三
あの日。
肇は言った。
婚約者から始めさせてください。
櫻子は言った。
はい。
稲森は言った。
すまん、肇クン。
「は?」
そのときになって、ようやく肇は振り向いた。
後に稲森と名乗ったその茶色い髪の青年が、耳も尻尾もまろび出して、所在なさげにぽつねんと部屋の入り口に立っているところを、彼は見た。
凄まじい緊張が走った。
櫻子は、目を逸らした方がいいのかすごく悩んだ。見ちゃいけないものを見ている気がする。いや、そもそも見えなかった体で通してしまった方がいいのかもしれない。今まさにその青年の姿は自分の眼に映っているわけだけど、しかしどうもこういうのは、一生見えないままで過ごす人も結構いるのではないかという気がする。
見えていない体で通せば、目の前で額に指を当てて考え込んでいる肇の頭の中から、いくつかの悩み事を消せるのではないかと思っていた。
「……えー。そうですね。婚約ということですし、紹介してしまいましょう」
けれど、結局肇は口を開いてしまう。
「こちら、うちの馴染みの取引先の化け狐です。
『最見屋』は主に、物の怪の品々を扱う道具屋でして」
❀
「あ、春河さん」
どうしているだろうかと思ったら、ちょうど行き会った。
次の日の昼のことだった。あれからどうしただろうと考えていても、こっちは三田村の家も知らないし、訊ねて答えてくれるような近所付き合いもまだない。商店通りの方に行けばひょっとしてと大して望みもないまま足を伸ばせば、しかし三田村はその道中、ちょうど登川を渡る橋の前で向こうからやって来た。
彼は深々と頭を下げる。
「昨夜は本当にありがとうございました」
「いえ、お気になさらないでください。幸多さんのご体調はどうですか?」
「念のため医者に連れて行きましたが、少し身体が冷えた以外は何もなく、水も飲んでいないそうで。本人もけろっとしたものでしたから、そのまま学校まで送り届けてきたところです」
「そうですか。よかったです」
「ええ。お宅には改めてお礼に伺います。ご家族の方にも、どうぞよろしくお伝えください」
ご家族という言葉に、すぐにはピンと来ない。
来れば、
「あ、あのとき一緒にいたのは、夫ではなくて」
「え?」
「こ」
婚約者で、と言おうとして、
「……ご縁があって。住み込みで、あの店で働かせてもらっているんです」
何だかそういう、本決まりでもないのに外堀から埋めてかかるような行為が今更恥ずかしくなって、そんな風に言ってしまう。
言ってから、これはこれで肇が『婚約者でもない同年代の女と二人で暮らしている謎の男』になってしまうのではないかと気付いたけれど、どうも三田村はそのあたり詮索をしない人物らしく、ああ、と微笑んだ。
「そうですか。では、店主さんによろしくお伝えください」
❀
「そうですか。よかったですねえ」
よろしく伝えてみたところ、ようやく起き出してきた肇は、心からの言葉というようにそう言った。
昨日は夜遅かったのもあって、家に戻ったらそのままそれぞれの寝室に向かってしまった。だからあれ以来顔を合わせるのはこれが最初ということで、つい櫻子は訊いてしまう。
「昨日お使いになっていたのは……?」
「お察しの通り、物の怪の品ですよ」
台所で肇は背を向けて、湯呑に茶を注ぎながら言う。櫻子はその隣の居間で、座卓の前に座ったまま。私がやりますと言ったものの、肇は譲らなかった。今のところ人の台所にずかずか乗り込んで仕事を奪う度胸は、櫻子にはない。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
こと、と二人分の湯気立つそれを座卓に置くと、肇は櫻子の正面に座った。
彼は、懐に手を差し入れる。
「『ここ掘れ犬』と言います」
取り出したのは、三田村が息を吹き込んだのと同じ、紙細工の犬だった。
「犬妖の妖気を込めたもので、匂いを嗅がせればそれを追って走り出します。この手の折り紙物は作りやすく、保管に場所も取らないので結構多くあるんですが、その中でも特に使いやすいものの一つですね」
「……はあ。なるほど」
「呑み込めませんよねえ」
へらりと肇は笑った。
すい、と『ここ掘れ犬』を着流しの袂にしまい込む。
「妖だの何だのは、ひとまず気にしないでおいてください。最見屋は少し変わった品を扱っていて、少し変わった者がそれを売り買いする。舶来品の店とそんなに変わりませんよ」
全然変わると思う。
が、今ここを深追いしてもどうせ心から納得することはできないだろうと自分で思うから、櫻子は「はい」と素直に頷く。
にこ、と肇はもう一度笑うと、ず、と茶を啜った。
❀
「ごめんください」
と三田村親子が最見屋を訪ねてきたのは、その日のうちの夕暮れ前のことだった。
