第13話
「あ、乃愛ちゃん。おかえりー」
あれ?
急いで帰ってきたものの、お姉ちゃんは全くもっていつも通りだった。もっと寂しがったり暇そうにしてたりするものだと思っていたけれど。
……あれぇ?
私は洗面所に向かった。
「……!?」
脱いだ服が、洗濯カゴに入れられている。
馬鹿な、と思って浴室を見ると、お風呂がもう沸いている。
廊下を隅々まで見ても、床は濡れていない。
「て、天地変動の前触れ……!?」
「ちょっと乃愛ちゃんー?」
「はっ! お、お姉ちゃん!」
私はお姉ちゃんのおでこに自分のおでこをくっつけた。
熱はない。
今度は手首に手をやってみる。脈も正常そのもの。変な病気に罹ったとかそういうこともなさそうだ。
え、じゃあ、どうして?
「のーあーちゃーんー?」
「ひえっ」
「乃愛ちゃんが私のことをどう思ってるのか、よーくわかりました」
お姉ちゃんはむすっとした様子で言う。
「あーあ。今日は乃愛ちゃんが疲れて帰ってくると思って色々頑張ったのに。こんな反応されちゃうとやる気なくなっちゃうなー。」
「え、偉いよお姉ちゃん! すごい! 天才!」
「……もっと言って?」
「えーっと……最高! 愛してる!」
「適当に言ってない?」
「そ、そげなことなかですよ……?」
じっと私を見つめてから、お姉ちゃんは小さく息を吐いた。
「じゃあ、ただいまのハグ、して」
じゃあって言われても。
私はちょっと迷ったけれど、しない理由もないから、お姉ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
お風呂から上がったばかりなのか、いつもより体がほかほかだ。
髪に触れると、ちゃんと乾いている。まさかあのお姉ちゃんが、今日みたいななんでもない日に自分で髪を乾かすなんて、と思う。
こんな日が来るとは思ってもみなかった。
脳裏にこれまでの日々がフラッシュバックする。
『のあー、ポテチ食べさせてー』
『乃愛ちゃーん。髪乾かしてー』
『のーあー、シャンプーもうないんだけどー』
……。
待て。
何を感動しているんだ、私は。そもそもこれまでの甘えられ方がおかしいのであって、これくらいですごいなんて思うのはおかしくないですか?
いや、絶対おかしい。
この前も、お風呂上がりに服を着ていることをつい褒めたりしちゃったけれど。
そもそもなんでお姉ちゃんにポテチ食べさせたり髪乾かしたりなんてしているのだろう。私は便利道具か?
いやいや、うーん。
「ほんと、頑張ったね、お姉ちゃん。さすが私のお姉ちゃんだよ」
気づけば私は、お姉ちゃんの背中をさすっていた。
一般的に、この程度のことで褒めるというのはおかしなことなのかもしれない。でも、お姉ちゃんが自分で色んなことを頑張ったのだと思うと、なんというか。
愛しい気持ちが溢れるというか、たくさん褒めてあげたいって思ってしまうわけで。
胸が締め付けられるような感じだけど、でも、全然苦しくない。
むしろ心地いいようなそんな感じ。
私はそれに突き動かされるままに、お姉ちゃんをきつく抱きしめ続けた。
「そうだ。ご飯も用意したんだよ」
「え、ほんとに?」
お姉ちゃんが料理をするなんて珍しい。
ここ数年はしていなかったと思うけれど。
私は少し、この前のことを思い出した。掃除や洗濯は絶望的だったけれど、料理はどうなんだろう。
そう思っていると、ふとお姉ちゃんの指が目に入る。
「お姉ちゃん、その指……」
「ああ、これ? ちょっとねー。でも大丈夫! 味は保証するよ!」
「あ、味はいいんだけど……怪我の方は大丈夫なの? 病院とか……」
「あはは。乃愛、心配しすぎだよ。なんともないから」
お姉ちゃんの指にはいくつも絆創膏が貼られている。
それを見るだけで、大変だったんだってわかる。
私のお世話がなくても、お姉ちゃんが家事をしているのは予想外だったけど。やっぱり早く帰って来て正解だった。
こんなにも頑張ったお姉ちゃんを放置するなんて考えられない。
静玖たちには悪いと思うけれど。
「先ご飯にする? それとも、お風呂にする?」
「せっかくだから、ご飯にしよっかな」
「そかそかー。……ふふ」
「……お姉ちゃん?」
お姉ちゃんはなぜか、楽しげに笑った。
私は首を傾げる。
「や、なんかこういうの、新婚さんっぽいなー、って思って」
「し、新婚さんって……」
「悪くないねー、たまには」
お姉ちゃんは鼻歌を歌いながら、レンジで料理を温めていく。
私は彼女に促されて、椅子に座った。
なんか、むずむずする。
いつもとはお姉ちゃんと私の立ち位置が全くの逆で、落ち着かない。やっぱり、お世話するのは好きだけどお世話されるのはちょっと苦手かもしれない。
何もしないで座っていていいのかなぁって気がしてくるし。
「何か手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。どーんと座っててー」
「うん……」
お姉ちゃんが自分で色々するのは、いいことだと思う。
私に何もかも任せっきりだと、将来困るだろうし。
……でも。
料理を温めているお姉ちゃんを見ると、胸がもやもやするのはどうしてだろう、と思う。
いいことなのに。悪いことなんて、何もないはずなのに。ひどく悪いものを見てしまったような、そんな気がするのは。
これなら、いっそ——。
「お、あったまったー」
レンジの音が聞こえて、私ははっとした。
思わず首を振る。
今、良からぬことを考えそうになった気がする。
いっそ、いっそって?
