二
夕飯を終えて、お風呂を終えて、床に就く。
貰った一人部屋。布団に横たわって天井を見つめながら、いまだにふわふわと夢見心地の頭を動かして櫻子は思い起こしている。
あの日、あの後。
櫻子もすぐに正気に返ったが、肇もすぐに我を取り戻した。
彼は言った。いやいやちょっと待ってください。つい頷いてはしまいましたが、実際のところ本当に、私はこれからどう暮らしていくかの展望がろくにないんですよ。そんな状態であなたと――というかどなたかと結婚なんて、無責任なことはできません。
櫻子は言った。
はい。
彼は言った。
その、お気持ちは大変嬉しい……というか、そこまで飲み込んでいただいた上でこれから二人でこの店を立て直そうという意味でのお言葉だったなら、私の方でもその、喜んでお受けさせていただきたいという図々しい気持ちはあるのですが……。
櫻子は言った。
はい。
彼は言った。
…………。
櫻子は何も言わなかった。
彼もまた、何も言わなくなった。
そのまま時代が移り変わってしまうような、長い沈黙。
その末にとうとう、ふるふると唇を震わせながら櫻子は言った。
「じゅ」
「じゅ?」
「従業員から、というのはどうでしょう」
おそらくこういう台詞で始まる結婚の申し込みは、古今東西これ以外になかったのではないかと思う。
「母に習って、経理の心得があります。ここで働かせていただいて、最見屋さんが持ち直すようなら……その、最見さんの暮らしの先行きが見通せるようになりましたら、そのとき改めてお考えいただくというのは、どうでしょう」
肇がじっと櫻子を見た。
その後、ぐに、と自分の頬を抓った。
「何だか自分にとんでもなく都合の良い、浅ましい夢を見ているような気分なんですが」
抓り終えて、彼は言う。
「そういうことであれば、喜んで。婚約者から始めさせてください、櫻子さん」
櫻子は言った。
はい。
そして今、こうして櫻子は婚約者兼従業員として最見邸で暮らしている。
いつものようにあの日の記憶を思い起こして、櫻子は仰向けになっていた身体に寝返りを打たせる。日中に日干ししておいたふかふかの枕にうつ伏せになって、顔を埋める。
叫ぶ、
「――――っ!!!」
わけにもいかないので、枕を抱えて静かに暴れた。
本当のことを言うと、全然こんなのでは足りない。全く発散できない。ここに来てからも毎夜毎晩こうなっていることからも明らかだ。この何とも言いようのない含羞やら何やらを外に弾き出すだけの激しい行動を取れなくて、毎日毎日、下手をすれば余計に熱して内に溜め込んでいるだけなのだ。
何かの間違いなのではないかと思う。
あんな――あんな馬鹿げた、恥ずかしいこと!
思い返すたびに、櫻子は顔から火が出るような気持ちになる。女性から男性にというのだって珍しいのに、初対面の相手にあんなに情熱的に、一方的に――本当に、本当にありえない!
いつもの自分だったら、絶対言わなかった。
おかしくなっていたとしか言いようがない。そうだ。あのときの自分は、おかしかった。おかしくなっていたからあんなことを言ったのだ。髪を褒められたり黒く染めてもらったり、あんな距離で瞳を覗き込まれたり……考えてみれば、そうなる理由も山ほどある。普段の自分だったなら。時間が戻せるのなら、あのときにいつもどおりの自分のままで戻ることができたなら――
「…………」
こてん、と頭を上げた。
再び仰向けになる。天井を見上げる。毎晩毎夜の決まりごと。いつもの結論を櫻子は心に思い浮かべる。
でも。
あのときおかしくなっていて、よかった。
言わなかったら、後悔していたかもしれない。後悔しなくとも、もう二度と肇と会うことはなくて、黒く染めてもらったこの髪を後生大事に抱えたまま、この家に寄り付くこともなかったかもしれない。
でも今は、ここにいる。
彼の言うところの『自分にとんでもなく都合の良い浅ましい夢』のように、あの人の婚約者として、同じ家に暮らしている。
そう思うから、いつものように。
あのとき自分の気持ちを言葉にしてよかったと、温かい気持ちになって櫻子は瞼を閉じる。
ざり、と砂利を踏む音がした。
「………」
気のせいだろうか。
最見屋の広い庭の、空耳でなければその入口くらいで鳴った音だと思う。ほんの小さなものだった。猫か、狸か、あるいは風か。そのくらいの、耳に届いたこともすぐに忘れてしまうような小さな音。
実家で暮らしていた頃は、きっと気にも留めなかった。
けれど櫻子は、ばさりと掛布団を捲って起き上がった。
襖の前に掛けておいた茶羽織を手に取る。寝巻の上にそれを引っ掛けて、薄月闇、姿見の前に立っておかしなところがないかを確かめる。
襖を開けて、廊下に出る。
それほど遠くもなく、近くもない部屋。こんな夜分に訪ねるなんてはしたないとは思われないだろうか――そんな一抹の不安を残しながらも、櫻子は戸の前に立って声を掛ける。
