一度では出てこなかった。

 だから二度目。もう一度、櫻子は戸を叩く。


「ごめんください」

 これでダメなら、と考えていたところだった。


 けれど、中から声がする。


「はーい。少々お待ちを……うおっと!」

 がしゃーん、と何かにぶつかるような音も一緒に。


 何か取り込み中だっただろうか。邪魔だっただろうか。不安に思っていると、しかしすぐに足音が扉の向こうから聞こえてくる。


 磨り硝子越しに姿が見える。

 がらり、と戸が開いた。


「はいはい。どちら様かな?」

 一目見て、「ああ、この人なのだろうな」と櫻子にはわかった。


 祖父は話を大袈裟にする癖がある。しかしその悪癖を以てしても、あの山で出会った女の人に関する話は大嘘というわけではなかったのだろう。


 肩幅のしっかりとした長身で、しかし岩のようにごつごつとしているわけでもなければ、枯れ木のように細いわけでもない。少し伸びた髪と、大してこだわりもなさそうに身を包んだ着流し姿は、どういうわけか不思議なことに、だらしなさより妖しげな魅力を感じさせる。


 目鼻立ちは、彫刻家が石から彫り出した会心の作のように整っている。

 どこか顔色には不健康の影があるものの、それもまたこの人物の得体の知れない魅力に拍車をかけているような――


「あの、」

 なんて考えることを、一旦止める。


 櫻子は、頭を下げた。


「春河櫻子と申します。こちらは『もがみや』様でいらっしゃいますか」

「はい。まさしくその『最見屋』です。……っと。そうか、看板を外したままだったな。失礼しました。私は店主の最見もがみはじめと申します。こんな店構えですから、お訪ねにも緊張なされたでしょう。春河様。本日はどういった御用件で?」

「――――、」


 一瞬、それは冷たい拒絶なのかと思った。

 いや、もちろんそうなる可能性も頭には入れていた。何せ古すぎる約束なのだから。そうやって門前払いされる可能性ももちろん考えていた――むしろ、絶対にそうなると思っていた。けれどたったこれだけでは、諦めて逃げ帰るにも足りないと思ったから、


「先日、祖父より手紙をお送りいたしまして、その件でまいりました」

「あ゛」

「…………?」

「……あのう。失礼ですがその手紙、ひょっとすると、うちに先週くらいに着くはずのものではありませんでしたか?」


 恐る恐るといった調子で肇は訊ねてくる。

 どういうつもりなのかわからず、ええ、と櫻子が戸惑いながら頷くと、彼は「やっぱりそうか」と頭を抱えてしまった。


「実はですね。ここに来るまで、雪が積もっているのを見ませんでしたか? あ、ほら。庭のそこなんかにも」

「ええ、はい。見ました……」

「その関係で、『さいはて町』周りの郵便事情が乱れてましてね。しまったな、どうせ手紙なんか滅多に来ないからと油断するんじゃなかった」


 二度手間になってしまって申し訳ないんですが、と彼は言う。


「その手紙をまだ、拝見していないのです。どういった御用件か、改めてこちらで聞かせていただいてもよろしいですか。もちろん立ち話もなんですから、どうぞ中へ。今ではすっかりこんな状態の店ではありますが、まだお客人にお茶くらいはお出しできますよ」


