第31話

「今はまだ、難しいけど。いつかちゃんと、乃愛に指輪、送りたいと思って」


 彼女はそう言いながら、私の指にメジャーを巻いてくる。

 器用だからなのか、あるいはこういうことを何度もしたことがあるからなのか、手慣れている。


 生徒会の業務についてそこまで詳しいわけではないが、こういうこともするのだろうか。

 いやいや、そんなわけ。


「乃愛の指、綺麗だよね。細いし、白いし……爪の形もいいと思う」

「昨日から、すごい褒めてくれるね」

「事実だから。……乃愛は自分に自信ないから、たくさん褒めないと」

「……だって、お姉ちゃんが凄すぎるし。私なんて全然だって思っちゃうよ」


 今まで口にしてこなかった本音を、そっと口にする。

 私が甘えてばかりいたせいで、お姉ちゃんに無理をさせてしまった。その罪悪感が余計に、私から自信を奪っているのかもしれない、とも思うけれど。


 お姉ちゃんの隣に並んでも見劣りしない私になりたい。

 そんな願いは今、薄れて消えかけている。

 本当に、このままでいいの?


 問いかける声はすぐに消えて、お姉ちゃんに触れられている喜びに塗り潰されていく。


 無意識のうちにずっと、こうして二人きりでいたいって思ってきたからなのだろうか。

 今、私は確かに幸せを感じている。


「乃愛は乃愛だよ。乃愛にしかない、乃愛だけのいいところだって、いっぱいある」

「たとえば?」

「笑顔が可愛いとこ」


 真正面から言われると、さすがに照れる。

 私が微妙な顔をしていると、お姉ちゃんは腋に手を突っ込んできた。

 突然のことにびっくりして、抵抗することができない。


「ふふ……あはは! ちょ、くすぐったいって!」

「ほら、やっぱり可愛い。もっと笑って?」

「強引すぎ! もー! お姉ちゃんの馬鹿! お返し!」

「わっ……あはは!」


 私からもくすぐり返すと、お姉ちゃんは笑う。

 こんな子供っぽいじゃれあい、久しぶりな気がする。私もここ数年は、早く大人にならなきゃとか、しっかり者にならなきゃとか、そんなことばかり思っていたから。


 すっかり忘れていた。こういうくだらないじゃれあいが、どれだけ楽しくて、幸せかってことを。


 もしかしたら私は、自分で思っているよりもずっと、ずっと甘えたがりなのかもしれない。


 何も考えずにお姉ちゃんに触れられることが、何より幸せだ。彼女が私だけを見ていて、私だけに感情を向けてくれる今が、人生で一番、穏やかにいられている。


 お母さんが亡くなって、お父さんもほとんど姿を見せなくなっても。お姉ちゃんがこうして私の傍にいてくれるなら、それでいい。


 他に何もなくても、それで。

 ……本当に?

 何度も問いかけてくるそんな声が、うるさい。


「……久しぶりにこんな笑った気がするなー」


 しばらくして、お姉ちゃんは静かに言った。


「確かに。こんなにたくさんお姉ちゃんに触るのも、だいぶ久しぶりだし」

「私はいつでもウェルカムだよ。どこでも好きなとこ、触っていいよー」

「どこでもって……」

「どこでもは、どこでも。私は乃愛のものだから、たくさん触っていいんだよ?」


 蠱惑的な笑みを浮かべながら、彼女は言う。

 知らない表情だけど、嫌じゃない。


 触れたいところは無数にある。頬に触れれば熱を感じられるし、胸に触れれば鼓動を感じられる。髪に触れれば、その柔らかさも。

 だけど私が一番触りたいのは。


「……乃愛?」

「……うん。やっぱり、お姉ちゃんの指は綺麗だね」


 私はそっと、お姉ちゃんの手に触れる。

 私の頭を撫でてくれたり、私に甘えてきたり、勉強のためにペンを走らせたり。いつも忙しく動いてきたその手が、指の一本一本が、愛おしい。


 彼女の手には、これまでの私たちの全てが詰まっていると思う。

 だから私は、そっと彼女の指に口づけをした。


「そんなところでいいの? もっと色々、触っていいんだよ?」

「……いいの。お姉ちゃんの指に、触っていたい。駄目かな?」

「……ううん、駄目じゃない。気が済むまで触っていいよ」


 お姉ちゃんに触れていて、気が済むことなんてないと思う。

 いつだって私は、彼女に触れたいと思っている。これまでだって、ずっとそうだった。お姉ちゃんが私の前を歩くだけで、頼もしいと思う気持ちと不安がごちゃ混ぜになって、彼女の手を握って繋ぎ止めたくなった。


