第24話

 お姉ちゃんの背中は、近いようでいつも遠かった。

 お母さんが病気で亡くなって、お父さんも仕事が忙しくて、家に帰ってこないことが多くなって。私たちは二人でいることが多くなった。


 あの頃、私はまだまだ現実がよくわかってなくて、きっとお姉ちゃんはそんな私を心配していた。


 だからお姉ちゃんは頑張って、私を守ろうとしてくれた。

 お姉ちゃんが中一の頃、一度倒れるまで、私は甘えてばかりだった。


 あれからだ。私はお姉ちゃんに、もう頑張ってほしくないって思うようになった。私のせいでお姉ちゃんが頑張らなければならないなら、もっと強い子にならないとって思って。


 それで、家のことも全部一人でするようになって。

 お姉ちゃんが甘えてくれるようになって、嬉しかった。もうお姉ちゃんを頑張らせなくてもいいって、私もお姉ちゃんに何かを返せるって、そう思った。


 でも。

 もしかしたら私は、ただいたずらにお姉ちゃんを家に縛りつけただけで。何も、お姉ちゃんのためになることなんてできていないんじゃないかって。

 いつも、不安で仕方ないんだ。


「……起きた?」


 お姉ちゃんの声だ。

 私は起きあがろうとして、手で制された。


「駄目。熱すごいから、そのまま寝てて」

「……ごめん」


 私はベッドに体を沈ませる。

 お姉ちゃんの匂いがした。

 どうやら私は、お姉ちゃんのベッドに寝かされているらしい。


 ひどく恥ずかしくて、情けない気持ちになる。お姉ちゃんにふさわしい妹になるために、頑張るって決めたばかりなのに。

 こんなんじゃ、何も変わらないのに。


「お姉ちゃんが、運んでくれたの?」

「まあね。学校からは、タクシー使ったけど」

「……生徒会は?」

「休んだ。乃愛より大事な用事なんてないから」


 罪悪感よりも嬉しさが勝ってしまうのは、私が駄目な人間だからなのかもしれない。


 こんなんじゃ、駄目なのに。

 お姉ちゃんを縛りつけちゃいけないのに。


 お姉ちゃんが、他のことより私を優先してくれるのが、どうしようもなく嬉しい。


「……ごめんね、乃愛」

「なんで、お姉ちゃんが謝るの」

「乃愛の様子がおかしいの、わかってたのに。具合が悪いんだって気づかなくて」

「お姉ちゃんは何も悪くないよ。……それに。私だって、お姉ちゃんが倒れるまで、頑張りすぎてるって気づいてなかった」


 あの頃の私は、お姉ちゃんが私のために頑張ることが嬉しいだなんて思っていた。


 頼り甲斐のあるお姉ちゃんでよかった。そんな甘えたことを思っていたから、お姉ちゃんは倒れてしまったのに。


「ううん。違うよ。それは、私がまだ甘かったから。倒れるなんて、まだまだだった」

「……私も、まだまだだね」

「違う。違うよ。乃愛は、そのままでいい」


 そのままじゃ、駄目だ。

 このままじゃ、お姉ちゃんに誇れる私になれない。もっと、もっとお姉ちゃんに近づかないと。


 ……ああ、駄目だ。

 高熱のせいなのか、焦る心が止まらない。


「すごい汗。拭いてあげるね」

「え。そ、それは自分でできるから!」

「駄目。病人は大人しくしてて」

「うぅ……」


 お姉ちゃんは布団をどかして、私のパジャマのボタンを外す。

 いつの間に、着替えさせてくれたんだ。


 いつもは自分の着替えもできないのに、こういうところは、やっぱりお姉ちゃんだ。


「じっとしててね」


 ゆっくりと、優しい手つきで汗を拭かれる。タオルの感触が、ひどくくすぐったい。

 誰かに看病されるなんて、久しぶりだ。


「私ね。……お姉ちゃんに甘えられて、ほんとは嬉しかったんだ」


 熱のせいか、沈黙に耐えられなかったせいか。

 私は、いつもなら絶対に言わないことを、気づけば口にしていた。


「外ではいつも頑張ってて、すごい人なのに。私に甘えてくれるのが嬉しくて、もっと甘えてほしくて……それじゃ、駄目なのにね」


 お姉ちゃんは、すごい人だ。

 私に縛られていて、いい人間じゃない。どこまでだって飛び立てる人を、いつまでも縛っているわけにはいかない。


「ごめんね、私が弱いせいで。お姉ちゃんを、ずっと縛ってて。私もお姉ちゃんも、このままだと、駄目になっちゃう」

「どうして?」

「……だって。私たちは、姉妹だから。いつかは離れ離れになるのに。甘えたり、甘やかしてたりじゃ、駄目だよ。もっと外に目を向けて、色んな人と関わって、それぞれの道を歩かないと」

