かぞくの、ゆくえ②

 母が亡くなる前の私と、亡くなってからの私。二つの私の間には、埋めがたい差があると思う。


 母がいなくなったあの日、私は生まれ変わった。

 そして、父が私たちの前から姿を消した時、今の私が完成した。確かに私は昔の私の延長線上にいるが、同じではない。


 しかし。

 乃愛に対する気持ちだけは、ずっと変わらない。そう思っていた。


「……乃愛」


 観覧車の上から、地上を眺める。

 昔はよく来ていた遊園地は、あの頃より少しだけ活気がなくなり、もの寂しげに見えた。それは、私の心が変わったためなのかもしれないが。


 家族四人でこの観覧車に乗ったのも、もう随分前になる。

 あの頃は乃愛も私も、無邪気にはしゃいでいたものである。そんなことは思い出せるのに、もう、母の顔も父の顔も思い出せない。


 いつ忘れてしまったのかも、思い出せないが。

 ぼんやりと観覧車に座っていると、やがて地上にたどり着く。観覧車というものは、もっと楽しいイメージだったが。


 存外大したことはない、と思う。

 地上に足をつけてみても、帰ってきたという心地はない。


 ふと顔を上げると、家族で遊園地に来ているらしい、小さな子供が見えた。両親と手を繋いで歩くその姿を今は見たくない。

 その理由は——。


「お姉ちゃん」


 はっとして、声のした方に目をやる。

 そこにはひどく汗をかいて、息を切らした乃愛の姿があった。


「乃愛。どうしてここに?」

「お姉ちゃんが行くところに、私ありだよ。逃げられると思わないでね」

「……」

「……というのは、冗談で。静玖たちに探してもらったの。私だけじゃ多分、見つけられなかったよ」


 乃愛はそう言って、私に近づいてくる。

 変わらない彼女の瞳が、眩しかった。直視できないくらいに。


「観覧車、楽しかった?」

「ううん。一人で乗っても、あんまりだね」

「そっか。じゃあ、私と乗る?」


 私はかぶりを振った。

 今は乃愛と一緒に乗っても、楽しめる気がしなかった。乃愛と今、何を話せばいいのかわからない。


 私たちの間に気まずい沈黙が流れることなんて、これまではなかった。

 だが、今。


 どうしようもないくらいに気まずくて、肺とかお腹とか、そういう場所がずんと重くて、言葉が出ない。


「ここ、昔はよく来てたよね」


 乃愛はそう言いながら、私の手に触れる。

 咄嗟に少しだけ手を遠ざけると、彼女は寂しげに微笑んだ。


「平日だからかな? 前よりちょっと、人少ないよね」

「……そうだね」

「ねえ、お姉ちゃん。わがまま言ってもいい?」

「わがまま?」

「うん。……私ね」


 乃愛は私の頬に触れてくる。

 優しい指先が、私を逃さないように捕まえて、そして。

 乃愛の方を、向かされた。


 瞳がぶつかる。ずっと、守らなきゃって思ってきたその瞳は、もう私が守る必要などないくらいに力強く、まっすぐだった。


 もしかしたら。

 守られていたのは、私の方だったのかもしれない。


「メリーゴーランド、乗りたいな」

「……え?」


 私が首を傾げると、乃愛はにっこり笑った。

 瞳の力強さに反して、彼女の微笑みはどこまでも幼く、昔と変わらないものだった。





「あはは! なんか、この歳になって乗ると、ちょっと子供っぽすぎるかも!」


 乃愛はにこにこ笑いながら言う。

 陽気な音楽が流れる中、上下しながら回転するメリーゴーランドは、なんとも奇妙な乗り物だと思う。


 思えばメリーゴーランドに乗るのは初めてだ。昔家族で来ていた時、乃愛が乗りたいと言っていた記憶もない。


「お姉ちゃん、楽しい?」


 乃愛が後ろを振り返って言う。

 私は曖昧に笑った。


「うん。乃愛と一緒なら、楽しいよ」

「そっか。私もお姉ちゃんと一緒なら、どんなところだって楽しいよ」


 私は彼女に手を伸ばそうとして、やめた。

 彼女の背中は、近いようで遠い。彼女に触れたいという気持ちはなくならないのに、智友に言われた言葉が脳内で何度も響いて、私の手を止めてくる。


 自分に嘘をついている、と彼女は言った。

 自分にいつも正直に生きていると、少なくとも、私はそう思ってきた。


 だが、違うのかもしれない。私は何かを心の隅に追いやって、考えないようにしてきただけなのだろうか。

 だとしても。


「あー楽しかった! こういうのもたまにはいいね! 童心に帰ったーって感じ!」


 メリーゴーランドを降りた乃愛は、相変わらず楽しそうだった。

 こんな楽しそうな乃愛の顔は久しぶりに見たかもしれない。


「お姉ちゃんは何か乗りたい乗り物ある? せっかくの機会だからさ、全部乗っちゃおうよ」

「私は……特には、ないかも」

「……そっか」


 乃愛はそっと、私の手を握ってくる。

 今度はもう、さっきみたいに逃げることなんてできない。


「私ね。本当は、ずっとメリーゴーランドに乗りたかったんだ」

「……?」

「でも、言えなかった。だって、かっこ悪いし子供っぽい気がしたから。……別に、好きなのに乗ればよかったのにね」


 乃愛はくすくす笑った。

 懐かしむような笑み。

 また、知らない乃愛の顔を見た。


「でもね。大人にならなきゃ、もっと強くてしっかりした子にならなきゃって、ずっとずっと、ずっと思ってきたんだ。お父さんとお母さんが、まだ私たちの傍にいた時から、ずーっとね」