「肇さん」
だって、気になるものは気になる。
何しろこの店は、そういう店なのだから。
「はい。どうしました?」
すぐに、彼は部屋から出てきてくれた。
「すみません、夜分遅くに」
「いえいえ。どうせまだ寝てませんでしたから。そのせいで朝が遅いんです」
あの、と小さな声で櫻子は言う。
「さっき、庭の方で音がしたような気がしまして」
「ほう。どんな?」
「大した音じゃないんです。砂利を踏んだような――」
口にすれば本当に大したことじゃないように思えて、櫻子の声はさらに小さくなっていく。すると、そのときだった。
どんどんどん、と。
表の戸を叩く音がした。
「…………」
「…………」
「……櫻子さんは、お耳がよろしいんですね」
「……こういうことは、よくあるんですか」
はい、と頷いてくれるのを期待していた。
「いいえ」
が、肇はあっさりそう答えた。
す、と襖を開け切って、彼は部屋の中から出てくる。本当にまだ寝ていなかったらしく、行燈の明かりが漏れ出していた。
「少し見てきます。櫻子さんは部屋に戻っていてください」
「い、いえ。私も行きます。従業員ですし」
「……うーん。傍にいてくれた方が、安全ではあるか」
それじゃあと肇が言ったので、二人で向かうことにした。
廊下のほとんどは暗く、月明りを頼りに歩くことになる。この家にも明るいランプが一つあるのだけど、それはお手洗いに使われている。肇曰く「一番明かりを必要とするのはここじゃないですか?」とのことで、実際、櫻子もそれには納得している。まさか一緒に付いてきてとも言えないから、この家の夜に向かうには、それがなければ怖すぎる。
実際、今も怖い。
寝室を含むこの居宅の一部はしっかりと壁に囲まれているから、誰が入ってくることもないはずなのだけど――しかし壁を問題としない何かが入ってくる可能性を、櫻子は否定できない。
廊下を曲がる。
遠くに、玄関が見える。
磨り硝子越しには、何の姿もなかった。
「気のせい……ではないですよね」
「思い切り聞こえましたからねえ」
肇の後に引っ付いて、櫻子は行く。
上がり框の前まで来たけれど、やはり戸の外に人の気配はない。暗がりの中、すとんと肇は草履に足を落として歩くと、内鍵も開ける。がらら、と音を立てて戸を開ける。
息が止まるかと思ったのは、庭の向こうに人影を見つけたからだ。
「どちら様ですか?」
暗がりの中でよく顔は見えないものの、どうやら痩せ型の男らしいということはわかった。
恰好は、大してこちらと変わりがない。寝巻に突っかけ。布団からそのまま這い出してきたような、乱れた髪。戸を叩いて反応がないのに諦めて、去って行くつもりだったのだろうか。庭の随分端の方で、彼はこっちを振り向いていた。
「あの、」
呼びかけられて、低い声でその男は答えた。
近付くにつれて、その顔がよく見えるようになる。三十から四十くらいだろう。貧相という風でもないが、頬がこけていて、どこか小心や神経質の印象がある。彼は切迫したような顔つきでこちらに向かって歩いてくると、
「こんな夜分に申し訳ない。こちらに、春河さんという方はおられますか」
不思議なことに、櫻子の名を呼んだ。
あまりにも意外だったから、櫻子はうんともすんとも返せなかった。しかし肇は立派なもので、櫻子の方を見ることもせず、その場から全く身じろぎもしないでこう返す。
「失礼ですが、どちら様ですか」
「三田村、と申します」
「あ、」
そこでようやく、櫻子は声を出した。
三田村と名乗った男がこちらを見る。縋るような表情。彼は絞り出すような声で言った。
「三田村幸多という子の父です。日中、春河櫻子さんという方とお話しさせていただいたと息子から聞きまして」
「え、ええ。はい」
そのとおりです、と櫻子も草履を突っかけて戸の前に下りていく。
「買い物の帰り道で、少しお話をしました」
「それが何か」
庇うようにして、肇がその間に立つ。
気を悪くするどころか、それを気にする余裕もなさそうに、三田村は言った。
「あの子がどこにいるか、知りませんか」
驚いて、櫻子は訊ね返した。
「いなくなってしまったんですか?」
「そうなんです。同じ部屋で寝たんですが、ふと夜中に目を覚ましたら、姿がどこにもなくて。夕食のときに、息子が春河さんの話を出したものですから、何かご存じではないかと」
「櫻子さん。幸多くんというのは?」
つ、と視線だけで肇が振り向いた。
「このあたりに住んでいる、小学生くらいの子です。今日の買い出しの帰りに話しかけられて。でも、すみません。どこに行ったかなんてことは――あ、」
「な、何か心当たりがありますか!」
声に出せば、ずい、と三田村は前のめりになる。
よほど我が子が心配なのだろう。しかし、櫻子が話せることもそう多くはない。関係ないとは思うのですが、という枕詞から始めて、
