そこで幸多は足を止める。


「行きましょう」

 肇が言うから、こそこそと櫻子もその後に続いた。


 竹林の中に身を潜めて、できるだけ橋に近いところまで行く。

 すると確かに幸多の横顔は、瞼を閉じたままだ。頬に月の光を受けて、しかし静かに欄干の前に佇んで、立ったまま眠っているように見える。


 そのまま見ていると、やがて肇が言っていたとおりのことが起こる。


 ぐらり、と幸多の身体が傾いだ。


 肇が駆け出す。がさっと草を踏む音。櫻子も遅れて続くけれど、流石に間に合いそうにない。一方で肇の足は犬よりも軽やかで、まるで重さなどないかのように幸多に迫っていく。


 たぶん、そのままでも間に合ったはずだと思う。

 けれどそうなるより先に、それは来た。




「――――ああもう、危なっかしいガキだな!」




 ばしゃんと大きく、水面が音を立てた。

 跳ねた飛沫がきらきらと夜の明かりに輝く。弧を描いたのは、その水面から飛び出してきた、魚のように美しい白い足。


 肇が幸多の下に辿り着くよりも先に、倒れていく彼の肩を、その長い髪の女が支えた。


 た、た、た、と肇の足取りは徐々に鈍くなって、二人の前でぴたりと止まる。女は驚いたように肇を見上げる。櫻子は遅れて辿り着く。


 息を整えたところで、肇が切り出した。


「やっぱり、お前だと思った」


 登川の主、と。





 昔からいる、お節介な魚の妖なのだという。


 子どもが溺れていれば、首根っこを引っ掴んで岸まで連れて行ってやる。大雨で鉄砲水が来るとわかれば、おどろおどろしい歌を歌って人をそこから遠ざける。渇いた日が続けば何と何と、雨乞いの真似事までしてくれる。


「……それは、神様なのでは?」

「実際、そう呼ばれていた時期もあるそうです。神様も物の怪も紙一重ですから」

「はッ。……昔の話だよ」


 登川のほとり、夜の河原。

 四人は座って、話をしていた。


 登川の主はほんの川べり、大岩に腰掛けて爪先を川に浸している。一方で櫻子は肇と草っぱらに並んで座って、当の幸多と言えば、肇の膝の上でくうくうと寝息を立てている。


 彼の身体は、僅かに濡れていた。


「水を飲んでいないのが不思議だと思ったんですよ」

 肇が言った。


「気を失った状態で水の中に入れば、多かれ少なかれ水は口の中に入ってくるものでしょう。だから水の中に直接入ったんじゃなくて、水に濡れた何かに触れたんじゃないかと思ったんです」

