第18話

 触れる。

 柔らかな、頬の感触がした。

 そのまま引っ張ってみる。縦、縦、横、横……。


「乃愛?」


 ……はっ。


「ご、ごめん! 寝ぼけてつい……!」

「……ふふ。いいよー、もっと触って。私、乃愛に触られるの好きだし」


 廊下から差し込む光で、かろうじてお姉ちゃんの顔が照らされる。

 お姉ちゃんは、いつも通り笑っている。学校での笑みと家での笑みは違う。違うけれど、表面上はやっぱり同じで。


 ちゃんとよく見れば、違うってわかるのに。

 パッと見ただけだと同じように見えてしまうから、少し嫌だと思う。

 眠いせいかな。こんなに、面倒臭いことを考えてしまうのは。


「乃愛に触られてると癒されるなー」

「逆じゃない? 触った方が癒されるんじゃ……」

「それ、触ってもいいってこと?」

「別にいいけど……」


 頬くらいなら、いくらでも差し出すとも。減るものじゃないし。

 そう思っていると、お姉ちゃんはもそもそ布団の中に入ってきて、そのまま私の背中に触れてきた。


「ひぇっ……!?」


 冷たい。

 まさかスウェットの中に手を突っ込まれるとは思わず、絶句してしまう。いや、触ってもいいとは言ったけれど、今の流れ的に普通ほっぺた触らない?

 なんのサプライズだ、これは。


「……乃愛ちゃん、あったかい」


 ぽつりと囁かれる言葉は、間違いなく、私にだけ向けられた言葉だ。

 学校でのお姉ちゃんは、こんな穏やかで、密やかな話し方はしない。口調も、声色も。全てが完璧な会長のそれとは違うから、ちょっとだけ安心する。


 もやもやしたり、安心したり。

 寝起きの心は山の天気より変わりやすい。


 人間万事塞翁が馬。一喜一憂してたら体がもたないから、やめよう。

 なんて、思うけど。

 心の動きをそう簡単に止められる人なんていないわけで。


「もう。お姉ちゃんはほんと、しょうがないんだから」

「ふふ。私の背中にも、触ってみる?」

「や、そういうのいいって!」

「いいからいいから!」


 背中から手を引き抜いて、今度は私の手を握ってくる。

 お姉ちゃんはそのまま、背中まで私の手を導いていく。


 体、柔らかいなぁ。私なんて背中の痒いところに手が届かないくらいには、体が硬いというのに。

 ……じゃなくて!


