第29話

「ただいま、お姉ちゃん」


 お姉ちゃんは私をぎゅっと抱きしめたまま、動かない。

 あまりにも強い力なせいで、少し息が苦しいけれど。それもまた嫌じゃなくて、私は彼女に身を任せた。


 しばらくして、お姉ちゃんは私を解放すると、部屋の鍵を閉めて、ポケットから香水の瓶を取り出す。


 何回か制服に香水をかけられると、全身がお姉ちゃんに包まれているような感じがした。


「今日、生徒会は?」

「おやすみした。乃愛のことがあるって言ったら、すぐ休ませてくれたよ」

「……そっか」


 お姉ちゃんが私を優先してくれるのは、やっぱり嬉しい。

 二人なら、どこまでも堕ちていっていい、なんて。そんなことを思いそうになってしまうけれど。

 私はぎゅっと拳を握って、お姉ちゃんに話を切り出そうとした。


「そうだ。晩ごはん、作ったから。一緒に食べよ?」

「え。う、うん……」


 お姉ちゃんはにこにこ笑って、私の手を引く。

 用意されていたのは、ハンバーグだ。今度はお姉ちゃんが作ったもので間違いないらしく、洗われたフライパンやヘラがシンクの端で乾かされているのが見えた。


 ずっと私に甘えていたから、忘れていたけれど。

 お姉ちゃんは普通に料理ができたんだっけ、と思う。


 自分じゃ家のことなんて何もできない。そんなお姉ちゃんを私自身が求めていたから、忘れていたふりをしていたのかもしれないけれど。


 二人で食事を始めると、お姉ちゃんは不意に、私をじっと見つめてくる。


「な、なあに?」

「ううん、なんでも。やっぱり乃愛は可愛いなって思って」

「……う。そんなに見られると、食べづらいよ」

「じゃあ、私が食べさせてあげよっか」

「そ、それもいいから!」


 くすくすと、お姉ちゃんは笑う。

 当たり前だけど、お姉ちゃんはお姉ちゃんだ。


 私に甘えていた頃とは違う、ちゃんとしたお姉ちゃんって感じの顔をされると、ちょっと困る。


 もしかするとお姉ちゃんは、駄目な人間を演じていただけなのかもしれない。私のため、あるいは、私たち二人の生活のために。


「……やっぱり料理、上手だね」

「うん。昔取ったなんとやらってやつだねー」


 まるで数年ぶりにお姉ちゃんとまともに話しているみたいに、うまく口が動かない。


 何を話せばいいのかわからないというか、なんというか。

 中学生の頃から私たちは、心の表面を互いになぞりあっていただけなのかもしれない。

 私は意を決して、静かに彼女を見つめた。


「お姉ちゃん。私……やっぱり学校、続けたい」

「……どうして?」

「お姉ちゃんのことは、大好きだけど。友達のことも大事で! それに、お姉ちゃんにだって……」

「私には、いないよ。乃愛以外に、大事な人なんていない。乃愛以外の人に興味なんてない。ヒトなんて、嘘をつくだけの生き物でしょ?」

「お姉ちゃん……」


 やっぱり、お姉ちゃんは。

 昔お父さんにもお母さんにも約束を破られたことを、忘れられないのだろうか。だから誰のことも信じられなくなっているのだとしたら。


 私にできることは?

