やくそくと、うそ①

 ヒトという生き物は平気で嘘を吐くのだと知ったのは、小学三年の頃。

 あの頃私の母は、病気を患っていた。詳しい病名は覚えていないけれど、難病とかで、何年も治療が必要とのことだった。


「病気が治ったら、家族皆でまたお出かけしようね」

「うん! 私、遊園地行きたい!」

「ふふ、そうだね。絶対行こうね」

「約束だよ?」

「うん、約束」


 母はそう言って、私と小指を絡ませた。

 約束は守らないと駄目だって、父も母も、小さい頃から私に教えてきた。だから母は、必ず約束を守ってくれるものだと信じていた。


 しかし。

 母が約束を果たすことはなかった。


 母が亡くなったのは、それから二ヶ月ほど経ってからだった。私は母の死をあまりよく理解していなかったが、ただ、約束が守られなかったことだけは理解できた。


 あの時感じた悲しみは、母がいなくなった悲しみか、それとも約束が破られた悲しみか。

 わからなかったけれど、何か大事なものが心から欠けたのは確かだった。


「お母さんの分も、これからは三人で仲良く暮らしていこう!」


 父が空元気で言った言葉を、今も覚えている。


「仕事も早めに切り上げて、家族の時間を作るようにするから」

「本当に?」

「ああ。約束するよ」

「……じゃあ、指切りだね」


 私は父と指切りをした。

 これからは、今まで以上に早く帰ってくるって、父は私に約束してくれた。その約束は、しばらくは守られていたけれど。私たちが小学校の高学年になる頃には、徐々に父の帰りは遅くなっていった。

