第5話
自宅に戻って早くも二日が過ぎていた。最初の一日は、病院というなれない場所にいた反動か丸一日寝て過ごしていた。そして二日目も疲れが抜けなかったため、ベッドの上で転がるように過ごしていた。
そして三日目の今日なのだが、家にいてもやることもなく、体を休めようと横になっても、もう眠くもならない。
親方からのもらった休暇はまだ数日もあり、その間を何もせずに過ごすのももったいない気持ちになる。
火事のあった場所はどうなったのだろうか。ふと頭に浮かんだそれ。思考の片隅に浮かんだ疑問が増殖するように頭の中を埋め尽くしていく。
火事に遭った洋館は燃え尽きてしまったのだろうか。あの時感じた熱と光は何だったのだろうか。そして、あのピアノはどうなったのだろうか。そう考えると、考え始めてしまうと頭の片隅でポーンと音が鳴った。
ピアノが響いた。
〇
足は森へと向いていた。
森へ踏み入れる。暗闇の中を走ったのがもう昔のような気がする。だけど、森は相も変わらずそのままの様相に見える。
いつもの草の青臭い香りに土の匂い。だけどその中でかすかに、ほんの微かであるが焦げた匂いがした。
微かな匂いを追いかけるように森の奥へと足を踏み入れていく。匂いは奥に行けば行くほどに強くなっていくようで森の中でありながら、香ばしい。森を進み、草を掻き分ける音、枝を折る音、足を踏みしめる音。そんな微かな音が重なっていく。
いつもなら気にならないほどのそんな音が気になって仕方がない。だけど、それを無理に気にしないように歩く。歩いていくにつれて、その音が一定のリズムで、旋律のように奏でていく。緩やかな二拍子が僕を中心に波のように広がっていく。
音は緑、それに合わせるように、僕の足が進んでいく。
〇
行きついたそこで、これまでと変わらない森の中で、そこだけははっきりと変わってしまったことが分かった。古く、歴史を感じさせるその屋敷はあちこちが崩れ、それまでの微かな香りとは全く違った強い焦げた匂いを発していた。
ところどころ屋根が燃え落ち、壁の装飾が崩れ、外から見えるはずのない部屋の内部までもが露わになっている。その部屋の中も黒く変色しており、燃えた跡が見てとれた。
あれほど古風にそして、歴史を抱え、佇んでいたその建物はその形を崩し、形を失っていた。
隣の小屋を見る。ピアノのあった楽器部屋。楽器を保管する、そのためだけに作られたであろうその小屋は、形こそ残しながらもその役目を十全に果たすことのできない有様だった。洋館の崩れた壁が破壊したのだろうか、小屋の壁の一部は崩れ落ち、一部は火の熱に炙られ黒く変色し、部屋の中に光がさしていた。その向こう側には黒いグランドピアノが神々しく光を浴びている。
音が響いた。微かに揺らいだような音が。
僕は小屋に近づき、ピアノを見る。光に当てられたピアノは少しの欠けも、傷もなくそこにあった。
より近づき、ピアノの周辺を観察する。もう部屋は部屋の機能を成していない。それでも、雨風を防ぐくらいの機能はありそうだった。ピアノの鍵盤に触れる。吸い付くような鍵盤の感触。
硬いその感触を確かめるように押し込む。ゆっくりと、壊れモノを扱うように。
頭の奥で音が鳴った。
遅れて音が響いた。
押し込んで音が響いた。イメージ通りだ。押し込む。また音が鳴って、響いた。イメージしていた音に比べて少し指が遅れた気がする。
また押し込んで、音が鳴って、指を放し、また指を移動させ、押す。そのたびに音が森に響く。身体が求めるままにそれを繰り返す。
繰り返していくごとに聞き覚えのあるメロディが耳に、頭の奥で響き始める。それを何とか形にしようと指を動かすごとに音になった。右の小指で、左の中指で、左の三本で、右の親指が、頭に響く音と耳で聞く音が少しずつ合わさっていく。追いつくように、あるいは抜き去ってしまうようにずれていたその音が少しずつ合わさっていく。
淡い色、あるいは無色。まだ何色にもならない音色たち。音楽のなりそこない、だけど、少しずつ色づこうとしている。
そして最後の音が合わさって消えた。頭に響く音の余韻と耳に届く音の余韻が心地よかった。身体を伸ばす。音を追うことがこんなに楽しいことだったとは、そんな思いが体を駆け巡る。
初めて知った感覚だ。自然とほほが緩んでいく。音を夢中になって追っていた。まるで、魚を追って走った子供の頃のようだった。
だから、直後に、弾き終わった後に訪れるそれに顔が歪んだ。
耳の奥で余韻がノイズに変化する。
お前の音は音にすらなりえないと僕を糾弾するように、音がノイズに、ザーと降り注ぐ雨音のように変化し、耳奥で何かが這いずり回るような音に変化していく。
それに意識を向け過ぎていたから気づかなかった。一人、音を追っていた遊びを見ていた観客がいたことに。
がさりと音がする。脂汗が滲む顔を向けると、一人の女性の姿が見えた。
「どうしたの、今の?」
森を抜け、こちらに近づいてくるエリーの姿が見えた。
その顔はあり得ないものを見たような顔ながら、どこか興奮したような赤みがかったほほをしていた。
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