第15話

「大丈夫ですか!?」


 静玖が焦った様子で声を上げる。私は顔を上げた。


「大丈夫。ごめん、ちょっとよそ見してて……」

「良かったです。……これ、危ないですね。ちゃんと報告しておかないと」


 静玖は側溝を見て言う。


「あの、そろそろ……」

「あ。ご、ごめんなさい。ご無事で良かったです」


 私は静玖と離れて、今度は足元をちゃんと確認しながら歩き出す。

 よそ見をしているとまた危ないことになりそうだったから、お姉ちゃんの方は見ないように努めた。





「では、今日はこれで解散です。皆、気をつけて帰ってください」


 解散の言葉がかかり、生徒たちは三々五々散っていく……わけもなく、お姉ちゃんの方に集まっていた。


 ちょっとしたファンとの交流会のようなものらしい。

 少し予定は変わったけれど、今日はこのまま先に家に帰るとしよう。いつもならお姉ちゃんを待っているところだけど、今日は作戦がある。


「駅まで一緒に帰りませんか?」


 静玖が声をかけてくる。

 ガチ勢の静玖がお姉ちゃんの方に行っていないことに驚きつつも、私は微笑んだ。


「いいよ。……静玖は会長と話さないの?」

「この前お話できたので、今日は他の会員に譲ります。一度会長と話したら、ずっと話し続けてしまいそうなので……」

「さすが静玖会長。ちゃんと会員のこと考えてるんだね」

「か、会長はやめてください!」

「いいじゃん、今後毎日呼ばれることになるかもだし」

「そ、そうですかね……」

「期待してるよ、未来の生徒会長」


 くすくす笑って、二人で歩き始める。

 こうして普通に友達と話しながら帰り道を歩くのは、考えてみればかなり久しぶりな気もする。


 中学の頃はほとんどお姉ちゃんにつきっきりだったから、智友以外とあまり関わってこなかったのだ。


 気づけば私も高校生。

 青春真っ盛りなのだから、後悔しないように色々するべきなんだろうけど。


 色々、色々……。

 うーん。


「乃愛さんは、どっち方面ですか?」


 いつの間にか、駅に着いていたらしい。

 私は自分の乗る電車の方を指差した。


「あ、反対ですね……。じゃあ、ここで」

「ん」


 私は反対方向に歩いて行こうとする静玖の背中に、声をかけた。


「今日、誘ってくれてありがとう! 静玖のこと知れてよかったよ! またね!」

「……はい! また!」


 手を振って、別れを告げる。

 私はそのまま歩いて、駅のホームに立った。


 夏の終わりが遠ざかって、今ではすっかり秋めいてきた。ホームに吹く風も、生温かさよりも少し冷たさが目立ってくるようになった。


 電車が来るまでぼんやり風を感じていると、不意に右手が誰かに握られる。


 見なくても、それが誰なのかはわかるけれど。私はあえて、隣にいる人を見上げた。


「お姉ちゃん」

「お疲れ様、乃愛」


 にこりと、お姉ちゃんは笑う。

 いつも通りだ。朝からずっとゴミ拾いをしていたけれど、お姉ちゃんは全然疲れていない様子だった。私は慣れないことをしたせいか、少し疲れている。


「手、繋いでたら他の人に見られちゃうかも……」

「何か問題ある?」

「いや、私と姉妹だってバレたら色々問題じゃない? ほら、お姉ちゃんのイメージとか……」

「どうでもいいよ」


 指がスライドする。

 すぐに離れてしまいそうな握り方だったのが、指一本一本を絡ませるような握り方へ。


 いつもよりもっと、お姉ちゃんの指を強く感じる。

 その細さだとか、柔らかさだとか、確かな存在感だとか。


「ちょ、お姉ちゃ……」


 手が引っ張られる。

 自然とお姉ちゃんの方に体が寄って、抱き止められそうになって。だけどその前に、さっき集合場所で見かけた、同じ学校の生徒の子たちが目に入る。


 私は慌ててお姉ちゃんから手を離して、少し距離を取った。

 ちょうど、電車が停車した。

 ぷしゅ、と扉が開く音がする。


「そんなに私と姉妹だってバレるの、嫌?」


 電車に乗りながら、お姉ちゃんは言う。


「嫌っていうか……。お姉ちゃんは、皆の憧れだから。……私みたいな普通の生徒が妹だって知ったら、皆がっかりするかもだし」

「しないよ。……したとしても、いい。それでがっかりするようなヒトは、勝手にがっかりさせておけばいいよ」

「それは……」


 私のことで、お姉ちゃんに悪影響を与えたくない。

 そうは思うけれど、お姉ちゃんはどこ吹く風だ。


「乃愛が嫌なら、無理にとは言わないけど」

「……ごめん」

「いいよ。でも、その代わり」


 お姉ちゃんは、爽やかな笑みを浮かべた。


「今日は乃愛ちゃんのこと、好きにさせて?」

「……え?」


 好きにって、どういう?