 その原因は、多分。


「お姉ちゃん、こんな時間まで起きてたら体に悪いよ?」


 乃愛は心配そうに言った。

 ……この頃、乃愛は母に似てきた。私はどちらかといえば父似の子供だったけれど、乃愛は母の生写しだった。


 容姿も、性格も。

 恐らく父は、それに耐えられなかったのだろう。亡き母の面影をあまりに感じさせてくる乃愛から、父は逃げた。


 もしかすると、母に責められているようにすら感じていたのかもしれない。

 全ては父のみぞ知ることではあるが。


「……そうだね。そろそろ寝ようか」

「うん!」


 乃愛は私にべったりだった。

 私は、正直乃愛の容姿が母に似ていようと父に似ていようとどうでもよかった。乃愛は乃愛で、私の大事な妹だということには違いないのだから。


 乃愛とは一歳しか違わないから、彼女が生まれた時のことはあまりよく覚えていない。


 ただ、気づいた頃には、この小さくて可愛らしい妹を誰より大事にしたいと思うようになっていた。


「……お父さん、今日も帰ってこないねー」

「……乃愛。私と二人でいる時、お父さんの話はしないで?」

「え、なんで?」

「なんでも」

「いいけど……。あ、そうだ! 今日学校でね! 友達が——」


 二人で布団に入って、向き合いながら話をする。

 それが私たちのルーティンだった。私は無邪気に話をする乃愛を見て、どうしてか胸がいっぱいになって、彼女をぎゅっと抱きしめた。


 温かくて、柔らかい。

 そして。

 泣きそうな心地になる。


「乃愛。一つだけ、約束しない?」

「……約束?」

「そう。私たち二人の間に、嘘はなしだって。絶対に私は乃愛に嘘つかないし、乃愛は私に嘘つかない。……そう、約束して?」

「……いいよ」


 私は少し乃愛と体を離して、小指を絡ませ合った。

 約束に期待をすればするほど、心は欠けていく。母に削られた私の心は、父にまた大部分を削られ、元の形を完全に見失っていた。


 多分、これが最後だと思った。

 乃愛が約束を破ったら、私の心は欠けるどころか、割れてしまうだろう。


 でも、乃愛にとどめを刺されるならば、それでもいいと思った。私が信じられるのは、私が愛せるのは、もう乃愛だけだったから。


「指切った! えへへ、お姉ちゃんと約束ー」

「……どうして笑ってるの?」

「だって、嬉しいもん! お姉ちゃんとこうやって、秘密の約束するの!」

「……乃愛」


 ぎゅっと、彼女を抱きしめる。

 乃愛になら、壊されてもいい。約束を信じられなくされるのなら、乃愛の手がいい。

 私は、そう思った。





 あれから数年が経った。

 しかし、それでも約束は破られていなかった。乃愛は私が聞けば、嘘を吐かずなんでも答えてくれたし、私も乃愛に聞かれたなんでも素直に答えた。


 私たちの間に、汚い嘘も綺麗な嘘もなかった。

 真実だけが私たちの絆を強固なものにしていて、私たちを引き裂けるものは、何もなかったのだ。


 中学生になった私は、外部のヒトを排除することに決めた。

 私たちは家庭環境のことがあり、教諭から何かと声をかけられることが多かった。だが、それは私にとって、ただ煩わしいだけだったのだ。


 いらない。

 私たち姉妹の間に、他者の声なんて。


「すごいじゃないか、白水。今回も学年トップなんて!」


 担任教諭に言われても、何も響かなかった。

 ただ私は、余計なことを言われないように完璧な人間になろうと思っていただけだ。

 乃愛を守るため。乃愛との間に、余計なものを入れないため。


「お姉ちゃん、また一位だったんだ! すごいね!」


 乃愛の言葉だけが、私にとっての救いだった。

 彼女には嘘も偽りもなく、あるのは私への好意だけだったから。


「ふふ。乃愛も中学に上がったら、勉強頑張んないとだね?」

「うっ。わかんないとこがあったら、教えてくれる?」

「うん、いくらでも」


 乃愛との日常を守るためなら、なんだってできる。

 だから私は、睡眠時間も自由な時間も、全て削って完璧な人間を演じた。仮面を被り、他者を私と乃愛から遠ざけた。


 しかし。

 そうしていくうちに、乃愛とも距離ができ始めた。


 いつの間にか私は、乃愛との時間すら削ってしまっていたのだ。本末転倒だと気づいた頃には、後戻りはできなくなっていた。


 そして。

 限界を迎えた私は、倒れた。





「お姉ちゃん! よかった、目が覚めて!」


 白い天井と、乃愛の顔を見て、私は自分が倒れたんだって気がついた。乃愛はひどく腫れた目をしていたけれど、私が目覚めて安堵したようだった。

 だけど、同時に、彼女の表情には哀しげな色が見えた。


「ごめんね。本当に、ごめん。お姉ちゃんが無理してるって、気づいてたのに。止められなくて……」

「乃愛は、何も悪くない。全部、私の蒔いた種だよ」

「ううん。これからは、私がお姉ちゃんを支える。もうお姉ちゃんに甘えないで、自分で全部するから。だから、安心して」


 それから乃愛は、変わった。

 私の後ろにいつもついてきていた彼女は、家のことを一人でするようになり、しっかり者と周りに言われるようになった。

 それだけでなく。


「お姉ちゃん、座って」

「え? いいけど……」

「そこじゃなくて! 私のお膝!」

「え」


 この頃から、彼女は家で私を甘やかすようになった。これまで当番制だった食事も洗濯もゴミ出しも乃愛がやるようになり、手持ち無沙汰になった私は、彼女に甘やかされることとなった。

 膝枕されて、頭を撫でられて。


「お姉ちゃんは、すごいね。頑張ってるね。頑張った分、家ではたくさん甘えていいんだからね」

「え、えぇ……」


 正直、恥ずかしかった。しかし、嬉しくもあった。乃愛とこうして触れ合えるのは楽しいし、嬉しい。


 今までは色々と忙しすぎて、触れ合う機会もあまりなかったけれど。

 倒れたおかげで、また乃愛との距離は近づいた。

 徐々に私は、これはいい手かもしれない、と思うようになった。


 乃愛が家庭のことに時間を使えば、彼女が友達と遊ぶことはなくなる。私を甘やかすことが何より楽しいことだと思わせられれば、私たちの繋がりはより強固なものになる。


 それならば、することは一つだ。

 私は全力で彼女に甘えた。自分では何もできないふりをして、彼女に甘えて、私を甘やかすことは心地いいのだと彼女に教えた。


 そうして私たちはまた、深い繋がりを得た。

 ……それなのに。


「乃愛、一緒に帰ろー」

「あ、うん! 智友、今日は部活休みなんだよね?」

「そそ。だから今日は、遊びまくろうと思って」

「元気だねー、智友は」


 高校生になり、乃愛の周りにはまた友達が増え始めた。

 昔から付き合いのある智友が、何かにつけて乃愛との時間を奪っていき。

 それだけでも、許されざることなのに。


「大丈夫ですか!?」

「大丈夫。ごめん、ちょっとよそ見してて……」

「良かったです。……これ、危ないですね。ちゃんと報告しておかないと」

「あの、そろそろ……」

「あ、ごめんなさい。ご無事で良かったです」


 私はその日、乃愛が新たな友達と抱き合っているところを見た。

 その時。

 みし、と何かが軋む音が、聞こえた。

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