 さあどうぞ、と肇が玄関戸を大きく開けて、手で合図する。

 しかしそのとき櫻子は、そうした招きに応じるだけの余裕がなかった。


「春河様?」


 何せ、先ぶれがあってさえ突然で不躾な話なのだから。

 それこそ手紙を先に読んでもらっていてさえ、「どういった御用件で」と知らぬふりで追い返されたって何も文句は言えない、勝手な話であるのだから。


「この、」


 わかっているが。

 わかってはいるが――それでも、櫻子は、


「この簪のことを、ご存じですか」

 家から駅まで歩く間も。初めての汽車に、バスに揺られている間も。この『最見屋』まで辿り着く間も。大事に大事に抱えてきたそれを、差し出した。


 まじまじと、肇は櫻子の手の中にあるそれを見る。


「これは……」

「祖父がかつて最見屋のご店主様と交わした約束の、証文代わりのものだと聞いています。覚えはありませんか」

「店主、約束、証文……春河?」


 頷けば。

 これ以上ないくらい驚いた、という顔を肇はした。


「もしや、その約束を果たしに?」

「……はい」

「道具ですか。それとも――」


 はい、ともう一度櫻子は頷く。

 勇気と、それからそれよりずっと強い諦めの心を持って、目の前の男に告げる。


「結婚を、お願いしにまいりました」

 時が止まったかのような錯覚。


 けれどその永遠にも感じる時間はきっと、数えてみればほんの数秒にだって満たなかったことだろう。


 肇は、言った。


「申し訳ない。その婚約、なかったことにはしていただけませんか」


 ああ――、と。

 その断りの言葉で、不思議にも櫻子は、肩がふっと軽くなったような気がした。


「約束のことは、確かに祖母から聞いています。しかしながら……全く身内の恥でお話しするのも憚られるんですが、母が恐ろしいまでの怖がりで、祖母から継いで以来この『最見屋』を放り出していたものでして。今こうして店主を勤めております私も全く商売がいただけないものですから、もう店を畳むほかないと考えていたところなのです。うちで未婚なのはもう私だけですから、これでは春河さんのご結婚のお相手にはとてもとても――」

「わかりました」


 ぺこ、と櫻子は頭を下げた。


「唐突なお願い、大変失礼いたしました。約束のことは、もうすっかり昔のものですし、私たちが生まれるよりも前のことですから。どうぞお忘れください」

「あ、いや。婚約はともかく、お困りのことがあるのでしたらぜひ道具をお譲りさせてください」

「お気遣いありがとうございます。ですが、お気持ちだけで」


 では、と踵を返す。

 ちょっと、と後ろから呼び掛けられても、足を止めるつもりはなかった。


 これでよかったのだと櫻子は思っていた。

 むしろこうなることを望んでいたのかもしれない、とさえ思った。


 結局自分は、何かの望みを叶えるためではなく、あったかもしれない道を諦めるためにここまで来たのだろう。わざわざ汽車に乗って、遠い遠い、最果ての名のついた町まで来て、人の手を借りてまでそうしなければ前に進めなかった。それだけのことだったのだろう。


 おかげでけりを付けられた。

 そう思うから櫻子は、頭巾の裾を少し引っ張った。追い付かれないよう早足で行くならと、首元を楽にしてよく息が通るようにしようと、そう思った。


 そのとき、春一番が吹いた。





 普通に生きていくのは難しいと櫻子が気付いたのは、小学校に入ったあの日。教室に立ち並ぶ同級生たちの、あの整然と揃った髪の色を見たときのことだった。


 それまでも薄々は気付いていたのだと思う。家の中でも、ちょっとした町歩きでも、自分のような者を見かけたことがなかったから。自分が人とは違っていることはわかっていた。けれどこれほどのものとは思っていなくて、その日になってようやく自分がどのくらい『違っている』のかを思い知らされた。


 生まれは東ノ丸と言っても、端の端だ。港を訪れる海の向こうの人々の姿も、滅多に見ることはない。強面で警察官の父の存在のおかげか、直接的に悪意を向けられることこそ少なかったものの、そのたったひとつの特徴が櫻子の人生と先行きに、薄い影を落とし続けていた。


