第5.5話
森に音が響いた。
その日は少し私にとって厄日だったような気がする。日課であるはずの彼との会話がなかった。だから、気分が乗らなかったのだろう。普段の彼の軽口が私にとっての楽しみだったんだと改めて認識させる。
そう、だからアンラッキーデイ。
彼との他愛のない会話もなければ、父親からのいつまで歌を歌っているんだという小言。いつまでと言われても、いつまでも、と答える。そんなつもりでいたし、そう言うつもりだったのに、何も言えなかった。何も言えずに、ただ黙ってしまって、それだけだった。
憧れのあの女優なら何て言っていただろうか。なんてユーモアあふれる返答をするだろうか。あるいはあの監督ならこんな時でも諦めるという言葉も思い浮かばないくらいに映画を撮っているのだろうか。そんな憧れたちを思うと、今の私の、うじうじとした私を許せなくて、だけど逃げたくて、気が付いたら、私はラジオカセットを手に森の中にいた。
そして、そのまま帰る気にもならなくて、いつもの練習場所で、ラジオカセットで曲を流していた。
そんな私の耳に、覚束ない音が届いた。
不可解な音だった。ラジオカセットの音ではない。もっと純粋に楽器の音だ。
最初はぎこちない単音が鳴る。手探りの音だ。おどおどしく、どこか壊れモノを扱うかのような優しすぎる音が聴こえた。
だけど、その単音が少しずつ意思を持ち始める。つながりを作り始める。気が付くと旋律に変化していた。
流れる音は川のように。一つ一つが雨粒のように分裂していたものが、集まって川になるように、音が流れた。
私は、その流れてくる音に誘われるように森の奥へと気が付けば足が向かっていた。
そっちの方向はほんの数日前に火事になった屋敷の方だった。誰かがそこでピアノを弾いている。そこはクリスがピアノを見つけたと言っていた場所だったはず。ピアノを見つけたと興奮気味に教えてくれたのは火事があった日だ。そして、今そこで誰かがピアノを弾いている。
どこのだれか分からない人が弾いているだろう。気になった私は木の陰に隠れながらその音を聴くことにした。
たん、たんとぎこちなかった音が、雨音のように一つ一つが独立していた音が川の水のように流れ始める。
音が曲になった。
私の好きな、そして私がいつも練習しているあの曲だ。
少しテンポが速かったり、あるいは遅かったりとずれる。私の知っている曲に比べて少しばかりずれがある。拙い部分もある。だけど、曲が進んでいくにつれて音が丁寧に洗練されていく。丁寧に滑らかに音同士がつながっていく。
最後のサビは私が好きな曲、そのままだった。
そして最後の音が鳴った。
きれいに最後まで弾き切ったその相手が誰か気になって、木の陰から顔を出して相手を見る。
背格好は私よりも幾分か大きい。たぶん男の人。その人はどこか見覚えのある背中をしている。その男の人が、気になって、顔が見える位置に移動する。逸る心臓を抑えようと、移動しながら深呼吸をする。
だって、きっとあれは。淡い想像をしながら、移動をする。
ついに横顔が見えた。
その顔を見て、私は木の陰から出てしまった。
「どうしたの、今の?」
今の私はどんな顔をしているのだろうか。わからないけど、きっと、とても興奮していることだけは間違いない。
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