第22話

 それがお姉ちゃんの唇だってすぐにわかったのは、頬やおでこにキスされることが多かったせいなのかもしれない。


 思わず目を開けると、お姉ちゃんの顔がひどく近かった。

 とっ、とっ、とっ。


 刻むような心臓の音が、やけに胸に響く。この前の、叩くような、急かすような心臓の音とは、リズムは同じでも意味が違う。

 柔らかい布越しに感じるような音の刻みが、どこか心地いい。


「閉じててって言ったのに。……悪い子だ」

「お、姉ちゃん」

「そうだよ。私は、乃愛のお姉ちゃんだよ」


 下唇を、軽く噛まれる。

 ぴくりと震える唇に、またお姉ちゃんの唇が重なる。


 互いの唇が、互いのためにあるみたいに、ぴったりくっつく。心の凹凸もこれくらい簡単にピッタリ合わさって、離れることがなければ。


 なんてぼんやり思うけど。

 ……待って。

 いきなりのことで、つい受け入れてしまったけれど!


「お姉ちゃん! 何してるの!」

「乃愛の可愛い唇に、キスしてる」

「かわっ……!?」


 可愛い唇て。

 漫画みたいなセリフを言わないでほしい。そもそも唇に可愛いも何も! いやいや、お姉ちゃんの唇は可愛いかもだけど! だけど!


「お詫び、でしょ? 抵抗したら、駄目だよ」

「やっ……」

「やじゃない」


 初めてのキスが、お姉ちゃんとで、しかも外でって。

 さすがにどうかと思うんだけど、お姉ちゃんはお構いなしだった。そもそもお詫びとかそういうのでキスはしなくない? って思うし。


 この前はギリギリのところで避けられたけれど、今日は無理だ。

 それに。

 一度してしまったら、二度も三度も同じで。


 でも、何度も唇にキスされる度に、心がぐらぐらする。痛いけど、痛くない。苦しくはないけれど、波が立つ。


 この心を、感情を、なんと表現すればいいのだろう。

 あと少しでわかりそうだったけれど、お姉ちゃんが離れてしまって、何もわからなくなる。


「あ……」


 思わず声を上げると、お姉ちゃんは唇に手を当てて笑った。


「ふふ。もっとしたくなっちゃった?」


 いつもとは違う、どこか艶やか笑み。

 心臓が跳ねる。


「な、ならないよ! ていうか、キスは好きな人とするものだって言ったのに!」

「乃愛のこと好きだって、前も言ったよね?」

「そういう好きじゃなくて!」

「じゃあ、どういう好きならいいの?」

「それは……恋愛的な、ね? ……わかるでしょ!」


 子供みたいなことを言わないでほしい。

 お姉ちゃんは私よりよっぽど大人なんだから、わかっているはずなのに。


 なんだ。なんなんだ。

 私に言わせたいのか。お姉ちゃんは一体、何を私に求めているのだろう。


「わからないよ。乃愛の定義を、私に教えて?」

「……だから、その。家族とじゃなくて、恋してる相手にするものでしょ」

「家族に恋してたら、駄目なの?」

「え……」


 家族に、恋?

 ……いや。


 考えたことがなかったわけじゃない。でも、したいとかしたくないとか以前に、家族とそういうことはできないし、しちゃ駄目だと思う。


 でも、なんで駄目なのって言われたら、普通とか常識とか、そんな言葉でしか否定できなくて。


 そんな言葉に流されてしまうのは、間違っていて。

 本当は、普通だとかそうじゃないとかどうでもよくて。本当に大事なのは、心だってわかっているのに。


 家族とは、家族らしくいなくちゃいけない。

 私の頭にはそういう前提条件があって、その前提を肯定したいがために、常識だとか普通だとか、耳障りのいい言葉を並べているだけにすぎないのかもしれない。


 でも。

 でも、本当の、私は。


「……私は、好きだよ。乃愛のこと。この世界の、何よりも」

「……え」

「そうじゃなきゃ、キスなんてしないよ。乃愛さえいれば、他には何もいらない。この世が終わっても、乃愛さえいれば、それでいい。乃愛は、違うの?」

「わ、たしは」


 お姉ちゃんは、私の大好きな人。

 お姉ちゃんが私に甘えてくれるのは嬉しい。他の人に甘えることを考えたら、胸が痛くなる。

 ……あれ?


 私って、もしかして。

 え、あれ、うん?

 いや、いやいや。そんなわけ。そんな、わけ……。


「……なんてね」

「……え?」

「乃愛ちゃんの反応が可愛いから、ついからかっちゃった。顔、りんご飴みたいにまっかっかだよー?」


 りんごじゃなくてりんご飴なんだ。なんで飴にしたんだろう。

 ……ではなく!