 だって、それがほんのひとすじでも人前に零れ落ちてしまうのが怖くて。


 こうして背丈が育ち切ってからも、髪だって伸ばせずにいたのだから。





 それは、まさしく春の訪れを告げるような気持ちの良い風だった。


 まず、庭の砂がさらりと流れた。

 次にはどこから来たのか、春の緑葉が塀を飛び越えて、青空に渡った。


 小さな礫石が、寝返りを打つようにころりと転がる。

 先に飛んだ砂を捕まえるように、日陰にじっとりと鎮座していたはずの冷たい雪が、季節外れの輝きとともにきらきらと舞い上がる。


 そして、櫻子の指先から頭巾の端が離れていく。




 彼女の真白い髪が、鮮やかに春の光に晒された。




 あ、と指先を宙に泳がせるけれど、もう間に合わない。するり頭巾は彼女の指先から逃れて、風に乗って飛んでいく。視界の端に白色の、糸のような髪が映る。髪を押さえるべきか、頭巾を追い掛けるべきか。すぐに決めなければならないはずなのに、混乱してどうしたらいいかわからなくなる。


 髪だ、と決めた次の瞬間に。


「よっ」

 ぱしり、と諦めた方を捕まえた人がいた。


「――あ、その、これは、」

「今日は風が強いみたいですね。いつの間にかの春だ」


 最見肇。

 彼はその雰囲気に似合わない身軽な動きで跳ぶと、屋根に舞い上がりかけた頭巾を難なく捕まえた。


 ざっざっ、と臆する様子もなく彼は近付いてくる。

 どうしよう、と櫻子は怯えた。


 隠すものもない。訊かれたら、見られたら、いつもだったら気にしていないように振る舞えるはずだけれど、ついさっきのことがあればもう、まともに顔を見られる気もしない。


 来ないで、と思う。

 しかし、彼は来るのだ。


「それにしても、」

 頭巾を手に、彼の腕が迫る。


 櫻子は思わず身を竦めて、



「あんまり綺麗な髪だから、春の精が人里に降りてきたのかと思いましたよ。

 こんな状況でさえなければ結婚のお話、こちらからお願いしたいくらいだったんですが。何とも間の悪い人間で申し訳ありません」



 さあどうぞ、と彼の手から頭巾を受け取った。


「それから。こういう答えになってしまった以上かえって失礼にも当たるかもしれませんが、本当に、お茶の一杯くらいはどうですか。見るからに寂れた店ですが、今でも品揃えだけはいいんですよ。あなたの気に入るものも、きっとどこかには見つかるはずだと思うんです」

「…………」

「あの、春河さん?」


 ダメだ、と櫻子は思う。

 頭巾をぎゅっと握り締める。下瞼に力を入れる。ダメだ。こんなことで子どものようになんて、そんなのはいけない。もう学校だって出たのだから。この程度のこと受け入れて、乗り越えて、生きていかなければならないのだから。


 ダメなのに。


 予想していたのと、全く逆の方向から揺さぶられてしまったから。


「――う」

「う?」

「うあああっ――……!」


 わあ、と泣き出したらもう止まらなかった。


 ダメだ、と思えば思うほどボロボロと涙は溢れ出してくる。

 うおお、なんて見るからに慌て始めた肇に申し訳なく思っても、申し訳なさくらいでは涙も気持ちも止められない。


 綺麗な髪だなんて。

 家族以外から言われたのは、一体いつぶりのことだったろう。


「いや本当に申し訳ない! 誤解が――というか私の言いぶりや態度が至極悪かったんですが! 決してその、婚約の破棄というのは春河さんの方に問題があるわけじゃあなくてですね――」

「ち、あ、ちが、ぐ」

「何も違いませんとも! これはもう、全く、全面的に、私が悪いんです!」


 違うんです、と櫻子は何度も言おうとする。

 悲しくて泣いているわけではないんです。腹立たしくて泣いているわけではないんです。結婚のお断りをされたのだって、当然だって思ってるんです。あなたに不満なんて本当の本当に、たったの一個もないんです。


 ただ。


 ただ、あなたが言ってくれたことが思ったよりも嬉しくて、泣いてしまっただけなんです。



 たったそれだけのことを言うために、幽霊屋敷の庭先で。

 どこにでもあるような、いかにもばかばかしい春の日のことだった。


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