第二話 川べりの子守歌



「おねーさん、見ない顔だね」

 それはお互いさまというもので、櫻子は全然見知らぬ子どもからいきなり話しかけられたことになる。


 さいはて町には、少しばかり賑やかな商店通りがある。

 これがあるだけでも「一体どこが最果てだというのか」と文句を言いたくなるものだが、あるものはあるのだから仕方がない。米屋に酒屋、八百屋に魚屋、総菜屋。肉屋と服屋まであるのだから、もうここを端から端まで歩き通してしまえば生活に必要なものはひととおり揃うと言って過言ではない、そんな通りがある。


 夕暮れ時だった。

 カラスたちも示し合わせて西空へと帰路に就く、午後は六時ごろ。櫻子は手提げの布袋から葱の頭を突き出して、その子どもに向き合っていた。


 櫻子も大柄な方ではないが、その子どもの方がずっと小さい。

 小学校の中頃か、それともそれより幼いか。表情や話し方から見て男の子らしかったが、ちょっと見にはそれもわからないような頬のやわらかげな顔立ちで、まん丸い目が好奇心と夕陽の橙色に輝いている。


 つ、と不安になって櫻子は、横髪を一房、指先に取って見た。

 色は、あれ以来ひとつも落ちていない。


「このあたりの人? あ、旅行じゃないよね。何にもないもん、ここ!」


 元気で人懐こい子のようだった。

 本当に見知らぬ人を見かけたからなのか、それとも自分の髪がいまだに短いのが目に付いたか、何にしろこちらに興味を持っているらしい。


 知らない人と話すのは、正直なところ緊張する。

 でも、少しずつできるようになっていこうと櫻子は思うから、


「うん。最近こっちに越してきたの。よろしくね」

 そんな風に、微笑んで返した。


 そうなんだ、とやはり興味津々の様子で子どもは言った。ぼく、と名前も名乗る。三田村みたむら幸多こうた。だから櫻子も、同じように返す。春河櫻子。

学校鞄を背負っているから、どこかで遊んできた帰り道なのだろうか。


 行く道は同じらしく、幸多はそのまま櫻子の隣に並んで歩き始めた。


「引っ越してきたのってどこから?」

「東ノ丸」

「都会!」

「そんなことないよ。あそこも端の方はまだ開発が進んでないから」

「えー。でもいーなー。遊ぶとこたくさんありそうだもん。こっちはほんと、面白いもの何にもないし……」


 けん、と幸多の爪先が小石を蹴る。


 かつん、かつん、ぽつ。それは二度ほど道路の上を跳ねると、水辺に吸い込まれていく。さいはて町には、北から西に向けて斜めにかかる『登川』という川があった。意外と立派なもので、橋の上から見下ろす水辺は遠く、転落防止の欄干はかなりしっかり作られている。夏にはそこから飛び込んで遊ぶ子どもたちもいるそうだが、いい加減危ないから禁止しようという話も出ている――らしい。


 それらは全て、肇から聞いた話だ。


「あ、でも」

 小石が川に消えるのを見届けて、幸多が顔を上げた。


「一個だけあるよ。教えてあげよっか」

「ほんと? なあに」

「お化け屋敷!」


 目を輝かせて、彼は言った。


「橋のこっち側の、町外れの方に大きなおうちがあるんだけど。知ってる?」

「……うん。知ってる」

「あそこねえー、ほんと不気味なんだよ!」


 櫻子は、何とも言えない気持ちになっている。

 そうなんだ、と何とも言えない顔で笑う。


 幸多は言った。ずっと空き家だったんだけど、その頃から不気味だった。桜の木があるのに毎年全然咲かないし、今にも崩れそうなくらいぼろっちい。大人の人が言うには昔、怪しいお婆ちゃんが住んでた頃はちゃんとした家だったのに、その人がどこかに行っちゃってから急にぼろっちくなった。それでねそれでね、最近そこのおうちに人が帰ってきたって噂が学校で流れてて、茶色い髪の変わった人なんかが出入りしてるらしくて、