「あったかい?」

「え、あっと……」


 心臓がドキドキうるさいのはどうしてなのか。

 さっきとは全く違う、ある種穏やかな胸の痛み。ピリピリする感じがなくて、でも、苦しくもあるような。


 お姉ちゃんの背中には、触り慣れているはずなのに。

 背中を洗ってあげた時も、いつも体を拭いてあげる時も、何度も触ってきたのに。それなのに何か、触れたことのない珍しいものに触れたような、そんな気がしてしまう。


 あったかい。

 それは、物理的なものだけではなくて。

 私は、静かに口を開いた。


「……うん。あったかい」

「そっか、よかった」


 不意に、沈黙が訪れる。

 至近距離で見つめあっていると、光も闇も関係なくなって、お姉ちゃんのことしかわからなくなっていく。


 それが嫌じゃない気がするのは、やっぱり。

 ……寝起きのせいなのかもしれない。

 むむむ。


 今日の私はやっぱり、変だ。どれくらい変かっていうと、ツチノコくらい。

 いや、ツチノコが変なのかそうじゃないのかはわかんないけど。


「もっと触っていいよ。背中だけじゃなくて」

「え」

「ほらほら。乃愛ちゃんはどこに触ってくれるのかなー?」


 お姉ちゃんは期待した様子で言う。

 いやいや、どこにって言われても。背中を触っているだけでかなりドキドキだから、これ以上別のところに触りたくはないんだけど。


 でも、お姉ちゃんはめちゃくちゃ期待している。

 それはもう、遠足前の子供かなって感じの表情である。

 ……うぅ。

 私はそっと、背中から手を離して、首に触れた。


 暗くても、その白さはわかる。この前お姉ちゃんに首を噛まれた時みたいに、私からも、なんて。


「私の首、好きなの?」


 そう聞かれて、はっとした。

 私は弾かれたようにベッドから飛び出す。


「お姉ちゃん! 喉乾いてない!? 私はもうミイラ寸前ですが!」

「……あはは。ちょっと乾いてるかな?」

「だよね! な、何か入れるよ!」

「はいはーい」


 危なかった。

 なんかこう、倒錯的な世界に足を踏み入れそうになっていた気がする。お姉ちゃんがどこに触るのか、なんて聞くから。


 いやまあ、首は別に変なところじゃない。じゃないんだけど、噛まれたことがあるせいで色々普通じゃなくて。


 むむ、むむむ……。

 だ、大丈夫。もう今ので完全に目が覚めた。変にドキドキしたりもやもやしたりはしない。私の勝ちである。


 私は急いで台所に駆けて、ノンカフェインのお茶を用意し始めた。

 お姉ちゃんはいつの間にか、椅子に座っている。

 さすがお姉ちゃん。行動が早い。


「お姉ちゃんは、どうして生徒会長になったの?」


 お湯を沸かしながら、なんとなく問う。


「うん? 皆が投票してくれたから?」

「……」

「冗談冗談。んー。……誰にも干渉されないため?」

「……干渉?」

「そ。私たち、先生とかから色々言われること多かったでしょ?」

「ああ、確かに」


 お母さんはもういなくて、お父さんも仕事が忙しいから。私たちは昔から大人の人たちに心配されていた。


「でも、私がちゃんとしてれば。誰にも文句は言われないし、干渉されることもないでしょ? だから、生徒のトップを目指そうと思って」

「……そっか。すごいね、お姉ちゃんは。私なんてそんなこと、考えもしなかったよ」

「乃愛ちゃんはそれでいいんだよ。そこにいるだけで優勝なんだから! ……それに、いつもこうやって、家のことしてくれてるし。大助かりだよー」


 そう言ってくれると、ちょっとだけ救われる。

 私は小さく息を吐いた。


「無理しちゃ駄目だよ」


 お姉ちゃんは中一の頃、一度倒れたことがある。あれはきっと、頑張りすぎたせいだ。


 あの時まで私は、何も考えず無邪気にお姉ちゃんに甘えていた。

 でも、それじゃ駄目だって気づいたから、自分にできることを頑張るようになったのだ。


 それからお姉ちゃんも家では頑張ることをやめて、私に甘えてくるようになった。


 初めてお姉ちゃんに甘えられた時、それまでの人生で一番嬉しかったのを覚えている。


 あの頑張り屋のお姉ちゃんが、私に甘えてくれるなんて、と感動したものだ。

 でも、今は。


「大丈夫だよ。もう乃愛ちゃんに心配かけるようなことはしないから」

「……うん」


 三年で私たちの関係は変わった。

 お姉ちゃんは、家ではすっかりふにゃふにゃになってしまって、見る影もないってくらいだ。


 それは、別にいい。

 でも、でもである。


 私たちは、ずっと一緒にはいられない。家族であるからこそ、いつかはそれぞれの道に進むとわかっている。


 だからこそ、私に甘えきっているお姉ちゃんを、少しずつ自立させていかなければならないと、最近は考えるようになったのだ。


 終わりを意識すればするほど、胸がずきずきするけれど。

 多分、それは錯覚だ。


「……だから、ずっと二人で。どんな時も、一緒にいようね。明日も、明後日も、もっともっと、ずっと先も」

「……お姉ちゃん」


 わかっているはずなのに。

 家族というのは、最も深くて、最も遠い繋がりだ。幼い頃は一緒にいても、歳を重ねれば徐々に同じ時間は減り、最後には。


 家庭という巣から旅立って、あとはもう、一年に数回会う程度の仲に変わる。


 血の繋がりは決してなくならない。だけど、恋人や親友ともまた違って、深く交わることもない。


 だから、ずっと一緒にはいられない。

 お姉ちゃんだって、それはわかっているはずだ。


「お姉ちゃんは——」


 言いかけて、止める。

 ちょうど、お湯が沸いたからだ。私はポットにお湯を注いで、お姉ちゃんに持っていく。


 お姉ちゃんはじっと、私を見ていた。

 私たちの間で、約束は絶対だ。破ることは許されないし、嘘も許されない。だから迂闊なことは言えない。


「大好きだよ、乃愛」


 私の葛藤を知ってか知らずか、お姉ちゃんは言う。

 私はポットをテーブルに置いて、そっとお姉ちゃんの頭を抱きしめた。


「……私も大好きだよ、お姉ちゃん」


 嘘じゃない。

 大好きだから。お姉ちゃんは、どこまででも一人で歩いていけると信じているから。私は、約束を避けた。

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