「……誰だって、ガキが頭から倒れそうになってたら支えるだろ。打ちどころが悪かったら死ぬんだぞ」

「で、そういう親切をしそうな妖がいたなあと」


 ぴゅい、と主の尾っぽが水を跳ねる。

 凄まじい勢いで飛んできたそれを、肇は首を倒して軽々と躱した。


 ぎろりと登川の主は振り向いて、


「最見屋。お前、おれに喧嘩を売ってるつもりか」

「その逆。褒めてるんだ」

「買うぞ」

「あと、こちらの櫻子さんへの説明も兼ねてる」


 その視線が今度はこっちに向けられるから、びくりと櫻子は肩を跳ねさせた。


「は、春河櫻子と申します」

「誰だ」

「私の婚約者だよ」

「――――」


 主が目を丸くした。

 視線に籠っていた険が、一気に抜けた。


「ほんとに? からかってんじゃないだろうな」


 これは自分が答えねばなるまいと櫻子は思った。

 だから耳まで上ってくる体温を堪えつつ、それでもちょっと俯いてしまいながら、


「は、はい。婚約者、です」

「――――あはっ、」


 主が、破顔した。


「なんだお前! 全然商売が上手く行ってないとか言ってたくせに、こーんな可愛い子捕まえて! え? 一生分の運を使っちまったんじゃないのか!」

「いや、商売はまだ全然ダメだ。そっちが上手く行ったらそのときは結婚しましょうって約束なんだよ」

「はあ? なんだそりゃ。結婚したいから稼いできますくらい言えんのか、甲斐性なし! 大体お前は昔っから要領が良いんだか悪いんだか――」


 堰を切ったように話し始めた主と、それを「はいはい」といなす肇。

 二人を見ながら、櫻子はようやく納得する。


 ああ、確かに。

 この人が――妖が、一人ぼっちで彷徨っている幸多をはらはらと見守る姿は、いくらでも想像が付いてしまう。


 しかしふと、別の疑問が心に差した。


「どうして」

「ん?」

「どうして幸多さんは、眠ったまま歩いていたんでしょう」


 そっちのことは、まだ何も解決していないのではないだろうか。


 水に濡れていた理由はわかった。夜の間、主が見守ってくれていたことも。けれどその前提、どうして幸多がふらふらと、記憶も残さないで家を出ていたのかがまだわからない。


 登川の主は、つい、と目を逸らした。


「…………」

「そっちもわかってますよ。というか、櫻子さんから幸多くんが夜歩きしていた時期があると聞いて、それでわかりました」

「それが関係あるんですか?」

「大ありです」

「おい、言うな」

「どうせ、子守歌でも歌ってやってたんですよ」

「言うなって言ってんだろ!」


 びゅん、と今度はもっと強く主の尾っぽが跳ねた。


 これもまた肇はさして驚くでもなく躱してしまったけれど、櫻子としては板挟みにされたような気分で、


「え、えっと……」

「櫻子、それ以上訊くな」

「たぶん、幸多くんも弟妹がよく眠れるように静かな場所を探していたんでしょう。するとこのせせらぐ登川のほとりに辿り着いて――」

「お前は口を閉じろ」

「で、いたいけなお兄ちゃんが赤ん坊をあやす姿に心を打たれた妖は、美しい声で子守唄を歌うわけです」


 ぽちゃん、と川の方から音がした。

 櫻子は驚く。ほんの一瞬目を離した隙に主がいなくなっている。水面に広がる波紋を見れば、川に戻ってしまったのがわかる。


「い、いいんですか」

「大丈夫です。恥ずかしくなっただけで、どうせ聞き耳を立ててますから」

「はあ……それで?」

「幸多くんとしては嬉しいですよね。人懐っこい子みたいですし。毎晩毎夜と通ってしまうわけです。すると、優しい妖としてはどう思いますか」

「……毎晩来ると、危ない?」


 ぴゅ、と川の水が飛んできた。

 もちろんそれを躱せるほどの慣れはまだ櫻子にはないけれど、そもそも的を外していて、濡れずには済む。


 川に向かって肇が、


「おい、ちょっかいは私だけにしろ」

 と言って、


「櫻子さんの思うとおりです。あやしてやりたいが、こう毎晩毎晩来られると不安の方が勝つ。目に浮かぶようですが、どうせあの妖、水辺の中からこっそり歌うなんて控えめなことはしてませんよ。堂々と幸多くんの前まで出て行って、『子どもが夜歩きするな』とか『危なっかしいんだよ』とか、そんな説教までしてたに決まってるんです。そういうことをするものだからかえって懐かれて、顔見知りどころか友達になっていたでしょうし、何なら心配性だから送り迎えにお守りも付けてたかもしれませんね」


 水が飛んでこない。

 肇は続けた。


「だからそれをやめさせるために、幸多くんの記憶を弄ったんだと思います」

「――えぇっ」

 驚いて、櫻子は声を上げた。


「できるんですか、そんなこと」

「普通はできませんが、登川の主は相当強力ですからね。夜ですし、自分の縄張りの中です。完全になかったことにするのは難しいでしょうが、薄れさせるくらいのことなら朝飯前でしょう」