「今度、みんなで肝試しに行ってみようって言ってるんだ。あ、お姉さんも気になると思うけど、先に行っちゃダメだよ!」


 幸多は力いっぱいの笑顔を浮かべた後、その笑みを消し切れないまま、いかにもおどろおどろしく両手を胸の前に掲げて、


「軽い気持ちで行ったら、お化けに呪われちゃうかも……」


「櫻子さん」

 声がした。


 見れば、これからふたりが歩いていく先の方からだった。竹林を取り囲むように据えられた、大きな曲がり道。夕焼けもいよいよ今日の間際と見えて、その木陰を赤黒く焦がしている。


 茶色い髪の青年が、そこに立っている。


「稲森さん」

「お久しぶりです。ちょうど近くに立ち寄ったら、お屋敷の中にいないものでしたから。夜も近付いて物騒だと思い、迎えに来てしまいました。お買い物でしたか」

「はい。肇さんはお忙しいかと思って、私ひとりで」


 どうもありがとうございます、と櫻子は頭を下げる。


 それから、隣を見る。

 いない。


「……の、」


 見れば、さっきまでそこにいたはずの三田村幸多は随分後ずさって、自分から距離を取っていた。今にも逃げ出さんばかりの後傾姿勢。強張っているような、それでも愛嬌で誤魔化そうとしているような、そんな顔で彼は言う。


「呪わないでね?」

 呪いません、と櫻子は笑った。





「どうですか、最見屋は。馴染みましたか」

「馴染んだ、と言いますか……」


 そこから今度は、同行者は茶色の髪の青年――稲森、と名乗った彼に代わる。

 櫻子はいまだに全然、この人のことが呑み込めていない。


「正直まだ、何が何だかで。帳簿と店頭の整理は手伝っているんですが、それ以上のお仕事はまだ何もしていないようなものですし」

「まあ、でしょうねえ。そういった筋の方でもなくあの店のことが飲み込めるなら、それは相当変な人だ」

「そういった筋……も、あるんですか」

「あるんじゃないでしょうか。僕もよくは知りませんが」


 のらりくらりと、稲森は捉えどころのない話運びをする。


 見た目の印象だけで言えば好青年なのだけど、こういうところはむしろ肇と対照的だと櫻子は思う。あっちはいかにも妖しげなのに、ここ数日を共にしている限りでは全く誠実な人にしか思えない。あっちは、訊けば大抵のことはちゃんと答えてくれるのだ。


「どうですか、肇くんとはその後」

「どう……はあ、まあ。……はい」

「おや。初対面の印象ではてっきり、素晴らしく大胆な方だと思ったんですが。そのご様子では――っと」


 ぱしり、と稲森は自分の口を押さえた。


「すみませんね。肇くんのことは小さい頃から知っているもので、つい面白がってしまう」

「……はい」

「性悪の爺が相手だと思って、適度に邪険にしてください。なに、あれは風体こそいかにも最見屋らしい子ですが、歴代に比べれば相当に『良い子』ですから。心配なさらなくても、なるようになります」


