『おばあちゃん』はすごく嫌だったけれど、『化け物』の方がもっと嫌だった。

 けれど『雪女』は、そんなに嫌いではなかったかもしれない。



「ほう。やはり、言葉に美人の印象があるからですか」

「それもありますけど、雪が昔から好きだったんです。母がよく、『同じ色だね』って褒めてくれたから」

「なるほど、言葉に思い出が。……失礼。ひょっとして、『春の精』というのも良くない比喩でしたか」

「いえ、気になりませんよ。褒めてくださって、ありがとうございました」


 こちらからの申し出に、肇は少し戸惑った様子で頷いてくれた。

 だから今、櫻子はこうしてじっと座ったまま、彼に髪を梳かれている。


 これがいいだろう、と素直に思ったのだ。肇の申し出が善意から来ることは、口ぶりからわかった。そして同時に、商売が上手く行かずに店を畳むと言う人から物を貰っておいて、「その効果のほどを疑っている」という不躾な態度を取ったまま去るのは、どうしても櫻子としてはいただけないものがあった。


 だったら、この場で試させてもらおうと思ったのだ。

 だって、失敗したところで損することは何もない。


 どうせ、あってもなくても変わらないようなものなのだから。


「見たところ、あと十数分といったところでしょうね。肌に違和感はありませんか?」

「ええ、全く。すみません、お忙しいところを」

「お気になさらず。どうせやることといえば虚しい閉店作業ですから。それより、従業員の一人も雇う余裕がないせいで、髪を梳くのが私なのが申し訳ない。これだけよく手入れされているのですから、もう少し美容にこだわりのある者がいた方がよかったのですが」


 満遍なく櫛を入れるのがよいというので、肇にやってもらうことにした。

 恐れ多いな、なんて肇は零したけれど、手つきは慣れたものだった。元々器用な人なのかもしれない。さらりさらりと髪を流す姿は淀みなく、どこに引っ掛かることもない。


 途中から、櫻子は目を閉じていた。

 本当のところ、染まってくれるとは思っていない。


「いいんです。私、理髪師さんのところにもあまり行きませんから。こんな風にやっていただけるだけで新鮮で」

「そうなんですか?」

「ええ。もちろん、行けばしっかり仕事をしてくださる方もいらっしゃるとわかってはいるんですが、臆病で。ほとんど祖母や母に切ってもらっていました」


 ほとんど、と言ったのはもちろん、理髪師のところに行ったことも数回はあるからだ。


 染髪ができると宣伝していた店を、何度か櫻子は訪ねたことがある。大抵、話を聞けば理髪師は親身になって応じてくれる。そして実際に効果を見る段階になって、黒染めしたはずの髪からみるみる色が抜けていくのを目の当たりにして、その顔が曇っていく。


 それを経験しているから、櫻子はもう、この後にやることを決めている。

 大袈裟に喜ぶ準備を始めている。


「ははあ。それじゃあお祖母様もお母様も、素晴らしい散髪名人だ。枝毛だってひとつもありませんよ。お店を開かれるなら、ぜひ私も通わせてもらいたいくらいです」

「本当ですか?」

「本当ですとも。こんなに綺麗に整った髪は他に見たことがありませんね」

「二人が聞いたら喜びます」


 ほんの毛先だけでいいのだ。


 真白い髪の、ほんの先端が黒く染まればそれでいい。たったそれだけを掴まえて、大袈裟に喜ぼう。こんなに染まったのは初めてです。嬉しいです。私、本当に今日、勇気を出してここに来てよかった――。


 言えるはずだ、と櫻子は思っている。

 だって、半分は本音なのだから。


「ああ、そうだ。その、これは何とも私の方からは話題に出しにくいことなんですが」

「はい、何ですか?」

「今日、うちにご結婚の申し込みに訪ねてこられたのは、やはりこの髪に悩んでのことですか」


 髪を、綺麗だと言ってもらえた。

 お世辞だろう。わかっている。容貌も美しい人だから、女性慣れしていて、こんなのは何でもない挨拶のようなものなのかもしれない。そんなものを真に受けてしまうなんて、自分は世間知らずの愚か者なのかもしれない。


「――ええ。そのとおりです」


 それでも、嬉しかったから。

 きっと本当の気持ちで、「嬉しいです」も「ここに来てよかった」も言えるだろうと、櫻子は信じている。


「この髪では一生相手を見つけられないだろうと思っていたんですが、祖父から『最見屋』さんとの古いお約束の話を聞きまして。でも本当のところ、未練を断ち切るために来たんです。だから最見さんも、そんなに気にしないでください。かえって驚かせたり断らせたりしてしまって、申し訳ないくらいですから」

「いやいや、申し訳ないなんてことは全く。こんなに可愛らしい方からのご結婚の申し出なんて、平時なら夢物語です。私の側に断るべき理由がなければ、一も二もなくお受けしていましたよ。……しかし春河さん。これもまた、私からは言いづらいことなんですが」

「何ですか?」

「白い髪も美しいですが、黒く染まる途中の今もまた、とてもお美しいですよ。染め切ってしまえば、私みたいな商売下手のごく潰しなんか問題になりません。華族だろうが資産家だろうが、選り取り見取りの引く手数多です」


 本当に、と櫻子は思った。


 この人が言うことではないだろう。断った当人が「他にいくらでもいい人がいますよ」なんて。嘘だって、自分でわかるだろう。なんて残酷な言葉なんだろう。そう思う。


 けれど、


「本当ですか? 楽しみです」

 その拙い思いやりに、櫻子は自然に笑みを零した。


 結局、二十分ほどは費やしただろうか。

 肇の口ぶりからするとそのくらいらしいのだけど、会話が途切れることなく続いていたから、櫻子にとってはほんのあっという間の出来事だった。


 ちゃぷ、と盥の水に櫛が浸けられた音がする。

 よし、と肇が呟いた。


「これは会心の出来だな。素晴らしく染まっていますよ、春河さん」


 よくもまあ、と目を瞑ったまま櫻子は笑った。

 この真っ白な髪を相手にして、よくそんな風に言えたものだ。自分と違って、肇はずっと目を開けたまま色の変化を見ていただろうに。ちょっと自分が瞼を開けたらそれでわかってしまうような嘘を、どういう心境ならこれだけ堂々と吐けるというのだろう。


 何だか、妙な気がした。


 ついさっき出会ったばかりの人だけれど――これだけ気遣いをしてくれる人が、そんな嘘を吐くのだろうかと、不思議に思った。


「と。折角だから鏡の位置も調整しましょうか。目を開けたときに一番良い位置に見えるように……」


 いや。


 余計なことを考えるのはやめよう。櫻子は内心で、自分のその違和感を押し込める。妙な期待はしてはいけない。今までに学んだ一番重要なことはそれだ。落胆の表情なんて欠片でも見せてはいけない。髪を梳かれる間に準備していたとおりの大喜びをしなければ。


 でも――


「さ。これでいいでしょう。春河さん、いつでもどうぞ」

 心のどこかに、櫻子はそれを残してしまったまま。

 試しに目を、開けてみる。




 夢にまで見た姿だった。




「――――、」

 そんなわけない、と思う。

 こんなことが起こるわけがないと、櫻子は信じている。


 右に顔を動かした。次は左に。鏡の中のその姿も、応じて動く。そんなわけがないともう一度、強く思う。


 髪が、黒く染まっている。


 どこから夢だったのだろう、と考えた。


 目を閉じたところから、いつの間にか眠ってしまっていたのだろうか。いや、それともカラスから譲り受けたなんて真っ黒な櫛を見せられたところから? 『さいはて町』なんて奇妙な名前を訪ねたのだって怪しい。汽車だって物珍しくて、ずっと夢見心地だった。簪だって、祖父の昔話だって、考えてみれば全部、何もかも、嘘みたいに思えてくる。


 なのに。

 目の前にあるのは、現実にしか思えない。


「一応、こちらの水で色落ちしないかお試しになられますか」

 そっと肇が、盥を差し出してくる。


 櫻子は指を伸ばす。止める。直接、と訊ねれば、どうぞ、と返ってくる。

 指先を水に浸して、それから髪の先を少し擦ってみる


 見れば、その指には一つもその色が滲んでいない。

 鏡の中に映る髪は、全く黒いままそこにある。


「鏡に、」

「鏡?」

「鏡に、仕組みがあるんですか」

 そんなわけがないと思いながらも、つい訊ねてしまう。


 白い髪だけが黒く映るなんて、そんな鏡があるわけがない。そんなものの存在を認めてしまうなら、それ以前に自分の髪を黒くできる染料の存在を認めてしまった方が早い。それに、用意してもらった鏡を疑うというなら、自分の荷物の中に入っている手鏡を取り出して確かめてみればいい。


 けれど訊ねられた肇は、律儀にその鏡に仕組みがないことを証明してくれようとしたらしい。


 きょろきょろと彼は部屋の中を見回す。何かを思いついたような顔をする。す、と畳の上で足を浮かして、こちらに寄ってくる。


「見えるかな」

 顔も、前髪同士が触れ合うような距離まで寄せてくる。



「ほら。私の目の中で、綺麗に染まっているのが映りませんか?」





 さて、そのころ。

『最見屋』の屋敷の前に、ちょっとした足音が現れた。


 足音の主は、青年の姿をしている。

 さらりとした涼やかな出で立ちで、赤茶けた色の髪を春風になびかせている。首元の開いているのが寒いのか、日陰の残雪を見るや、首を竦めたりもしている。


 手にはどこで買い求めたのか、稲荷寿司の袋。

 ひょい、とそのうちの一つを咥えると、彼は勝手知ったる様子で『最見屋』の庭にすたすた入っていく。


 玄関の前。

 やはり彼は勝手知ったる様子で、戸を叩くことも、呼びかけることもせず、さらりと戸を開けると、すたすたと中へ入っていく。





 心臓が破裂する。

 と、思うくらいの動悸がする。


 何がどうなって、何が原因でこうなっているのか、全然櫻子にはわからない。


 顔がものすごく熱い。夏の昼に太陽の下で寝たってこんなことにはならない。絶対絶対、耳まで赤い。髪まで赤くなっているかもしれない。


 なってない。

 目の前の瞳を見れば、それがわかる。


「最見、さんは」

 かろうじて、唇から言葉を絞り出す。


 吐息の熱いのが知られてしまわないか、ものすごく不安になる。


「はい」

「さきっ、先ほど、その、結婚を断るのは、ご自分の都合だと仰って、ましたよね」

「ええ」


 にこり、と肇が笑う。

 櫻子は、どうにかなってしまいそうな気分になる。


「それさえなければ――私が一端の暮らしを営める程度に儲けがあれば、喜んでお受けしましたとも。自信を持って言えますよ。一年前の、まだ私が己の商売下手を知らないころに春河さんが訪ねてきていたら、身の程知らずにもその日のうちにご実家に挨拶に伺っていたでしょうね」

「でも、あの、」


 どういう勇気なのか、櫻子には自分で自分がわからない。

 というか、勇気なのかもわからない。


「『最見屋』さんは、本当は続けたい、ですよね」

「……まあ、そうですね。勿体ないとお思いでしょう。これだけのものがあって閉店というのも。私自身思い出深い場所ですから、できればと思ったんですが。どうにもこればっかりは」