ご丁寧に、手土産も持って三田村は現れた。玄関先では何ですからと招き入れた先は、店の方。閑古鳥を通り越して不気味に至るその閉店間際の内装に、三田村はぎょっとして、幸多は目を輝かせる。接客用の四人掛けの机に今度こそ櫻子が茶を出してみれば、やはり深々と三田村は頭を下げた。
「改めまして、昨夜はありがとうございました」
「ありがとーございました!」
「いえいえ。幸多くんも、何事もなかったなら良かったです。大丈夫かい。随分ずぶ濡れだったけど、風邪を引いたりしてないか」
うん、と幸多は頷く。
顔色は、やはり良い。やせ我慢ではなく本当のことなのだろうなと櫻子には思える。
つまらないものですがと三田村が饅頭を差し出して、いやいや大好物ですよと肇が受け取る。こっちも多分本当のことだろうなと櫻子は思う。ここ数日一緒に暮らしているけれど、この人は何を食べても「好物です」しか言わない気がする。
「それで――ああ、込み入ったことでしたらお答えいただかなくても結構ですが。昨日はどうして、幸多くんはあんなところに?」
肇が訊ねれば、三田村親子はそっくりの仕草で顔を合わせた。
「それが、わからないんです。本人も記憶がないようで」
「記憶がない?」
「全然おぼえてない」
曇りのない目で、幸多は言った。
「ぼく、家で寝てただけだもん」
「へえ……それは奇妙ですね」
「あまりこういう嘘を吐く子でもないので、本当だとは思うんですが」
そわ、と居心地悪そうに幸多が身じろぎをするのを櫻子は見た。
だから立ち上がって、
「幸多さん、お店の中に興味がある?」
訊ねれば、幸多がぱっとこっちに目を向ける。
「肝試しはさせてあげられないけど、よければ見ていってくれないかな。このお店が他の人からどう見えるのか、ちょうど気になってて。色んな人から意見を聞かせてもらいたいなと思ってたんだ」
幸多が大きく頷くから、櫻子は三田村に頭を下げて席を離れる。すれ違いざま、小さく肇が「助かります」と言う。
二人の話し声が聞こえなくなるような奥の方まで、櫻子は幸多を連れて行った。向こうは向こうで大人同士、話したいこともあるだろう。
「へー……。この家、ほんとにお店だったんだ」
「うん。私もここで働き始めたばかりなんだけど」
「お客さん、来る?」
「…………」
蔵の方にあるものはまだまだ何もわからないけれど、店先に出ているものについては一通り、肇から教わっていた。曰く「比較的癖もなく、普段使いしても問題ないもの」だという。
とは言っても、一目見ただけでは何に使うのかもよくわからない、ついさっき遺跡から引っこ抜いてきて磨いて陳列してみましたというものも多数並んでいるから、
「よくわかんない」
「……そうだよねえ」
「あ、でも雰囲気はあるね! 雰囲……あれ、ふいんき?」
当面のところ自分がやるべきことは、帳簿とにらめっこなんて高度なことじゃなく、陳列棚にわかりやすい説明書きを作ることらしい。思いがけず自分の仕事を見つけつつ、「雰囲気で合ってるよ」と幸多に伝える。
しばらく、あれを取ってこれは何、それを取ってこれは何が続いた。
ただの出来の良い花瓶やら食器やらもあれば、妙に使い勝手の良い家財道具もあるし、目を剥くような高額の紐切れなんてものもある。幸多は愛嬌の塊のような反応で、いちいち驚いたり笑ったり、ころころと表情を変える。
けれどやはり、昨日のことを全く気にしていないわけでもなかったらしい。
「ねえ、」
実演に、と自分の手に嵌めておいて抜けなくなった手袋を、幸多に引っ張ってもらってるときのことだ。
しゃがみ込んで、頭の位置が近くなったからかもしれない。声が小さくても届くようになったとか、目線がぴったりと合って打ち明けやすくなったとか、きっとそんな、些細なきっかけだったのだと思う。
「さっきの、嘘だと思う?」
瞳に不安を滲ませて、幸多は言った。
表情の豊かな子だから、どういう意味で言ったのか一目でわかった。だから櫻子は、望む通りの言葉を言ってあげることにする。
「ううん。信じるよ」
微笑みかけた。
「起きたら知らないところにいたなんて、怖かったでしょう。大変だったね」
「…………」
しばらく幸多は、何も言わなかった。
あまりにも何も言わないままなので、櫻子が次の話題を探して困り始めた頃、不意に、彼はあたりをきょろきょろと見回す。
誰もいないと確かめた後に、
「耳、貸して」
そっと櫻子の方に口を寄せる。
「あのね。さっきのはほんとにほんとのことなんだけど――」
昔ね、と。
少しだけ幸多は、打ち明け話をしてくれた。
❀
「お母さんがご実家に帰られてるそうです」
「っ」
「うわ、大丈夫ですか!」