「……どうして?」

「お姉ちゃんのことが、好きだから」

「……ぇ」


 言葉が喉の奥で潰れる。

 大好きだって、何度も言われてきた。でも、今の彼女の「好き」とこれまでの好きは、きっと同じじゃない。


 聞いたことがない、透明な響きだった。

 だから私は、一気に表情を失って、ただ彼女を見つめることしかできなかった。


「気づいてなかった。わかってなかった。ただお姉ちゃんに憧れて、お姉ちゃんみたいになりたいだけなんだって、自分でも思ってたけど。でも、違った。最初から私は、お姉ちゃんのことが好きだったんだ」


 確かめるように、彼女は言う。

 ひどく小さな声は、恐ろしいくらいに強い力を秘めている。


「お姉ちゃんが好き。かっこいいお姉ちゃんも、甘えんぼなお姉ちゃんも、ちょっと私のことを閉じ込めようとするお姉ちゃんも。……だけど」


 乃愛は大きく息を吸い込んで、私の手をぎゅっと握った。


「皆に優しいお姉ちゃんが、一番大好き」

「……皆に、優しい?」

「そうだよ。迷子の女の子のお母さんを探すお姉ちゃんは、かっこよかったし、すごい優しい顔してた」

「そんなこと、ない。私は乃愛以外に、興味なんて……」

「ううん、きっと違うよ。始まりは、そうだったかもしれないけど。あんなに自然に人を助けるのは、きっと。お姉ちゃんにとってはそれが日常で、当たり前のことだから。私だけじゃなくて、他の人にも優しいお姉ちゃんも、本当のお姉ちゃんなんだって思う」


 自分についた嘘が、どんなものなのかはわからない。

 乃愛の言う通りなのだとしたら、乃愛だけを愛しているというのが嘘?

 だが、私は。


「だから、お姉ちゃん。……私はお姉ちゃんがどうなっても、これからどんな道を歩んでも。ずっと傍にいるよ。ずっとずっと、お姉ちゃんが大好きで、一番だよ。だから、心配しないで」

「……乃愛」

「もし、これから何年も経った後、本当に私以外の誰にも興味を持てなくて、私だけが大事なら。その時は今回みたいに、二人だけでずっと一緒にいるって誓うから」


 乃愛の言葉が、胸に浸透する。

 そこでようやく私は、まっすぐ彼女の瞳を見つめられるようになった。


「だから、自分の可能性を狭めないで。お姉ちゃんには、色んなものを好きになってほしい。……これは、私のわがままだけど」


 喉につかえていた何かが溶けて、消える。

 私は静かに口を開いた。


「……私。自分のことが、よくわからない」

「……うん」

「私には乃愛だけって、ずっと思ってきた。乃愛だけ愛して、乃愛に愛されて、それだけが幸せだって」

「……そっか」

「でも、智友ちゃんに反論できなかった。乃愛を幸せにできるって、目を合わせて言えなかった。……もしかしたら、乃愛のこと、二人の代わりにしてただけなのかもって」

「……ん」


 乃愛はそっと、私を抱きしめてくる。

 背中を優しく撫でられると、胸が詰まる。

 だけどその感覚が、決して嫌じゃなかった。


「乃愛のこと、好きなのはほんと。これだけは絶対、嘘じゃない。……でも、このままだと、胸を張って乃愛の隣にはいられない気がするから」


 私は、乃愛を抱きしめ返した。


「……ちゃんと、自分に誇れる自分になる。嘘つかないで、自分と向き合う。だから、これからも私の隣にいて」

「うん。お姉ちゃんに、私が必要なくなるその日まで。ずっと一緒にいるよ」

「……さすがにそんな日は、来ないよ」


 これから先どうなるとしても、私には乃愛が必要だ。乃愛を好きだという気持ちは、何があっても変わらないと思う。


 そして、乃愛が私の傍にいてくれるなら。他の誰のものにもならないのなら。

 これまでとは違う道を歩んでも、いいのかもしれないと思う。


「乃愛。……大好き」

「うん、うん。私も、大好きだよ」


 乃愛は私の背中をさする。

 あやすように、愛でるように。私は彼女の腕の中で、小さく息を吐いた。やっぱり乃愛は、乃愛だ。母でも父でもない。私の大事な、何より大事な妹。

 それは一生、変わらない。

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