 思わず首を傾げると、お姉ちゃんはさらに楽しげに笑った。


 な、何か凄まじく嫌な予感がする。

 断るのは——


「駄目?」


 なし、だよねぇ。

 私は小さく息を吐いた。





 私とお姉ちゃんは家で二人でいることが多い。

 だから防犯意識は結構しっかりしていて、家にいる時でもちゃんと上下の鍵を閉めているのだ。


 ……でも。

 今日のお姉ちゃんは、扉にチェーンまでかけていた。


 お父さんがもし早く帰ってきたらどうしよう、と思う。締め出されたみたいな感じになっちゃいそうだけど、うーん。


「乃愛、お待たせー」


 部屋からリビングに戻ってきたお姉ちゃんは、私の隣に座ってくる。

 その手には、小瓶が握られている。なんだろう、と思っていると、その小瓶から液体が吹きかけられる。

 ふわっと、甘い匂いがした。


「……香水?」

「そ。新しく買ったんだ。もう大変だったよ。鼻が曲がりそうってくらいに色々嗅いで試して、やっと見つけたんだよねー、この匂い」


 なんというか、お姉ちゃんっぽい匂いだと思う。

 甘い匂いだけど、爽やかで甘すぎない感じ。でも、私にかけられるとちょっと困る。私にはあんまり、似合わない匂いな気がするし。


 お姉ちゃんはそのまま、私の首筋に鼻をくっつけてくる。

 何も言わず、無言で。

 ……えぇ?


「お、お姉ちゃん?」


 すんすんと、彼女は鼻を鳴らす。

 返事の代わりか何かなのだろうか。ひどくくすぐったいけれど、これもお姉ちゃんなりの甘え方だったり?


 好きにさせてというお願いを断らなかったのは、私。

 でも、恥ずかしいからやめてほしい。


 私は咄嗟に距離を取ろうとしたけれど、無理だった。

 お姉ちゃんにがっちりホールドされているから。


「……うん。ちょっと、いい匂いになった」


 え。


「ちょ、ちょっとお姉ちゃん? それってどういう意味? え、ちょ、私ってそんなに臭い?」

「ううん? 可愛い匂いだよ?」

「匂いに可愛いも何もあるの……?」

「あるよ。ありありだよ。乃愛ちゃんの匂いは、すっごく可愛い」


 じゃあなんで、いい匂いになったなんて言ったんだろう。

 疑問に思うけど、とにかく、くんくんしすぎ。

 なんでもいいけどお風呂に入りたい。今日は一日外にいたから、汗もかいているだろうし。

 むむむ。


「でも、今日はちゃんと、覚えてもらおうと思って」

「……覚える?」

「うん。これからはこの匂いが、私の匂いだって」


 ぷしゅ、ともう一回、香水が私の体にかかる。

 この匂いに慣れたら、匂いを嗅ぐだけで、お姉ちゃんに抱きしめられているみたいに感じるようになるのだろうか。


 それはそれで大問題な気がするけれど。

 ていうか、覚えさせるにしたって私にかける必要はなくない?


「ねえ、乃愛」

「な、なあに?」

「私のこと、窒息するくらい抱きしめて」

「……なんで?」

「なんでも。甘えさせてよ」

「……いいけど」


 私は言われるままに、いつもより強く彼女を抱きしめる。そうすると、お姉ちゃんの形がよくわかる。柔らかさ、だけじゃなくて、その奥にある確かな硬さも。


 込めた力の分だけ跳ね返ってくるお姉ちゃんの感触に、香水の匂いが混ざる。


 私の匂いと、お姉ちゃんの匂い。

 二つの匂いが香水の匂いに包まれて、境界線がわからなくなっていく。

 私とお姉ちゃんが溶け合って、一つになったみたいに。


「……ふう、満足。乃愛ちゃん成分が体にみなぎるなー」

「前も言ってたよね、その怪しい成分のこと」

「……ふふ」

「なんの笑い……?」


 時々お姉ちゃん、変態っぽくなるんだよなぁ。

 ちょっと呆れていると、ポケットに入れておいたスマホがぶぶ、と音を立てる。


 お姉ちゃんと少し距離を離してスマホを確認しようとした時。

 首筋に、鋭い痛みが走った。


「……っ!?」


 熱いような、冷たいような感触。

 それは、多分。

 お姉ちゃんの、歯の感触だった。

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