 彼女が私の頭を撫でて、微笑みかけてくれるだけで、ぎゅっと抱きしめたくなった。


 ずっと家族愛だと思ってきたこの気持ちは、その実醜さすら感じさせる恋心で。それを自覚してしまった今、自分の心を制御できなくなっている。


 好きだ。

 彼女も私のことを好きだと言ってくれたことが嬉しくて、このままずっと、二人でいたいと思ってしまう。


「もういいの?」


 これ以上は歯止めが効かなくなりそうだと思って、手を離す。

 私は小さく頷いた。


「うん。今はこれだけで、十分」

「そっか」


 お姉ちゃんが微笑んで、私も微笑む。

 いつもとは違う穏やかな空気が、私たちを包んでいた。

 そっとメジャーをポケットに入れて、彼女は私の肩に手を置く。


「じゃ、今度は私の番だね」

「……え」

「私は乃愛のものだけど、乃愛も私のものだから。たくさん触って私のこと刻みつけちゃわないとねー」

「た、たくさん……?」

「うん。あんなところもこんなところも、たくさんねー。さ、乃愛ちゃん。ばんざいして。ばんざーい」

「ちょっと、お姉ちゃん?」


 お姉ちゃんは私の服を脱がしにかかる。

 いや、別に触られるのが嫌とは言いませんけど。でも、朝からすることでもなくない? と思う。


 でもお姉ちゃんは完全にお構いなしで、さっさと私を裸にして、そのまま全身に触れてくる。


 何かスイッチが入ってしまったのか、彼女はしばらく私の体に触り続けていた。


 ……こんな生活がまだ続くと思うと、ちょっと大丈夫かって思うけど。

 お姉ちゃんがあまりにも楽しそうだったから、もう何も言えなかった。





「もー、お姉ちゃんはほんと、しょうがないんだから」

「ごめんごめん。つい楽しくなっちゃって」


 私は小さく息を吐いた。

 あれからしばらく私はお姉ちゃんのおもちゃにされて、解放される頃にはお昼になっていた。


 一応家にまだ食材はあるけれど、今後のために買い貯めておこうということで、近所にあるショッピングモールに来ていた。

 ここは大きめのスーパーも入っていて、色々便利なのだ。


「お姉ちゃんが楽しかったなら、いいけどね。今日のお夕飯はどうする?」

「んー。お肉食べたい!」

「またざっくりだね……。何肉?」

「牛かな?」

「わかった。じゃあ献立、何か考えるね」


 二人で並んで、カゴに食材を入れていく。

 今のお姉ちゃんは、外にいるのに外の表情じゃない。家でしか見せない表情を、ずっと私に向けてくれている。


 それがどうしようもなく嬉しいのに、どこか違和感がある。

 何もおかしいことなんてない。ない、はずだけど。心がざわめくのはどうしてだろう、と思う。


 お姉ちゃんはもう私のものになっている。

 前みたいに、彼女が私以外の誰かと仲良くなることを想像して動悸がした時とは、全く違うのに。


 似たような何かが私の心を刺激している。

 ……なんで?


「乃愛ちゃん、どうしたの?」

「え? あ、ううん。なんでもない。今日は何作ろうかと思って。そ、そうだ! 肉じゃがとかどう?」

「いいねー。じゃあお野菜持ってくるねー」

「お願い」


 お姉ちゃんが、少し遠ざかる。

 私は自分の胸に手を置いた。

 やっぱり、心臓がうるさい。


 今が一番幸せなはずなのに、こんな気持ちになるなんておかしい。おかしいのに。


 自分の気持ちがわからないまま、私は深く息を吐いた。

 それだけで胸の気持ち悪さがなくなることは、なかったけれど。





 エコバッグを持って、二人で歩く。

 あとはもう帰るだけだけど、ふとお姉ちゃんは何かに気づいたように、私の手を引いてきた。


「お姉ちゃん? どうしたの?」

「ちょっとあそこ、見ていかない?」

「あそこって……」


 お姉ちゃんが指差したのは、アクセサリーショップだった。

 見れば、指輪も飾られている。


 私は少し迷ったけれど、お姉ちゃんに手を引かれたから、一緒になって歩き始めた。もしお姉ちゃんに指輪を渡されたら、その時私はどんなことを思うんだろう。


 嬉しいのか、それとも。

 わからないまま、お姉ちゃんの横顔を見つめた。

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