いやいや、やめよう。お姉ちゃんの自立は嬉しい。自立万歳! 自立しか勝たん!
……うぅ。
「はい、どーぞ。食べてみて?」
「あ、うん。いただきます」
お姉ちゃんが作ったのは、ハンバーグらしい。
形もちゃんとしているし、ソースも作ったようだ。私はお姉ちゃんが座るのを見届けてから、ハンバーグを切って口に運んだ。
……!
「美味しい……」
「そ? ならよかった。苦労した甲斐があったよー」
お姉ちゃんは、笑う。
私はその笑みを、ぼんやりと眺めた。
お姉ちゃんに守られるばかりじゃなくて、お姉ちゃんを守れるような私になりたい。お姉ちゃんの力になりたい。
それは、昔からずっと思ってきたことだけど。
もし。
もしお姉ちゃんが、私のお世話を必要としなくなったら。家事とか掃除以外で、私が力になれることって、何かあるのかな。
私はお姉ちゃんの、何になれるんだろう。
「あ、ほんとだ。すっごい美味しいねー。さすがだなー」
お姉ちゃんはいつも通り、楽しそうにごはんを食べている。私はふっと笑って、ティッシュで彼女の口元を拭った。
「もう、お姉ちゃん。口の周り、ソースついてる」
「ありがとー」
笑う彼女を見て、安堵する。
きっとその安堵は、良い安堵ではないんだろうけど。
私ももっと、今後のことを考えたほうがいいのかも。お姉ちゃんが私を必要としなくなった時のために。
うーん。
将来、将来のことかぁ。
全然想像できない。お姉ちゃんは何か、将来の夢とかあるのかな。
「……すごいね。なんか、お店っぽい味する」
「そう?」
「お姉ちゃんがこんなに料理上手だって思わなかった。私もうかうかしてられないね」
「あはは、大丈夫だよー」
にこにこ笑いながら、お姉ちゃんは言う。
私は首を横に振った。
こんな料理を出されて、胡座をかいているわけにはいかない。私も明日からもっと料理修行しないと!
「だってこれ、作ってないし」
「……はい?」
どういうことですか?
「え、作ってないって?」
「うん? そのまんまの意味だよー? さっきお店で買ってきたやつだからねー」
「……」
私は立ち上がった。
台所の方のゴミ箱を確認すると、確かにハンバーグが入っていたらしい容器が入っている。
……これ、近所で有名なお店のやつじゃん。
え、待って、じゃあ。
「その絆創膏、何?」
「乃愛ちゃんが心配するかなーって思ってつけただけだよ? ほら」
お姉ちゃんは指の絆創膏を全部外す。
傷一つない指が顕になる。
な、なな……。
「何それぇ!」
「あはは、びっくりした?」
「するよ! いつも甘えてばっかのお姉ちゃんがいきなりこんな美味しい料理作ったんだって思ったら、そりゃびっくりするでしょ! ていうか、なんでこんなこと!」
「乃愛ちゃんのその顔が、見たかったから」
お姉ちゃんはそう言って、私の頬に触れる。
さっきとは違う微笑みが、目の前にあった。
微かに、心臓が跳ねる。
「たまにはこういうのも新鮮で、いいでしょ?」
「心臓に悪いよ」
「どうしてー?」
「お姉ちゃんが怪我したら、心配になるじゃん。それに……」
お姉ちゃんが、遠くに行ってしまうような気がして。
なんて、言いかけて止める。
ちょっとお姉ちゃんが身の回りのことを自分でしたからって、こんなこと言うのは。さすがに重いというか、なんというか。
「それに?」
「な、なんでもない! ていうか、嘘はつかない約束でしょ!」
「嘘はついてないよ? ごはん、作ったとは言ってないし……」
「……む」
確かに、よくよく考えたら嘘はついていないのか?
いやいやいや。でも勘違いさせようとはしていたし!
「でも、ありがとね」
お姉ちゃんは、言う。
「え?」
「私のこと、心配してくれて。その気持ちは嬉しいよ」
「……う」
そんなこと言われたら、もうこっちからは何も言えない。
私は小さく息をついた。
「もう、ほんと。お姉ちゃんはしょうがないんだから」
「……ふふ。ごめんなさーい」
料理は、していなかったけど。
お姉ちゃんが自分でお風呂を沸かして、入って、髪と体をちゃんと乾かしたのは確かだ。それはやっぱり、偉いと思う。
でも、うーん。
むむむ……。
何か、こう、釈然とはしない。自分の奥に隠された、よくない気持ちを意識してしまって、胸がぐるぐるする。
い、いや。
こんな調子じゃ駄目だ!
私はお姉ちゃんの自立を応援する! そう決めた!
……だから大丈夫、なはず。
きっと、恐らく、めいびー。
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