第16話
「お、姉ちゃ……!?」
初めての感触。歯は人体で一番硬いと聞いたことがあるけれど、それも頷ける気がした。
唇の柔らかさとは対照的で、でも、骨の硬さともちょっと違う。
確かな存在感のある、刃のような硬さが、私の首に突き刺さっている。
「好きにさせてくれるんでしょ?」
「それは、そうかもだけど……」
普通、こんなことはしないと思う。
そもそも、今まで甘えられることはあっても、噛まれることなんてなかったのに。
首筋にかかる息が熱すぎて、変になりそうだった。でも、確かに好きにさせてと言われて、駄目と言わなかったのは私だ。
約束を破るのも、嘘をつくのも、私たちの間ではなしだ。
数年前に小指と小指で誓った約束は、存外まだその存在感を薄れさせることなく、私の心に居座っている。
だけど、でも、しかし。
「……乃愛の首、しょっぱい」
「汗、かいてるから。……ちょ、舐めないで!」
お姉ちゃんは私の首を噛んだかと思えば、ゆっくりと舐めてくる。
まるで犬みたいだ、と思う。
智友にわんこちゃんって呼ばれているからって、こんなところまで犬っぽくならなくてもいいのに。
ていうか、いつまで舐めてるんだろう。
そう思っていると、お姉ちゃんは私から離れた。
熱い吐息の感触と、冷たい歯の感触が遠ざかる。
私は思わず、首に手を当てた。
「……お姉ちゃん?」
「なあに?」
止めても続けそうな感じだったのに、意外にもお姉ちゃんは大人しく私の言うことに従う。
それがどうしたってわけじゃないけど。
……むむ。
「いきなりごめんねー。乃愛ちゃんの首があんまりにも美味しそうだったから、つい」
そう言って笑うお姉ちゃんは、完全にいつも通りだった。
別に、いつも通りじゃないお姉ちゃんが見たかったとか、そういうのはないけれど。
なんというか、釈然としない。
いきなり変なことしてきて、いきなりいつも通りに戻るのは、ずるいと思う。
いっそ私からも変なことする?
いやいや。そんなことしたらいよいよ収拾がつかなそうだし。……いや、でもなぁ、うーん。
「首が美味しそうって……お姉ちゃんは吸血鬼か何かなの?」
「そうかもねー」
「いや、違うでしょ」
「あ、お風呂先入っていいよ。今日はお疲れ様ー」
「……」
何か企んでる?
今日のお姉ちゃんは何か、こう、いつも通りだけどいつも通りじゃない気がする。気というかオーラというか、なんだろう。
なんとなーく、ピリッとしているような。
そう、それはさながら、小学校の給食で出た麻婆豆腐のように。
……うまくない? いや、麻婆豆腐じゃなくて、私の比喩が。
今度どこかで使おう、この例え。
「乃愛ちゃん」
お馬鹿なことを考えていたせいで、警戒が緩んでいたのか。
いつの間にかまた私の方に近づいてきていたお姉ちゃんに、抱きしめられる。
また首を噛まれるかと思って、体がこわばるけれど。予想に反してお姉ちゃんは、私の胸に触れてきた。
「……ひっ!?」
ちょ、なになになに!?
疲れてるのか。疲れが溜まりすぎておかしくなっているのか、お姉ちゃんは!
どこの世界にいきなり妹の胸を弄る姉がいるというのか。いくら私たちが普通の姉妹より仲がいいといっても、こういうことをするのはさすがにおかしい。
……今まで散々お姉ちゃんと一緒にお風呂に入ったり、お風呂上がりの体を拭いてきたのに、今更何を言っているんだって話かもだけど。
いやいや、それとこれとは話が別!
とにかく、止めないと!
パニックになっていると、不意に胸が、微かに軽くなった。何かと思っていると、お姉ちゃんは胸ポケットに入っていた私のスマホを抜き取ったようだった。
……え。
「お風呂に入るなら、スマホは置いてかないとね。お風呂でスマホを弄るのは、あんまり体によくないよー」
「あ、うん。そ、そうだよね……」
ごもっとも。
確かに最近、お風呂で友達とメッセージを送り合ったりして、いつの間にかかなり長風呂をしてしまっていることが多い。
「どうしたの、乃愛ちゃん。可愛い顔しちゃって」
「なんでもない!」
私はさっさと部屋に着替えを取りに行こうとした。
首を噛まれたのは、ともかく。抱きしめられて、触れられて、一人でテンパっていたのが馬鹿みたいじゃないか。
いや、みたいっていうか、馬鹿そのものなんだろうけど。
そもそも。
そもそもである。
姉妹でそんなことをするなんてありえないし、私たちは健全に仲がいい姉妹ってだけなのだ!