「その、このお店が学校で『幽霊屋敷』として噂になっていると言っていたんです。いつのつもりだったのかはわかりませんが、友達と誘い合わせて肝試しに行くつもりだと」
「…………」
肇が複雑げな顔をして聞いている。
「でも、私がこのお店の人間だとわかったら少し気が引けていたようで。お友達のお宅にご確認はされましたか?」
「それはもちろん。ですがどの子も家にいて……あの、こちらにうちの子が訪ねてきたりは」
「来てません……よね?」
「来ていませんね。それに、そんな話をしていたならなおさら、こんな夜中に一人で肝試しということもないでしょう」
そうですか、と三田村はさらに意気消沈して、今にも消え入りそうな有様になる。
櫻子も櫻子で、今日会ったばかりだと言っても、全く知らない仲ではない。私も一緒に探しますと、
「その子、夜遊びするような性質の子ではないんですか」
言い出そうとしたところで、肇が言った。
はい、と迷いなく三田村は答える。
「私には勿体ないくらいのいい子で。わんぱくなところはありますが、大人を困らせるようなことは全く……」
「なるほど。だからお父さんもそれだけ焦るわけですか」
ええ、と三田村は頷く。
しかし落ち込んでばかりもいられないのだろう。彼はそれを終わりに顔を上げて、
「夜分遅くに、大変失礼しました。ご協力に感謝します。では――」
「他にお探しの当てはありますか?」
踵を返そうとしたところに、さらに肇が重ねた。
三田村は苦々しげに、
「いえ。しかし遠くには行かないでしょうから、町を片端から歩いてみるつもりです」
「では、ここで一分だけいただけませんか」
訊ねつつも、肇は「はい」も「いいえ」も待たなかった。
「櫻子さんも、少しここで待っていてください」
す、と風のような足取りで彼は家の中に引き返していった。
困惑するのは、残された方だ。
「……何か、心当たりがおありなんでしょうか」
櫻子としても、三田村のその質問には答えかねる。
だって、もしも自分の想像が当たっていたとしたら、きっと肇は――
「お待たせしました」
やはり、箱を手にして彼は戻ってきた。
向こうで嵌めたのだろう、手袋でその箱を開ける。
以前に見たものよりもだいぶ小さい。ぱかりと開けると、そこには紙細工が入っていた。
「ちょうどよかった。三田村さん、これに息を吹き込んでいただけますか」
「息?」
「一緒に暮らしている親子なら匂いも似るでしょう。騙されたと思って、どうか」
さ、とほとんど無理やり押し付けるように肇はそれを差し出した。
三田村はしかし、かえって全く何を求められたかわからないからだろうか。案外と素直に、それに息を吹き込んだ。
ぽん、と紙細工が膨らむ。その形を見れば、犬を模したものだとわかる。
次の瞬間、目を疑うようなことが起こった。
「は?」「え?」
「さ、追いますよ」
犬の紙細工が、ひとりでに動き出したのだ。
何かが起こるだろうと予想していた櫻子にとっても、これは驚きだった。全く心の準備がなかっただろう三田村は、余計にそうだろう。やはり茫然として、紙細工と肇の背中が遠ざかっていくのを目で追うばかり。
「三田村さん、行きましょう」
「え、あ、はい!」
だから櫻子は、そう言って彼を促した。
幸いにして、紙細工の動きはそれほど速くはなかった。夜目の効かない中では追うのは難しかったかもしれないが、肇がそのすぐ後を行くから、彼の背中を見つけるのは難しくない。たたた、と早足で追っていく。
川のせせらぐ音が闇夜に響いて、それからはすぐだった。
「幸多!」
三田村が叫んで、全速力で駆けていく。少し遅れて、櫻子もその場所に辿り着いた。
登川のほとりだった。三田村幸多は今、肇の腕の中にいる。
びしょ濡れだった。
「幸多、幸多! 大丈夫か!」
「息もありますし、血色も良い。命に別状はないでしょうが、早く家に連れ帰って温めてあげてください」
幸多を抱きしめる三田村の背を、肇が優しく撫でる。
落ち着いた様子の彼に、半ば涙を流した三田村は訊ねる。
「まさかこの子、川に」
「いえ。そういうわけでもないようでした。私が見つけたときはもう川べりに、この姿で。詳しいことはわかりませんが、起きたら本人に訊ねてみてください。お家まで連れ帰るのに人手は要りますか?」
いえ、と三田村は幸多を抱え上げる。
ぎゅうっと、決して離さないようにするように強く抱きしめて、何度も何度も礼を言って、月明かりの向こうに去って行った。
残されて、櫻子は。
三田村の背が見えなくなって、息も落ち着いて、それからようやく肇に訊いた。
「さっきの、紙細工も」
ええ、と。
やはりあっさりと、肇は頷いた。
「妖から譲り受けた品です」
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