 はあ、ともう一度気の抜けた返事をしてしまう。あんなのは面白がられても仕方ないと自分で思うから、そればかりに思考が囚われてしまっている。


 だから、ざ、と自分の足が砂利を踏む音が聞こえるまで気付かなかった。

 いつの間にか最見屋の前まで帰ってきていた。顔を上げると、「では」と稲森が言う。


「僕はこれで」

「上がられていかないんですか。折角ですし、お茶だけでも」

「これから別のところで商いがあるんですよ。行商ですから、忙しなくて」


 では、と稲森は軽く頭を下げて、さっさと立ち去ってしまう。

 いきなり背を向けるのも感じが悪かろう。櫻子はその場に立ち止まって、彼が向こうの角を曲がるまではと見送っている。


 曲がり角から、カラスがカーと鳴いて飛び出してくる。


 びっくりしたのだと思う。


 うわ、と稲森は身構えて、その拍子に耳と尻尾がポンと出る。


「…………」

 櫻子はいまだに全然、あの人のことが呑み込めていない。


 がらりと戸を開けて、ようやく帰宅する。大した距離を行ったわけでもないはずなのに、何だか大層な冒険だった気もする。


「戻りました」


 言うが、返事はない。

 まだ奥の蔵に籠っているのだろうな、と思った。


 最見屋は広い。

 表の玄関から入ったときのあの廃墟のような店内もそうだけれど、家宅用の玄関から入ったときの、このしんと静まり返った空気も、まるでどこにも人の気配がない、捨てられた家のようにすら感じるほどだ。


 軋む廊下を歩いて、櫻子は台所に入っていく。買い物袋を置くと、部屋の片隅の四角い箱の前に屈み込む。立っていれば、肩の辺りまで届くかというような高さの箱だ。


 開くと、ひんやりとした空気が中から漂ってくる。

 これは何ですかと訊ねれば、あのとき肇はさらりと答えてくれた。


「氷箱です。こっちのは氷の補給も要らないし、東ノ丸で売られているようなものよりはもう少し便利ですが。食べ物の管理がやりやすくなるので、売り物ではなく家財として扱っていて……誰から仕入れたのかまでは知りませんが、それこそ雪女かな」


 このことも、櫻子は全然吞み込めていない。

 しかしここに来てから、もう十日が経つだろうか。その十日をこの台所に出入りする中で、たった一つの事実は呑み込むことができた。


 この道具は、ものすごく便利だ。


 買ってきたものを全て詰め込んで、ぱたりと蓋を閉じる。

 立ち上がって、櫻子は少し悩んだ。このまま夕飯の準備を始めてしまおうか。それとも一言、家に戻ったことを肇に伝えようか。


 悩んだ末に、先に蔵の方に行くことにした。


「肇さん」

「ん、ああ」

 どうせここだろうと思ったら、やっぱりここだった。


 最見屋には、砂漠みたいな大きさの蔵がある。本邸とは屋根付きの渡り廊下で繋がっていて、昼に入ろうが夜に入ろうがいつも変わらず、背筋の寒くなるような涼しさが漂う。入ってからすぐに目にするいくつもの棚なんていうのはほんの始まりに過ぎなくて、奥に行くにつれて、店主である肇すらも知らないような得体の知れない品物がいくつも眠っているという。


 肇はやはり、帳簿を手にしてそこにいた。

 振り向くと、驚いた顔をする。


「もう夕方ですか。道理で文字が見えにくくなってきたわけだ」

「ずっとお仕事をされていると、倒れてしまいますよ。今日はこのくらいにしておきませんか」

「……ええ。そうですね」


 ぎゅっと肇は目をつむると、指の腹で眉間を揉む。

 いつものことだけれど、よほど集中していたらしい。肩が張っているのか、眉間から指を離せば首の辺りを擦ってもいた。


「っと、そうだ。氷箱が空になってたんだ。すみませんが、今から買い物に行くので夕飯はもう少し遅くなっても構いませんか」

「大丈夫です。私、さっき買い出しに行ってきましたから」

「お、本当ですか。それはありがたい……おひとりで?」

「帰りは橋向こうで稲森さんが迎えに来てくださいました」


 ああ、と彼は顎に手を当てて、


「そういえば、さっき来てたな」

「お茶だけでもとお誘いしたんですが、お仕事があるとそのまま去ってしまわれて」

「気にすることはないですよ。私がいないときにも勝手に上がり込んできて茶菓子まで食ってるような奴ですから。……しかしまあ、そういう意味ではあいつも多少、気を遣うようになったのかもしれませんね」


 今は私だけじゃなく、と。

 肇は手袋を丁寧に外しながら、微笑んで言う。


「婚約者の櫻子さんだって、この家に一緒に住んでるんですから」

「………ええ」


 だから櫻子も、色んな気持ちをないまぜにして、ぎこちなく笑った。


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