変なことなど何もない。何も起こりえない。落ち着け、私。
「……あ」
お姉ちゃんは、何かに気づいたように声を上げる。私は振り返った。
その瞬間、お姉ちゃんは私に一歩近づいてきた。
ふわりと、私のものかお姉ちゃんのものかわからない匂いがした。
「もしかして乃愛ちゃん、そういうの、期待しちゃってた?」
甘い声。
甘い瞳。
鼓動が跳ねるのは、気のせいなんかじゃなくて。私は喉がきゅってなるのを感じた。余計な言葉が漏れるのを、本能が防いでいるのだろう。
「し、しないから! そもそも姉妹なんだからそういうことになるわけないしお姉ちゃんと私はそういうのじゃないしそもそものそもそものそもそも! 私とそういうことしたい人なんているわけないしとにかくだから——」
「私は、いいよ?」
「……は」
いい。
いいって?
何が良くて、何が悪いの?
いや、そういう問題じゃなくて。
うん?
あれ?
「乃愛ちゃんとなら、そういうのもいいかなって。……乃愛ちゃんは?」
今、私に振られても。
何を言っても駄目な気がして、困る。
「わ、たしは。……できないよ」
「どうして?」
「だって私たち、姉妹でしょ?」
「姉妹の何が問題なの? むしろ血の繋がりがあるからこそだと思うけど」
「それは……」
普通、姉妹でそんなことはしない。
そう言おうとして、やめる。
お姉ちゃんの目が、あまりにも真剣だから。普通だとか、常識だとか、その程度の言葉は誤魔化しにもならないと、その瞳が告げている。
でも、私は。
「……とにかく。お姉ちゃんとは、できないよ」
「そっかー、残念」
お姉ちゃんは一転して、ケロッとした様子で言う。
……うん?
「あの、お姉ちゃん?」
「あーあ。乃愛ちゃんの成長、触って確かめたかったのになー」
「……なんの話?」
「うん? お風呂で触りっこして、成長の具合を確かめるって話でしょ?」
「……さわりっこ? せいちょう?」
「うん。……え? 乃愛ちゃんは、なんだと思ってたの?」
確かに。
確かに、そういうこと、としか言っていなかった。私が勝手にあっち方面で考えてしまっていただけで、お姉ちゃんは最初から?
……。
「……う」
「う?」
「うにゃああああ!!」
「乃愛ちゃん!?」
私は逃げた。
自分の頭ピンク度合いに耐えることができなかったのだ。
違う。違う違う違う!
別に私はそういうのを期待してたんじゃなくて本気でお姉ちゃんとのことを考えてでもそもそも本気で考えてしまうところが頭ピンクって話で色々おかしくてどうかしてて!
ああああ、もう!
これからどういう顔でお姉ちゃんを見ればいいのか、わからなくなるじゃないか!
私はお風呂に逃げ込んで、頭を冷やそうとした。
湯船に浸かっても、頭が茹っていくばかりだったけれど。
「……あれ?」
お風呂から上がり、テーブルの上に置かれたスマホを確かめてみて、ふと気がつく。
開いた覚えがないけれど、静玖とのメッセージ画面が開かれている。もしかして、お姉ちゃんとあれこれしているうちに、間違えて開いてしまったのだろうか。
静玖からのメッセージは、一時間前に来ている。
……既読スルーしたみたいになってしまっていないか?
慌ててメッセージを返そうとして、ふと気づく。
「この匂い……」
スマホから、さっきの香水の匂いがする。
さっきお姉ちゃんに香水を振りかけられたから、そのせいだろうか。私はそっとスマホを持ち上げて——。
「乃愛ちゃーん。上がったー?」
「ひぇっ」
「……? どうしたの、そんなにスマホに顔近づけちゃって。目、悪くなっちゃうよ?」
「そ、そうだね。視力は大事だよね、うんうん」
危なかった。
私は一体何をしようとしていたんだ。
こんなことしたって何にもならない。そもそもスマホは毎日触っているもので、除菌はこまめにしているけれどやっぱり色々あれなのは確かなわけで。
……はあぁ。
ほんと。
私、何してるんだろ。
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