 お姉ちゃんが私だけを求めているのなら、彼女のために全てを捨てるのが正解なのだろうか。


 揺れる。

 私の大事なものと、お姉ちゃんがぶつかる。傾いた天秤がまた別の方向に傾きそうになって、どうしたらいいのかわからなくなる。


 お姉ちゃんのことを、ずっと見てきたからこそ。これから先のことを、簡単に決めることはできない。


「……じゃあ、こうしようか。今から一週間、学校をおやすみしよう」

「……?」

「その間に、二人っきりで過ごすの。それでもまだ、友達が必要だって思うなら。私も無理強いはしない。だけど、私以外いらないってなったら、その時は——」


 お姉ちゃんは箸でハンバーグを掴んで、私に向けてくる。

 私は少し迷いながら、彼女の箸からハンバーグを口に運んだ。


 美味しい。私の作った料理よりもずっと美味しく感じるのは、腕の問題か、心の問題か。


「約束してよ。友達とも縁を切って、私だけを見るって」

「……わかった」


 お試し期間ということだろうか。もしこの一週間で、お姉ちゃんと二人きりの生活も悪くないと思うようになれば。


 彼女の望み通り、私は全てを捨てることになる。

 私たちにとって何が正しくて、何が私たちのためになるのか。わからないけれど、もう後戻りができないところまで来ているのは、確かだった。


「それじゃ、スマホ出して?」

「え?」

「今日から一週間、スマホはなしで生活するから」

「え、ちょっと待って。じゃあ智友たちに連絡……」

「駄目。学校に必要な連絡はするけど。友達には何も言っちゃ駄目だよ」


 お姉ちゃんの手が、私の胸に触れる。

 前にも同じようなことを、されたけれど。今度は特に体が反応することもなく、そのままスマホをポケットから奪われる。


 お姉ちゃんは自分のスマホと私のスマホの電源を切って、そのままテーブルの上に置いた。


 外部との連絡手段を断たれると、妙に不安になるのはなぜだろう、と思う。


 そんなことないと思ってたけど、私も大概スマホ中毒なのかもしれない。

 ……いや、それよりも。皆にまた心配かけてしまわないだろうか。学校にお姉ちゃんが連絡するなら、失踪したとは思われないだろうけど。


「これでよし。……一週間、楽しもうね」

「……うん」


 ひどく楽しそうなお姉ちゃんとは反対に、私はなんともいえない心地になっていた。果たして、どうなるのだろう。


 今の私の心はひどく不安定で、どう転ぶか全くわからなかった。

 最近、色々なことが起こりすぎている。


 姉妹だと隠すのをやめて、お姉ちゃんに見劣りしないように頑張って、倒れて。そして、お姉ちゃんの本当の気持ちを知った。


 今まで見てきたお姉ちゃんと、本当のお姉ちゃん。

 あまりにも乖離が激しすぎる二人のお姉ちゃんに、戸惑ってはいるけれど。でも、今のお姉ちゃんが本当のお姉ちゃんなら、ちゃんと向き合わないといけない。


 ……自分の中にある独占欲とか、好きの気持ちにも。

 私は深く息を吐いて、気合を入れた。

 ここがきっと、分水嶺だ。





 こんこん。

 お風呂を上がってからしばらく部屋でごろごろしていると、扉が静かにノックされた。


「入っていいよ」

「お邪魔しまーす」


 お風呂から上がってきたらしいお姉ちゃんは、少し顔が上気している。今までのお姉ちゃんだったら、服なんて着ずにいただろうけど、今日のお姉ちゃんは普通に服を着ていた。


 髪もしっかり乾かしている。

 それを見るだけで心臓がうるさくなる理由は。

 今の私には、ちゃんとわかる。


 お姉ちゃんが私に甘えてくれないのが寂しいから。私がお姉ちゃんにできることは、甘やかすことだけで。それができないと、アイデンティティが揺らいでしまうから。


 想像していたよりも、私の恋愛感情は歪んでいる気がする。

 独占欲のせいで鼓動が速くなるって、どうなんだろう。


 本当に好きな相手なら、独占したいって気持ちより、自由にしていてほしいって気持ちの方が強いのではなかろうか。


 などと思ったところで、この気持ちは変わらない。

 私って、重いのかも。


「一緒に寝てもいい?」


 珍しいことを聞いてくる。

 いつもなら、勝手に布団に入ってくるのに。


「いいよ。ほら、どうぞ」


 私は布団を捲って、お姉ちゃんを呼ぶ。

 彼女はそっと、ベッドの端に座った。


「今日は、ただ一緒に寝るだけじゃなくて。……乃愛のこと、もっと深く感じたいな」

「……えっと?」

「つまり、こういうこと」


 一つ一つ、お姉ちゃんはパジャマのボタンを外していく。

 白い肌が眩しくて、目が離せなくなる。見慣れているはずのお姉ちゃんの肌にどきどきしてしまうのは、全ての感情を自覚してしまったせいだ。


 お姉ちゃんも、もしかしたら今まで私の肌にどきどきしていたりとか、したんだろうか。


 いや、どうなんだろう。

 お姉ちゃんに比べれば私なんて、魅力に欠ける気がするけれど。

 でも、好きとは言われているわけで。


「裸で抱き合うと気持ちいいらしいよ。試してみようよ」


 私が同意する前に、お姉ちゃんは私のパジャマに手をかけてくる。

 そんなこと、言われても。

 私はちらと、お姉ちゃんの方を見た。


「……ねえ、お姉ちゃん」

「なあに?」

「お姉ちゃんは私の体見て、どきどきするの?」


 いや、待て。

 私は一体何を聞いているんだろう。こんなことを聞くなんて、どうかしている。


「や、やっぱりなし——」

「するよ。ほら、触ってみて?」


 ボタンを外していた手が、私の手首に触れる。

 そしてそのまま、お姉ちゃんの胸に誘導された。

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