第3話

 夕方から降り始めた雨は次第に勢いを増していく。窓を叩く雨音が部屋の中に延々と木霊していた。

 雨音の向こう側にどんと地響きのような音が響いた。その音の先、窓の向こう側はもう一寸先すら見えないほどの暗闇に覆われている。時計に目を向けると短針が十を少し過ぎたところを指している。延々と振り続ける雨。勢いは増すばかりで今にも窓を突き破らんとする、そんな勢いでぶつかっている。

 暗闇の先で一瞬、空を光が走り抜けていった。

 それが雷だと気づくまで十秒ほど。遅れて鳴り響く低い音が自然の猛威をまざまざと見せつけていく。

 暗闇の先、光が走った先が赤く、淡く光っていた。光はゆらゆらと消えないままで時折大きく蠢く。そして消えないままに大きさを増していくようにも見えた。

 光は森の方角、屋敷があった場所の近く。

 その場所で光は消えないまま。

 消えないまま。

 消えないまま、また光と轟音が混じると、また一つ増えた。

 「火事だ」

 ぱっと口に出た単語が僕の思考を塗り換えた。

 頭の中で響くのはアラーム音のような警戒音。どくどくと心臓の音が早まっていくのを感じた。その逸る心臓を落ち着かせるように深呼吸をして、クローゼットの中を漁る。

 仕事の際に重宝する雨合羽を手に取り、急いで階段を下りる。居間の明かりが点いている、父親か母親がまだ起きているようだ。

 居間に顔を出すと、思った通り親父がラジオを流していた。この町で流れるラジオだろう。MCの聞き覚えのある声で、強風や雨、そして雷に注意するように促す声が淀みなく流れている。

 「親父、森に雷が落ちて燃えている。火事だ。周りの消防団の人たちに伝えてくれ。僕は先に現場を見てくる」

 言うべきことだけを言うと雨合羽のフードを被り、玄関を走り抜けた。おい、待てと後ろから親父の声が聞こえたが、その音は激しい雨の音に掻き消されていった。

 

  〇


 夜の森は暗い。そして雨の時はより一層にその暗闇が深くなる。そんな森の中で一点だけが明るく揺らめいている。風に煽られるように、ゆらりゆらりと揺れるそれは徐々に大きくなっていく。その光だけを見つめて暗闇を駆け抜ける。

 前からも横からもそして上からも殴るような雨が頬に刺さる。バケツに汲まれた水を全身に浴びるような雨に視界が遮られそうになりながら、前を向く。

 明かりは変わらずに見えている。

 時折吹く強い風に体が煽られそうになりながらもその足は止めない。もうすでに何分走ったか分からない。

 呼吸は苦しい。

 口の中は泥と鉄の味がしている。だけど、そんなことは知ったことではないと歯を噛みしめ、足を進める。何度か木の根に引っ掛かり転んだ。靴は雨を吸い込み、重くなっている。足を踏みしめるたびにぬめりとした感触が足全体を覆う。雨具の隙間から入り込んだ雨粒が服を濡らし、体温を奪っていく。初夏も近づく、そんな季節なのに、そう思いながらも肌にへばりつく服は濡れて冷たく、時間とともに僕の体温を奪っていくだろう。

 足を止めてしまえば、少しは楽になる。そんな考えも浮かんでは消えてを繰り返していく。

 それでも暗闇の森の中をただ、光を目印に走り続ける。明かりが先ほどよりも大きく、明確になっている。

 ゆらり、ゆらりと揺れている光は赤にも黄色にも見え、そして時折、青くも見える。

 また頭上を光が瞬いた。遅れること数秒で音が襲う。音に麻痺したのか。雨音が聞き取れなかったり、また時折いきなりよく聞こえるようになったりと不思議な感覚を味わう。それらが酸素の足りなくなった僕の頭の中にふわふわとした謎の浮遊感を与え、吐き気を思わせる気持ち悪さが助長させる。

 光が近づく、家からの距離、そして方角を考えると屋敷のある場所の近くだ。光は風に煽られるようにまた、大きくゆらゆらと揺らめいている。

 近づく。足を進めるごとに歩幅の分だけ近づいていく。木を避け、葉を除けるごとに光が鮮明になり、近づいていく。

 そして、木々が途切れた。

 炎だった。

 激しい雨に反射して光が乱反射を繰り返す。

 屋敷の近くにあった木は根元まで裂け、炎に包み込まれている。炎が空へ向かうように細く立ち昇る。冷たい雨の中、チラチラと舞う炎が熱の存在を思い出させる。

 屋敷にはまだ燃え移っていない。その隣の小屋にも。

 ひとまず小屋の無事を確認する。

 しかし、今にも炎に包まれた木が近くの木に倒れ掛かり、そのまま炎が燃え移りそうになっている。その木の先には屋敷と小屋があった。

 「消えろ!」

 濡れた雨具を脱ぎ、それを使って火を叩き消す。濡れた雨具と火がぶつかり合い、じゅわと、音を立てて火が消えていく。その音は火の断末魔のように辺りに響く。

 雨音が一段と強くなる。稲光と音の周期がまた、少しずつ短くなっていくのが分かった。それでも火は少しも待ってくれない。

 「くそ、こんなに降っているのになんで消えないんだよ」

 雨具で叩いた火は音を立てて消えていくが、それでも火の勢いはとどまらない。少しばかり倒れ掛かる木が、炎が近づく。

 「こっちだ。こっち」

 雨音と炎、雷の音の中で微かに人の声が聞こえた。その声を皮切りに複数人の声が聞こえてきた。

 その声に居場所を伝えるように声を上げようとした瞬間。世界が白く染まった。

 音は光とずれることなく響いた。

 身体の芯を貫く痛みと音。身体は熱に包まれたように熱さを感じる。音に叩かれる。

 立ち続けることのできない重みが身体を襲う。

 意識が白く光り、点滅する。そして暗闇が襲う。

 最後に見えたのは近くにそびえたつ廃墟に火が燃え移る姿とその隣に建つ小屋。それを彩るように舞う火の粉だった。

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