 たとえば、と肇は言った。


「夢の中の記憶だったように、錯覚させてしまうとか」


 その言葉で櫻子は、うっすらとこの話の全体が見えた気がした。


「しかし、現実の出来事を夢の中の出来事だと錯覚させたものだから、逆のことも起きてしまった。幸多くんは今度は、現実で夢の中にいるような行動を始めてしまったんです」

「……夢の中で、登川の主さんに会いに?」

「本人は無意識でしょうがね。たぶん、主との記憶を夢にしてからも、まだしばらく幸多くんはこの場所まで来ていたんでしょう。それで術が不完全になって、夢と現実が混ざりっぱなしになってしまった」

「おい」


 川の中から声。

 見ればぷかりと目の辺りまでを、主は水面から突き出していた。


「そういうときは、どうすればいい。一応、お前の意見も聞いてやる」

「自分の性に合ってない繊細な術は使わない」

「――今後の心構えじゃなくて、今どうすればいいのかを訊いてるんだよ!」

「そりゃ、何が現実なのかをきっちり教えてやるんだよ。ほら、起きな」

「あっ、」


 お前、と主が言ったときにはもう遅かった。

 ぶに、と肇が幸多の頬を掴んで押す。やわらかくそれが凹んで、戻ると、瞼が開く。


「ん……」

「や、少年。夢から覚める時間だぜ」


 肇が言えば、少しずつ幸多は目を覚ましていく。大してこちらを警戒していないのか、それとも寝起きが悪いのか。お店の人、お姉さん、と順繰りにこちらの顔を確かめて行って、


「――――、」

 主の姿を見ると、大きく目を見開いた。


 幸多が起き出す。肇の膝の上から離れて、とつとつと、ゆっくりだけれど確かに、川べりの妖に近付いて行く。


 妖はばつの悪そうな顔で南の空を見ていて――けれど決して、逃げはしない。


「さ、行きましょう」

 小さな声で、肇が言った。


 大丈夫なんですか、と櫻子は訊きそうになる。

 けれど、あの二人の姿をもう一度見てしまえば、


「――はい」

 素直に頷いて、一緒に河原を離れることにした。


「これで、幸多さんは夜にひとりでに道に出て行くこともなくなるんでしょうか」

「もう二、三回くらいはあるかもしれませんが。登川の主がついているなら危ないこともないでしょうし、心配ないでしょう。自然になくなっていきますよ」


 ですか、と櫻子は言った。

 ええ、と肇は頷く。


 流石に一人で家に帰すのは心配だから、少し離れたところで幸多たちの話が終わるのを待つことにした。川のせせらぎ、月の夜。橋から少し離れたところで、二人は立っている。


「眠くありませんか、櫻子さん」

「ちょっとだけ。今日は色々あったので、明日、起きるのが少し遅くなってしまうかもしれません」

「すみませんね。折角早寝早起きの健康な生活をしてらっしゃるのに。道連れにしてしまって」


 いえ、と櫻子は答える。

 それからふと、思い出したことがあった。


「『ここ掘れ犬』って」

 それは三田村親子が訪ねてきたとき、肇が三田村の父と二人で話をしていた時間のこと。


「三田村さんに、お売りしたんですか」


 幸多と話し終えて戻ったとき、机の上にあの紙細工が置かれているのを櫻子は見ていたのだ。そのときは「なるほど」と得心いったものだった。ふらふらと夜中に出て行ってしまう子ども。それを心配して、見つけたい親。見つけるための道具。


 絶好の商売の機会ではある。


「あー……その」

 しかし肇は、ばつが悪そうに首に手をやって、


「考えはしたんです。確かに、こういうときにこういうのを売るのがいいんだろうなと。ただ……」

「ただ?」

「子を思う親の不安に付け込むのも、いかがなものかと思って。下手に心当たりもあったものですから、その……置き薬と同じで、使った分だけ払ってもらえればということにしまして」