あまりにも突然に肇が言うものだから、味噌汁を噴き出しそうになった。
三田村親子が何度も礼を言って店を後にして、それからここ数日のいつもの流れとして、ふたりは居間で夕飯を前にしている。けほ、と顔を逸らして咳き込みながら、涙目になって櫻子は言う。
「だ、大丈夫です」
「そうですか? あんまり大丈夫そうには見えませんが……」
「大丈夫ですっ」
すん、と一度だけ鼻を啜って取り繕う。
落ち着き澄ましたように背筋を伸ばして、櫻子は話を戻した。
「ご病気か何かですか。それとも……その、仲があまりよろしくないとか」
「いや、それが逆らしいんです」
櫻子が幸多と話している間、肇も三田村から色々聞いていたらしい。
何でも、と彼は、
「幸多くんには双子の弟妹がいるそうでして」
「あ、それは聞きました」
「幸多くんから?」
「はい。去年に生まれて、夜泣きの世話が大変だったと」
「ああ、そこまでご存じでしたか」
それなら話は早い、と肇は言った。
「幸多くんのお父さんは、お仕事はバスの運転手をされているそうなんです。本人曰く『神経質で慎重な性質』だそうで、そういうところが仕事にも活かされてるそうなんですが……」
「ああ。夜泣きに反応してしまって眠れないと」
「ええ。で、あやし続けて朝なんてことも珍しくなかったそうで。しかしお母さんが『人の身体を預かる仕事に寝不足で行くなんて、危なっかしくて仕方がない』と仰って」
それで櫻子も合点がいった。
「夜泣きが収まるまでの間は、ご実家にしばらく戻られているということですか」
「ええ。母方のご実家との関係は良好だそうで。そういう形で今は、幸多くんだけがお父さんとこちらで暮らしているそうです」
櫻子は、少し悩んだ。
言うべきか言わざるべきか。しかし思い返してみれば、あの後「お父さんにはひみつだよ」と言った幸多は、本当のところ誰かにそれを知られたがっているように――心にかかる隠しごとを、なくしてしまいたがっているように見えた。
それに何より、昨日の夜のことが心配で、
「肇さん。昨日の幸多さんの行方不明って、肇さんの中では原因に見当が付いているんですか」
「……うーん……」
肇が腕を組んで、考え込む。
だから櫻子は、言ってしまうことにした。
「あの、」
卓袱台の上に身を乗り出す。「ん?」と肇が何もわからないだろうまま、同じようにこちらに身体を傾ける。
しー、と櫻子は口の前に人差し指を立てて、
「これ、私が言ったって秘密ですよ。特に三田村のお父さんには絶対に言わないでください。約束しちゃいましたから」
ええ、と肇が頷くから、その先を続けた。
「幸多さん、一時期それで、夜に家を出ていたことがあるみたいなんです」
驚いた顔で、肇が櫻子を見る。
「それはどういう……」
「お母さんがご実家に戻られているのは知らなかったんですが、さっき、弟妹の夜泣きの話は聞いたんです。幸多さん、お父さんもそうですけどお母さんもつらそうに見えたって」
幸多の話はこうだった。
お父さんは夜に起きると昼の仕事がつらくなる。お父さんを起こさないようにすると、お母さんが全然眠れなくなって、それだってつらくなる。
だから、
「もしかして、弟妹を連れて外に出てたんですか?」
「そうらしいんです。夜通し出ていたわけではないそうなんですけど」
父と母の眠りが深くなった時間を見計らって、むっくりと幸多は起き出した。
弟も妹も、小さくてかわいい。でも、お父さんにもお母さんにも、ゆっくり眠る時間が必要だ。幸い兄として二人には好かれているみたいで、おんぶにだっこでも全くむずがる気配はない。
よし、と準備は万端で。
えっちらおっちら、幸多は夜の静けさに繰り出していく。
「……ものすごく危なっかしい子ですね」
「最後はお母さんに見つかって、目から火花が散るほど怒られたそうです。もしかすると、それが切っ掛けでお母さんもご実家に戻られたのかも」
話し終えて、櫻子はちょっとした罪悪感に包まれている。
確かに約束通り、幸多のお父さんには話していない。しかし打ち明け話を人に横流ししてしまったことには、自分で自分に思うところがある。
だからせめて、それが何か少しでも幸多の役に立てばと思って、
「幸多さん、だから夜更けに家を出たことが全くないわけではないそうなんです。……その、昨日のことの手掛かりになればと思って」
「ええ。話してくれてありがとうございます。何が起こったのか、さっぱりわかりました」
「はい……え?」
訊き返せばしかし、肇は冗談の顔をしていない。
櫻子さん、と彼は言った。
「今日この後、少しだけ夜更かしに付き合ってもらえませんか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます