「すみません、取り乱してしまって」

「こちらこそ。この程度のもてなししかできず申し訳ありません」


 あれから、少しの時間が経つ。

 櫻子は肇に導かれるがままに、『最見屋』の建物の中に招かれていた。


 玄関から入ってすぐはまさしく道具屋――ただし随分がらんとしていていかにも閉店寸前の――だったけれど、帳場の奥に入ってみれば、すっかり奥行き深い、広々とした伝統家屋である。きっと意図せぬ鴬張りだろう年季の入った廊下を歩いて行けば、妙に生活感の溢れる畳敷きの部屋に通された。


「他の部屋はあまり、清潔とは言い難く……」

 とは、部屋の襖を開けたときの肇の言である。


 ささこちらへ、と座布団を敷かれれば座布団に座る。

 ささこちらを、と茶を出されれば茶を啜る。


 本物の鶯がもう何度鳴いたことだろう。ようやく涙は引っ込んで、櫻子も落ち着くことができた。


「いえ、全く最見さんに落ち度はありません。さっきも申し上げました通り……すみません。涙声でしたから、もしかすると聞こえにくかったかもしれませんが。そういうわけで泣いていたのではないんです」

「はあ。ばっちり聞こえてはいたんですが」


 肇は不思議そうな顔で、


「そんなことがありますか。それだけ綺麗な髪なら、いくらでも褒められそうなものですが」

「……昔、褒めてくれた友人もいましたが。それきりです」


 ぽつぽつと、櫻子は語った。


 この髪の白色は生まれつきのものであること。学校に通い始めた頃、教室に並んだ一様に黒い頭を見て、自分が人とは違っていると知ったこと。表立って殴られたり蹴られたりということこそなかったものの、陰では色々と言われていたのを知っているということ。


 一房、髪を抓んで、


「このとおり、老人のような色ですから。『そうは思わない』と仰ってくださる方もいらっしゃいますけど、やはり人目にはぎょっとさせてしまいます。それを恐れるあまり、この年になってもこんなに短い髪のままで」

「東ノ丸では最近、海の向こうの影響で女性の短髪も流行り始めたと聞きますよ」

「あ、そうですね。私、実家は東ノ丸で」

「おや。では都会っ子だ」

「外れの方ですから、そこまででは。……でも、それもまだまだ一部です。私自身、長い髪には憧れがありますから」


 ふうむ、と肇は顎に指を当てた。


「髪の長さなんてものは、その人の好きにすればいいと私は思っているんですが。しかしそれだけに、自分のしたい髪型にできないというのはおつらいでしょうね」

「……ええ」

「染めてしまおうとお思いになったことは? 主義に合わなかったり、それとも薬剤が肌に合わなかったりしましたか」

「染まらないのです」


 つ、と白髪に目を留めながら櫻子は答えた。


「元々、白髪染めにも染まりの良い悪いがあるようなのですが、私は髪質の問題なのか特に効きづらいようで。舶来のものも色々試してみてもとんと……子どものころなんて、嫌になって墨に浸してみたこともあるんです」

「それも効かず?」

「ええ。水拭きしただけでさっぱり。筆先も黒くなるのだから髪もと思ったのですが、染みひとつ残りませんでした」

「なるほど。春河さん」

「はい」

「ひとつ、うちの髪染めを試してみませんか」


 はあ、と。

 櫻子は、気の抜けた返事をしてしまった。


「そんなものまで取り扱ってらっしゃるんですか」

「ええ。うちは節操のない店でして。『何がある』『何がない』というより『あるものはある』『ないものはない』という店なんですよ。実を言うと、譲り受けて以来こつこつ帳簿と品物の突き合わせを続けておいて、いまだに店主の私ですら全ては把握し切れていないほどです」


 しかし、と。


「ちょうど髪染めは、在庫を見つけておりまして。……まあ、こんな落ちぶれた道具屋の怪しい品物を髪に付けるのも躊躇われるかもしれませんが」

「あ、いえ。そんな」


 反射的に、櫻子は肇の自虐を遮る。

 そこでふと、ようやく落ち着いて相手の事情を気にかけられるようになった。


「先ほど、お店を閉められるとか」

「そうなんです。どうも商売っ気がないというのか、上手くいかなくて。どうやって祖母が経営を成り立たせていたのか不思議なくらいなんです。しばらく私なりに頑張ってみたんですが、これはもうどうにもならなかろうということで」


 できれば続けてみたかったんですがね、と彼は残念がるようにはにかんだ。


「在庫の商品も、順次売ってしまおうと考えていたところです。ご結婚のお申し込みについては、次の職も決まっていない不安定なこの身ではお受けいたしかねるところですが、何十年越しの縁です。どうか、記念と思って受け取ってはくださいませんか」


 そこまで丁寧に言われては、否とも言いづらい。

 それに、本人の言うとおりたとえそれが「怪しい品物」だったとしても、自分にとってはさしたる問題もない。これ以上髪が悪くなることもなかろうと、諦めもついているのだから。


「そこまで仰っていただけるのでしたら」

 おずおずと、櫻子は頷いた。


「あの、お代は」

「結構です。……と言いたいところですが、まあここはひとつ、現物を持ってきてからお話しすることにしましょう」


 よいせ、と彼は立ち上がる。


「さ。それでは蔵の方から取ってまいりますので少々――あっと。すみません、気が利きませんで」


 急須を手に取ると、とぽとぽと櫻子の湯呑に注ぎ足して、


「粗茶ですが、どうぞお待ちの間はこちらでもお飲みください。お手洗いでしたらこの部屋を出て右に真っ直ぐ、突き当たりです」


 それではと襖を開けて、閉じて、足音ごと遠ざかっていく。

 手持無沙汰になった櫻子は、あたりをきょろきょろと見回してみた。大して何がある部屋でもない。机。座布団。床の間には壺もなければ掛け軸もない。天井を見上げれば木目と顔を合わせるばかりで、畳もささくれ立ってはいないものの、新しいとは言い難い。


 湯呑を手に取る。

 口を付けて、舌に浸す。


 商売っ気がないというのは本当なのだろうな、と櫻子は思う。





「こちらです」

 ことん、と戻ってきた肇が机の上に置いたのは、櫻子でも片手で運べてしまうような大きさの、黒い紙箱だった。


 櫻子の目から見る限り、外装のどこにも商品名らしきものはない。

 後から箱を入れ替えたのか、古物なのか、それともそもそもそういったものが初めから存在していなかったのか。見た目の雰囲気から推し量っていると、


「差し上げる前に、少し説明してもよろしいでしょうか」

 肇が口を開いた。


「当店で取り扱っている品は、少々特殊なものが多いのです。そのため、お客様の中には使用するにあたって抵抗を覚える方もいらっしゃるようで。後になって嫌な思いをされないように、ぜひ事前に品物の解説をさせていただければと思うのですが」

「え、ええ。はい」

「ありがとうございます。それでは、箱から品物をお出しいたしますね」


 特に厳重というわけでもない包みらしい。

 肇は――いつの間にか手袋を嵌めていた――長い手指で箱を取ると、多くの紙箱に対して人がそうするように、かこ、と蓋を開く。


「『鴉の羽櫛』と言います」

 中から出てきたのは、黒々とした一本の櫛だった。


「櫛、ですか」

「ええ。そうは見えないでしょうが、これが髪染め剤の代わりになるのです」


 はあ、と櫻子は気のない風の返事になってしまう。

 だって、想像が付かないのだ。


 これまでもいくつか髪染めは試してきたものの、それらは全て何らかの薬品によるものだった。それが、目の前に出てきたのは櫛。確かに黒々として美しくはあるけれど、これを一体どうすれば髪を染められるというのか、全くわからない。


「これは、ある山中に暮らす一羽のカラスから譲り受けたものです」

「カラスから……?」

「『最見屋』はそういう店なんですよ」


 変わった場所でして、と肇は笑った。


「売っているものも買っているものも、ほとんどは普通の道具ではないんです。どれもこれもが癖のある、不思議なものばかり。時には噂を聞きつけて遠方からやってくるお客様もおりますし、変わり者の行商が旅先で買い取った品をうちに持ち込むこともあります。……と言って、祖母から私に店主が代わるまでの空白期間のせいで、とんとそういった売買とは縁遠くなってしまったんですが」


 彼は机の上に布を敷くと、そっと櫛を横たえる。

 すうっと指先で、その輪郭をなぞった。


「羽根に似ているとは思いませんか」

「はあ。確かに」


 言われてみれば、確かにそうとも見える。


 カラスの羽根くらいなら、落ちているのをいくらでも見たことがある。芯があって、両側に羽毛が伸びている。この櫛は、確かに骨のところはその芯に似ていて、片側だけに羽毛を伸ばしたように見えなくもない。


「使い方自体は、それほど難しくはありません。ただこの櫛で、髪を梳くだけです」

「それだけで髪が染まるんですか?」

「ええ。この櫛の黒色が、梳いた髪に移るんです」

「……それは……」


 櫻子はその先を言い淀む。

 しかし心の中に留めておくには、あまりにも正直な気持ちだったから、


「失礼ですが、信じがたい、というか」

「ですよねえ」


 あっさりと肇は言った。

 かえって驚いて、目を丸くしてしまう。


「で、『ですよねえ』って」

「いやあ、私も逆の立場だったらそう思います。こんな胡散臭い家の蔵から怪しい男が箱を取り出して『この櫛でひとたび梳いてみせれば、すなわちその髪黒々と……』なんて、いかにも詐欺師の言いそうなことじゃありませんか。自分でもその自覚はあるんです」


 ですので、と。

 肇はさっぱり笑って 言ってのける。


「こちら、お代は結構です。差し上げますよ」

「え、いや、」

「元々私の祖母と春河さんのおじい様との間では、そういう約束だったじゃありませんか。それに折角ここまで来ていただいた以上、私としては春河さんを手ぶらで帰らせたくはありません。できればあなたにとって何か必要なものを差し上げたい。一方で、春河さんも使うか使わないかは迷われるでしょうし、面と向かって『要らない』とも言い難いでしょう」


 彼は櫛を手に取ると、取り出したときと同じ、速やかな手つきでそれを箱の中にしまい直してしまう。


 丁寧に、まるで百貨店の店員がするように、彼は箱をこちらに押し出した。


「ですから、何も言わずにお受け取りください。使うも良し、使わぬも良し。もちろん使えば春河さんにとって良い結果をもたらすことを当店は保証いたしますが、説明書きは同梱しておきましたので、どうぞお好きなようになさってください」


 さ、どうぞ、と。

 差し出された箱の前で、櫻子は考えた。


「あの、」

「はい」


 顔を上げる。

 肇の顔を、真っ直ぐに見て訊ねる。


「試しに、ここで使わせてもらうことはできますか」


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