「え。冗談だったの?」

「ふっふっふー。さあねー。そこは乃愛ちゃんに考えてもらえないと悲しいから、種明かしはしないよー」


 お姉ちゃんはそう言って、いつも通りの笑みを浮かべる。

 それは、家で見せる笑みと同じだ。それを見るだけで、安心する。私は小さく息を吐いて、自分の唇に手を当てた。


 まだ、お姉ちゃんの感触が残っているような気がする。

 さっきの言葉が冗談であっても、キスされたことは変わらない。

 事実は冗談ではない。ない、はず。


 でも、お姉ちゃんの顔を見るとあまりにもいつも通りで、キスされたのが現実だったのか疑わしくなってしまう。


「あ、でも。乃愛ちゃんの唇、とっても柔らかくて最高だったよー。これはほんとね?」

「……お姉ちゃん」

「なあに?」

「……今日のお姉ちゃんの夜ごはんは、味噌汁だけね」

「えー! なんでぇ!?」

「なんでも!」

「やだやだやだー! ちゃんとしたごはん食べたいよー!」


 お姉ちゃんは私に縋り付いてくる。

 その間も、私はお姉ちゃんとしたキスのことを思い返していた。


 どきどきする。痛いくらいに胸がうるさいのに、心地よくて変になりそうだった。


 私は深く息を吐いた。でも、どれだけ深呼吸したって胸のドキドキは消えそうにない。これまで感じていた正体不明の気持ち悪さの正体に行き着いてしまいそうになって、でも、ほんとにいいの? って知らない私が言っている。


 だけど、結局、見つけてしまったものを見なかったことにはできない。

 私は自分の胸に手を置いた。

 どうしようもなく、心臓が、心が、動いている。


 気持ち悪さと気持ちよさは半分半分で、心は抜け掛けの歯みたいにぐらぐらだった。





「ふいー。お風呂上がりの牛乳は最高だねー。あ、乃愛ちゃん乃愛ちゃん! 今日の煮物は甘めの味付けでお願いね! あとお味噌汁の具はカブがいいなー! あ、あとあとサラダはベビーリーフ抜きで! あれ苦くてきらーい!」

「……」


 いつもより注文多くない?

 あんなに色んな人に声をかけられていた凛々しいお姉ちゃんは一体どこに行ってしまったのか。お姉ちゃんは全裸でクーラーに当たりまくっていた。


 廊下には点々と足跡が……というかもう廊下全体がびしゃびしゃになっている。


 わんこじゃないんだから、濡れた体で歩き回らないでほしい。

 ていうかもっと恥じらいとかはないの? いくら私しかいないって言っても全裸で歩き回ったりクーラーの風に当たったりするのは恥じらい捨てすぎっていうかあんなに色々悩んでいた私が馬鹿みたいっていうかなんなんだお姉ちゃんふざけているのか。


 ふふ。

 ふふふふふ。


「あれ、乃愛ちゃんどうしたの? すごい顔してるけどー。怖いよー? ほら、スマイルスマイル!」

「スマイルって、こういう感じ?」

「ひっ……!? こ、怖い怖い! いつもの乃愛ちゃんに戻ってよー!」


 お姉ちゃんはいつものお姉ちゃんに戻りすぎだ。

 最近すっかり忘れていたけれど、お姉ちゃんってこんな感じだった。

 だから自立させなきゃって思っていたわけで。


 ……はああぁ。

 ほんと、馬鹿みたい。結局独り相撲なのかなぁ。


「お姉ちゃーん。大好きな妹の言うこと、聞いてくれるかなぁ?」

「は、はーい。い、いくらでも聞いちゃうよー……?」

「……正座」

「え」

「大好きなお姉ちゃんが正座してくれたら、乃愛嬉しいなぁ?」

「え、でもでも……」

「……」

「はい。……こ、これでいいかな?」


 私はキッチンを出て、正座をするお姉ちゃんの前に立った。

 裸のお姉ちゃんを正座させるのは、やっぱりどうかと思うけれど。私は小さくため息をついて、お姉ちゃんの顎に手を当てた。


「……乃愛?」


 嘘と本当。冗談と、そうじゃないもの。

 今の私には色んなものが曖昧で、見えているようで見えていなくて、まだまだ足りていないことが多すぎる。


 一瞬で全てに答えを出せたら、幸せかもだけど。

 それができないのが、人間であって。


 私はそっと、お姉ちゃんの唇にキスをした。温かくて、柔らかくて、お風呂上がりって感じがする唇。


 ああ、お姉ちゃんだ。

 ずっと見てきた、誰より知ってるお姉ちゃん。


 そんなお姉ちゃんに、私は自分からキスをした。

 心臓がうるさいけれど、心は静かだ。

 やっぱり、私は。


「……お姉ちゃん」

「……うん」

「お姉ちゃんは、やっぱりお姉ちゃんだね」


 目を逸らしちゃいけないものが、私の眼下に広がっている。向き合わないと、私はきっと、私ではいられなくなるんだろう。

 私はそっと、もう一度お姉ちゃんに口づけをした。

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