第6話

 「どうしたの、今の?」

 彼女は興奮気味にそう詰め寄ってくる。

 何に対してのどうしただろうか、と考えてみる。答えは考えるまでもなかった。

 「ピアノが弾けたこと、でしょ」

 「うん、どうして? 黙っていたの? 私、初めて聞いたわよ、クリスのピアノ」

 「黙っていた、わけじゃないんだ。なんとなくね。このピアノを触ったら弾けるような気がして。なんか頭で流れる音の通りそのまま鍵盤を弾いたら弾けたんだ」

 言いながら、そんな馬鹿なことがあるかと僕は思った。ピアノが弾ける。今までピアノを含めろくに楽器に触れたことのない僕がいきなり弾けるようになる、なんてことは普通あり得ない。あり得ないはずなのに、あり得てしまっている。

 言い訳にもならない言い訳のようなものを口にするが、エリーは少し考えるような顔をするとそう、と無理やり納得したように頷く。

 「そう、じゃあ前から弾けたわけじゃないのね。あなたがピアノを弾いているところなんて今まで見たことなかったもの」

 彼女は信じられないものを見たという顔をしながらも何とか解釈しかみ砕いて嚥下するように納得してくれたようにも見える。またどう切り出せばいいのか迷っているようにも見えた。戸惑っていることが分かる。

 ああ、そうだ。戸惑いだ。

 先ほどの弾き切った後に残る清々しさはもうない。今あるのは僕が僕ではないような違和感だ。戸惑っている彼女よりも今の僕を信じられないのは僕自身だ。

 指をどう動かせばどの音が鳴ってくれるのか。どうペダルを踏めば、心地よい余韻が生まれるのか。頭ではなく、体が理解している。僕はその通り、音の通りに体を動かしただけで。

 まだ、体の中で音が鳴り続いている。その通りに体を動かせと欲している頭に鳴り響いている。あんなにも色鮮やかだった音は今では黒いものを含んでいる。そんな気にさせるものに変貌している。

 得体のしれない何かが僕の体を少しずつ、僕のものではない何かに変化していくような、そんな感覚が弾いているときも、そして今も残っている。

 僕が黙っているのを静かに彼女は見守ってくれた。

 「たぶん、なんだか分からないものが起きた、あるいは与えられた。そんな気分なんだ。うん、僕もよく分からないけどね」

 分からないなりに口にしたそれはなんとなく外れてはいないような気がした。

 「そう、そうなのね。なら火事を消してくれたクリスに神様が与えてくださった贈り物なのよ、きっと。うん、そう思った方がいいわよね」

 エリーらしい言葉だと思う。それほど僕は神様を信仰しているわけではない。それでも、ふと何かあった時に祈る。だから、これもそういった類の与えられた贈り物だろうと。

 「そうか。神様からの贈り物か」

 ならばそれに恥じないように贈り物は使った方がいい。与えられたのであれば、誰かに与えなくては罰が当たる。そんな気がする。だけど、与える相手くらいは僕が選んでもいいだろう。だから僕は気が付くとそう言っていた。

 「だったらさ、練習しない?」

 「練習?」

 「うん、練習。歌の練習。どういう訳か分からないけど、僕はピアノが弾けるようになった。そしてここに丁度ピアノがある。かなり古いけど、多分とても良いピアノなんだ」

 「これが話していたピアノなのね」

 「そうだよ。前に話したピアノだ。何とか燃えずに残った。たぶんそれも神様の思し召しってやつなんだと思う。僕がピアノを弾けるようになって、ピアノが無事で、そしてこの町の歌姫がいる。ね、なら歌うしかないと思うんだ」

 ちょっとばかり出来過ぎているような気もする。こんな言葉はかっこつけすぎのような気がした。テレビの中の俳優が言うから様になるのにとも思う。だけど、なぜか自然と口からするりと出てきた。出てきてしまったからにはしょうがない。

 エリーはどう思っているのだろうか。少しばかりきざな言葉を言ってしまい、恥ずかしさもあって目線を合わせづらい。

 ぷふっと、空気の抜ける音が静かになった僕らの間に鳴った。その音はだんだんと大きくなり、しまいには引き笑いになった。

 「笑わなくてもいいだろ」

 「いいえ、いいえ。笑うしかないじゃない。これ以上ないってほど真剣な顔して、出てきたのがあなたに似合わないカッコつけた言葉よ。笑ってって言っているみたいじゃない」

 「ひどいな」

 そんなに僕の言葉が面白かったのか、あるいはカッコつけた表情がつぼに入ったのか分からないが、そんなに笑うほどかと思うほどエリーは笑った。

 「でも、ほんと、そうね。ここにはピアノもピアノを弾けるカッコつけた人も、自称歌姫もいるんだもの」

 笑い過ぎて目じりには涙がたまっていた。それを擦るように取る。自称と自虐的にエリーは言った。

 「自称って、この町一番の歌姫がなんて弱気な言葉。そこは胸張って言えばいいのに」

 「うん、そうだね。なら、今度の歌のコンテストで一番になれたら、胸張って町一番って言うね。ではカッコつけのお兄さん、町一番が本当になるようにエスコートしてくれます?」

 芝居がかった仕草で手を差し出す。差し出された手を見る。

 周りは森で、火事の後の残るお屋敷とピアノ、そしてなんてこともない僕。お城もなければ、彼女はドレスなんて着ていないし、僕に至っては、普段着だ。スーツでもタキシードでもなく、いつも着ている普段着。ジーンズに七分丈のシャツ。

 お姫様をエスコートする役目は王子様だろう。昔から物語でもエスコート役は決まって王子様だ。僕とは大違い。

 だけど、差し出された。その手は僕に差し出されたんだ。

 「ええ、僕でよければ」

 ならば、その手を取るのは僕でありたい。

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