 そうなると。

 使った分だけ払うということは、問題が解決して幸多が家から出なくなれば、当然それを使う必要もなく、払う金もないということで。


 所在なさげに、肇は肩を落とす。


「儲けはないものかと。申し訳ない」


 なるほど、と櫻子は思った。


 これだけてきぱきとした人で、接客もまずいわけではなさそうで、あれだけたくさんの売り物があって、どうして経営が成り立たなくなるのか不思議だったけれど。


 こういうことだったのか、と思うと同時。

 一緒に立て直すと言った従業員にあるまじき本音が、喉に上ってきてしまう。


「いえ。素敵だと思います」


 肇が、自分の顔を見た気がした。

 恥ずかしくてそっちを見られないから、気がしただけだけど。


 やがて、幸多が戻ってくる。

 にこにこと人懐っこく笑って「ありがとーございました」と頭を下げる。それから、


「おねーさん、」

 矛先がこっちに向いて、


「しゃべったでしょ~」

「あ、うん。ごめんなさい。内緒で教えてくれたのに」


 本当に悪いと思っていたから、素直に櫻子は頭を下げる。

 しかし幸多は、本当に怒っていたわけではないらしい。


「んーん。いいよ」

 ただのたわむれだったみたいに、にこりと笑ってから、


「……それより、お父さんに言う?」

 こっちは本当に不安げな顔で、窺ってくる。


 ええと、と櫻子は肇を見た。

 肇は「うーむ」とわざとらしく腕を組んで、


「喋っちゃおうかな。私はこっちの優しいお姉さんと違って、口軽いし」

「えー!」

「は、肇さん……!」

「冗談だよ、冗談。ただ、子どものことだからなあ。お父さんも心配してたし、何らかの形で安心はさせてあげたい。君だってそうだろ?」

「…………うん」


 幸多が頷くのに、肇は微笑んで、


「お母さんには一度怒られてるみたいだから、うちからそっちに手紙を書いて、それとなくお父さんにも伝えてもらおうか。それならどうだい」

「……川の人のことも、言う?」


 うーん、と今度は肇も本当らしく悩んだ。


 櫻子に少し肩を寄せてきて、


「櫻子さん、文筆の自信はありますか。私はこういうの、人に信じさせる自信がないんですが」

「私も、あまり……」


 ここに来て、櫻子はちょっとだけ肇の気持ちが理解でき始めている。


 彼が妖関連の怪しいものを出しては「今は深く考えなくていいですよ」と流してしまう仕草の理由。確かにいざ自分がこうして「そういうものだ」と理解できた側に立ってみると、他の人にそれを上手く説明できる気は、全然しない。


「じゃ、言わないかな。適当にこっちで、それらしい言い訳を考えるよ」

「…………ううん、いいや」


 幸多は、ぱっと笑って顔を上げた。


「やっぱ、自分でお父さんに言う。心配かけちゃったし――優しくしてもらったって、ちゃんと言いたいもん!」


 肇が驚いた顔をする。

 でも、不思議なことにこのおかしな夜の中で、一つだけ。唯一この結末にだけは、櫻子は大して驚かなかった。


「そっか。頑張ってね、幸多さん」

「うん!」


 微笑んで、彼を励まして、だって、と櫻子は思い出している。

 橋の向こうから、遠い河原に見たあの光景。


 春のせせらぎと光る川。その向こうに立つ幸多が一生懸命に、登川の主に話しかけていた視線。そのきらめきを。



 夢に見て通ってしまうほどの相手が、もしも夢ではなかったら。

 それはどれだけ嬉しいことだろう、なんて。



 そんなことを見て取るにはもしかすると、彼は幼すぎるかもしれないけれど。


「それじゃ、帰りますか」

 肇の言葉が合図になって、三人並んで歩き出す。


 耳を澄ましてみれば、川べりからは詞のない歌が聴こえた。

 振り向けば水の飛沫が、新しい星のように夜空に散ってきらめく。ぱしゃ、と水を弾く音は、まるで「子どもは早く寝ろ」とでも言うようで。


 子守歌に抱かれるようにしながら、夢うつつの家路を辿る夜だった。




 後日。

 父に大層怒られて半泣きになった幸多は「家出する」と学校鞄を背負って店に訪れて、大慌ての三田村父は、気苦労も多そうに頭をぺこぺこ下げに来る。


 その可愛らしさに、櫻子は肇と顔を合わせて笑った。



 お得意様、二名追加。



(第二話・了)

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