第41話:世界で一番会いたくない男

 翌日の月曜日、19時になって出勤が終わった明日花あすかは着替えを始めた。


(今日はれんさんと会えなかったな……)


 一日に何度も遭遇することが当たり前のように感じていたので、まったく姿が見えないと違和感がある。


(まさか、体調を崩してお休みとか……?)


 だが、わざわざ蓮の出勤についてクリニックを訪問するのは躊躇ためらわれた。


(私はただの隣人)

(踏み込みすぎちゃダメ。私には関係ない)


 そう言い聞かせて店を出る。

 だが、クリニックの前を通るとき、さりげなく中を覗いてみた。

 残念ながら受付の女性と患者しか見えない。


(そうだよね。診察室にいるんだろうし……)

(どうしよう……)

(ちょっとだけ聞いてみる?)


 昨日の蓮の様子が気になってしょうがない。


「明日花!!」


 いきなり背後から名前を呼ばれ、明日花はびくりと肩を上げた。


「え……?」


 明日花は目を疑った。

 見覚えのあるスーツ姿の青年が歩み寄ってくる。


岳人がくと……?」


 実家が近所で幼馴染おさななじみの岳人がそこにいた。

 世界で一番会いたくない相手の出現に、明日花は絶句した。


(信じられない……)

(都内に就職したって訊いてたけど……)

(なんで、ここに……)


 明日花の疑問は一瞬で氷塊ひょうかいした。


「ここで働いてるって、おまえの親に聞いて寄ってみた!」


 にやりと笑う岳人に、過去の嫌な思い出が一瞬でよみがえってきた。


 ――漫画ばっかり読んでてキモ!!

 ――オタク女。

 ――そんなニセモノの男に夢中とか変じゃね。現実を見ろよ。


(私の個人情報は誰にも言わないで、って言ったのに!)


 両親を少しでも信用した自分の愚かしさが憎い。


(そうだよ、あの人たちは私の事情なんてどうでもいい)

(勤務先も住所もバレバレか……)


 顔をひきつらせる明日花の反応を楽しむように、岳人がゆっくりと近づいてくる。


「すごいな、こんな都心のオフィスビルで働いてんのか。叔母さんがサロンを経営してんだって? やっぱり恵成えいせい大学出身ってすごいな。でも、40歳過ぎても独身なんだろ。やっぱり売れ残るよなー。生意気な女って」


 露骨なおとしめように、脳が沸騰するような怒りが湧く。


(は?)

(女は結婚しないと一人前じゃないの?)

(売れ残りって、人を品物みたいに言うな)

(仕事をちゃんとしている女は生意気なの?)


 東京にいるのに――岳人の存在が明日花の心を地元に、過去に引き戻す。


(ああ、本当にずっとしんどかった)

(家族も同級生も職場も、女性蔑視の男ばっかりだった)


「……何しに来たのよ」


 怒りを堪えたため、自分でも驚くほど低い声が漏れ出る。

 こんな男に心をかき乱されたくないのに、否応いやおう無しに反応してしまう。


「いやー、上京してどんな華やかな生活をしてるのか気になってさー。地元でも話題になってるから。おまえがどうしてるか、皆に報告しようと思って」


 ぎりっと歯を食いしばる音が聞こえる。


(何なの)

(他人の噂話しか娯楽がないの?)


「思ったより元気そうだよなー。あんなことがあってまだ数ヶ月なのに――」

「いい加減にして!」


 明日花は思わず叫んでいた。

 やっと軌道きどうに乗ってきた新生活が、音を立てて崩れていくようだった。


(もうこんな男どもに生活をめちゃめちゃにされたくない)


「この通り元気よ。満足でしょ、さっさと帰ったら?」


 明日花の剣幕にもまったくひるむことになく、岳人はニヤニヤと笑っている。


「そう言うなよ。わざわざ仕事を早めに上がって来たんだからさ。隣の新しいビルの中に横丁があって飲めるらしいじゃん。そこで話聞かせろよ。そうだ、まだオタクやってんの?」

「……っ」


 思い切り殴りつけたいのを堪える。


刃也じんやくん……っ!!)


 しのことを思い出す。

 刃也は敵の挑発に乗らず、煽りを華麗にかわしていた。


(私も……そんな風に……)

(できない……こいつを今すぐ殴りたいくらい)


 仲間を侮辱した敵を、問答無用でたたきのめした主人公の真護しんごの姿を思い出す。


(あんな風にできたら――すっとするだろうなあ)


 だが、現実的ではない。

 脳内で岳人をボコボコにするのが精一杯だ。


 岳人がじろじろと頭の天辺からつま先まで見てくる。


「なんか雰囲気変わったなあ。もしかして、東京で新しい男でも捕まえた?」


 限界だった。


「……」


 明日花は無言できびすを返した。


(無視して帰る!)


 それが明日花のできる唯一の選択だった。


「待てよ!」


 いきなり腕をつかまれ、明日花は驚いた。


「離して!」

「わざわざ来たのに、無視するなよ!」


 岳人の手ががっちり腕に食い込んで振り払えない。


「このっ……」

「どうかしましたか」


 凜とした声に、明日花たちはびくりとした。

 白衣を着た蓮がクリニックの外に出てきていた。

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