「そんな意味、ある?」


 お姉ちゃんは、ズボンに手を掛ける。

 抵抗をしようと思ったけれど、力が入らない。私は結局、上も下も脱がされることになった。


 相変わらず優しい手つきで、汗を拭かれる。

 恥ずかしいのに、嬉しい。私は、完全に熱でおかしくなっている。


「おばあさんになっても仲良い姉妹だっているよ。姉妹二人で暮らしてる人たちだっている。どうして乃愛は、姉妹は離れ離れになるものだって思うの?」

「それは……。お姉ちゃんは、私に縛られてていい人じゃないから」

「それを決めるのは、私だよ。私は、縛られてるわけじゃない。飛び立ちたいわけでもない。乃愛と一緒にいたいんだよ。他の誰かとじゃなくて、乃愛と」


 お姉ちゃんの言葉が、頭に響く。

 私は、お姉ちゃんの能力を言い訳に使っているのだろうか。

 お母さんはいなくなって、お父さんも滅多に帰ってこなくなって。


 だから家族は、いつかなくなるものだって、そう思うようになってしまったのかもしれない。


 あるいは、お姉ちゃんがいつか私から離れていくのなら、せめて自分の手でお姉ちゃんを旅立たせたい、なんて思っていたのかもしれない。


「一般論は、どうでもいいよ。乃愛はどうなの? 私と一緒にいたい? それとも、いたくない?」


 問いかける声はひどく優しくて、私の胸の底に溜まった本音を掬い上げてくるような感じがする。

 口が勝手に開く。


「一緒に、いたいよ。……本当は、ずっと一緒に」

「でしょ? なら、一般的にどうとか、他の家族がどうとか、そんなのどうでもいいよね? 私たちさえ幸せなら、他のことなんて全部全部、どうでもいいよ。……ね?」

「そう、かも」


 頭が働かない。

 お姉ちゃんはにこにこ笑いながら、私の胸に触れてくる。

 そのまま汗を拭いてくれるのかと思ったら、違った。


 お姉ちゃんは私の胸の真ん中あたりに触れて、今度は耳をぴったりくっつけてきた。


「……ふふ。乃愛の音がする」

「は、恥ずかしいからやめてよ」

「……駄目。今日の乃愛は、私に大人しくお世話されること」

「これ、お世話じゃないでしょ」

「細かいことはいいの」

「良くないと思うけど……っ!?」


 びくりと、体が跳ねる。

 お姉ちゃんが私の肌を舐めたからだ。


「ちょっと!?」

「……心配かけた、罰だよ」

「……お姉ちゃん」


 お姉ちゃんが倒れた時、私はこの世が終わってしまうんじゃないかってくらい心配した。


 お姉ちゃんにも、同じ気持ちを味わわせてしまったのだろうか。

 だとしたら、確かに。今ここで抵抗するわけにはいかないって気持ちになる。


 ちょっと、おかしいかもしれないけれど。

 こんなこと、普通は姉妹ではしない。だけど、お姉ちゃんがそうしたいなら。私たちの間では、許されるべきなのかもしれない。


「乃愛。ずっと、ずっと一緒だよ」


 舌が私の肌を滑って、肩の方までやってくる。

 お姉ちゃんは、私の肩に歯を立てた。


 前に首筋を噛まれた時とはまた違う、くすぐったいような、熱いような感じがする。お姉ちゃんが私の中に溶けて、私が前とは違ったものに変貌するような。


「好き。大好きだよ、乃愛」

「……わ、たしも。私も、好き」

「私から離れたら、絶対駄目だよ、乃愛」


 今この時が、本当に現実なのかわからなくなってくる。

 熱くてぼんやりした頭の中に、お姉ちゃんの言葉と私の言葉がじわじわ溶けていく。過去も未来も、前後も左右もわからなくなる。


 お姉ちゃんしか、見えない。

 私はそのまま、お姉ちゃんにいくつもの跡をつけられた。


 満足したらしいお姉ちゃんは、何事もなかったかのように、いつも通りの笑みを浮かべる。どのお姉ちゃんが本当のお姉ちゃんかわからないまま、私は再び目を瞑る。

 意外にも悪夢は見ず、安眠することができた。





 再び目が覚めると、もう朝になっていた。お姉ちゃんは隣で眠っていて、私は思わず彼女の頭を撫でる。


 柔らかくて、心地いい感触。

 どうやら、熱はかなり下がっているらしい。まだ体がだるいけれど、起き上がれないほどじゃない。


 私はゆっくりと起き上がって、キッチンに水を飲みに行こうとした。

 その時、お姉ちゃんの机が目に入る。

 そこには一枚の紙が置かれていた。


「……え?」


 その紙には。

 退学届、と書かれていた。

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