 自分は今、命の危機にでもあるのだろうか。無数の記憶が頭の中に蘇ってくる。

 たとえば、それは祖父から聞いたあの山での出会いのことだ。


 祖父は自分で言う。なぜあのとき、あんな怪しい場所から聞こえてきた女の声に答えたのかわからない。あの声に答えなかったら今こうして山の外に出られなかったような気もするのだけど、しかしそれはそれとして、どうしてああいう勇気が自分から出てきたのかわからない――「生来の正義感だ」なんて自分で理由を付けて自信満々に語ることもあるけれど、一度聞いただけのこの呟きが、どうも真実めいたものとして櫻子の記憶には残っている。


 わかる、と思う。

 自分で自分が、わからない。


「あの、では、」

 たぶんこの日このとき、この瞬間でなければ、自分は一生こんなことをしようとは思わなかったのではないかと思う。


 だって、次々現れる記憶を見ても明らかだ。自分はこんなことをするような性質ではない。いつも控えめで、自分の意見を言うよりも引き下がることの方が多くて、だから、そう、絶対。絶対こんなことはしない。こんなことはしない一生を送る。


 本当なら、そのはずだった。


「最見さん」

 なのに。


「私が――――」





 赤茶けた髪の青年が、廊下を歩く。

 店を見た。帳場の奥を見た。蔵を見た。それでも見つからない。もぐもぐと食べ進めている稲荷寿司は残り三個。はた、と彼は足を止める。


 視線は一点。

 そこか、とでも言いたげに歩み出して、襖に向かって手を伸ばす。





 一番最後に櫻子の頭の中に現れたのは、幼いころの友人の姿だった。

 海の向こうからやって来て、海の向こうに去って行った、あの美しい、きっと一番だった友達のこと。


 彼女もまた、自分の白い髪を「綺麗だ」と言ってくれた。


 少し勝ち気なところがあって、我侭なところもあって、だけど飛び切り優しくて。

 そんな彼女の言ったことだから。


 ずっと頭の中に残っていて、最後に聞こえたのだと思う。



――あんたのその短くて真っ白な髪って、『ザシキワラシ』みたい。

――知ってる? 幸せを運んでくる、素敵なヨーセイさんのこと!





「私があなたを、幸せにします!」

 櫻子が、叫んだ。


 いつの間にか立ち上がっていて、肇の前で、両手をぎゅうっと握り締めて、何なら瞼までぎゅうっと瞑っていることに気付いて、これじゃダメだと全く正体不明の衝動に突き動かされて、


 今度こそ瞼を開く。

 真っ直ぐに、肇の瞳を見つめる。


 櫻子が息を吸う。

 肇が息を呑む。


「私と、」

 助走のような一瞬。

 その一瞬の間に、部屋の襖が滑り出して、





「私と、結婚してください!!」





 とんでもない大音声だったらしい。

 その声を発した当の櫻子はそれどころじゃないから、後になったらそんなことは全然覚えてない。そしてそれは肇も同じなのか、それともとぼけているのか、「そうでしたっけ」なんてことばかりを言う。


 証人になるのは、襖をすらりと開けた赤茶色の髪の青年だ。

 本当に驚いた、と彼は後に語る。


 その証拠に、ぽん、と彼の頭から狐の耳が飛び出てきた。


 今更だが、位置関係の話になる。肇は、その襖に背を向けていた。となると櫻子は襖の方に顔を向けていた。ぎゅっと瞑っていた瞼を開いていたし、いっぱいいっぱいの精一杯だったけれど、それでも確かに、その現象に目を留めるだけの視界はあった。


 狐耳の青年は、大層驚いていた。

 櫻子は、それどころではない驚きようだった。


「あ、えっと、」

 そして、残されたのは肇だ。


 彼はその言葉に気圧されたように櫻子を見上げている。言葉を口の先に彷徨わせる。それでも彼は、櫻子から目を逸らすことはなく、


 満を持して、こう言った。


「不束者ですが、どうぞよろしく……」


 ぽん、と最後は狐の尻尾が飛び出して。

 つまるところこれからの『最見屋』は、そんな場所。



 一枚、花びらが風に舞って空へと飛んでいく。

 長い長い、春の始まりだった。



(第一話・了)

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