第7話

 どうしてお詫びで手の甲にキスをされているのか。

 そもそもこんな普通の道で、お姉ちゃんは一体何をしているのか。誰かに見られたらどうするのか。


 色んな言葉がいっぺんに喉元までやってきて、喉が詰まる。

 結局私は、両方の手に何度も口づけをされた後、ようやく口を開くことができるようになった。


「お姉ちゃん! いきなり何してるの!?」

「怒らせちゃったみたいだから、お詫びしなきゃって思って」

「いや、手の甲にキスするのはお詫びになるの……?」

「駄目だった? じゃあ、私がしたいからってことで」


 いよいよめちゃくちゃである。

 お姉ちゃんは論理の破綻を全く気にせず、今度は掌にキスをしてきた。温かくて柔らかな感触が、ひどくくすぐったい。


「駄目! 駄目だってば! お姉ちゃん!」

「……黒見さんは、可愛いよ」

「へ?」

「その花瓶よりも、ずっと可愛い。だから、安心して?」


 安心してって、言われても。


「……あと、お姉ちゃんじゃないよ。ちゃんと呼んで?」

「……う。……叶恋」

「よくできました」


 にこりと笑って、お姉ちゃんはキスの続きをする。

 手を思い切り引けば、お姉ちゃんも深追いはしてこない、かもだけど。なんとなく、可愛いってのはほんとなのかな、なんて気になってしまって。


 お姉ちゃんの行動を、黙って眺めてしまっている私がいた。

 私の手が解放されたのは、体感的に何分も経った後。


 なんだかひどく疲れた私とは対照的に、お姉ちゃんはにこにこしていた。もしかすると、私の体力を吸って元気になっているのかもしれない。

 ……なんて思うのは、馬鹿っぽいかな。


「……はぁ。もう、ほんと。叶恋は、しょうがないんだから」

「うん。私は、しょうがないね。でも黒見さんは、そんな私がー?」


 謎のコールアンドレスポンスはやめてほしい。

 私は小さく息を吐いた。


「好きだよ」

「……ふふ。だよねー。私も好きだよ、乃愛ちゃん」


 お姉ちゃんは私から紙袋を奪うと、そのまま一歩先を歩き始めた。


「……もう、カップルごっこは終わり?」

「うん。やっぱり私たちは、カップルじゃなくて姉妹の方がしっくりくるもん。結局、親友にしても恋人にしても、血の繋がりには勝てないしね」

「……そうかな?」


 確かに、血の繋がりというのは、最も強い繋がりのようにも思うけれど。


 幼馴染とか、親友とか。そういう繋がりも結構、強固だと思う。

 少なくとも私は、幼馴染の智友のことは家族みたいなものだと思っている。血の繋がりはないけれど。


「そうだよ。どんな関係も、結局血の繋がりには勝てない。ごっこ遊びみたいなものだと思うよ?」

「その発言、色んなとこから怒られそうだけど……」

「……いいのいいの。ほら、乃愛ちゃん。帰ろ?」


 叶恋ではなく、お姉ちゃんに戻ったから。

 だから紙袋、一人で持ってくれるのかな、と思う。


 普段は私に甘えてばっかだけど、こういうふとした時にお姉ちゃんっぽくなるから、ずるいと思う。

 私は軽くなった両手を伸ばして、お姉ちゃんの肩に触れた。


「……お姉ちゃん電車、発進して」

「……ふふ。いいよ。しっかり捕まっててね?」


 お姉ちゃんはゆっくりと歩き始める。

 なんだか今日は、色々ありすぎて疲れた。


 カップルごっこをしてみたり、姉妹っぽいことをしてみたり。新鮮で楽しいっちゃ楽しかったけれど、うーんって感じもする。


 私は小さく息を吐いて、お姉ちゃんと歩調を合わせた。

 ゆっくりした動きに合わせて揺れる黒い髪が、眩しい。やっぱりお姉ちゃんは、お姉ちゃんだ。

 私はちょっとだけ、目を細めた。





 ……錯覚。

 その言葉が、頭に浮かぶ。


「のーあーちゃーん。髪乾かしてー」

「……」


 お姉ちゃんはお姉ちゃんだ、なんてことをさっき思ったが。

 全然、全くもって、ふっつーに。


 お姉ちゃんらしくない。いや、いつものお姉ちゃんはこんな感じなんだけど、世間一般的に言われているお姉ちゃんらしさ、というのはもっと。


 もっと、こう、妹を導いてくれるような、そういうのじゃないのかな、と思う。


 紙袋を持ってくれたお姉ちゃんはどこに行ってしまったのだろう。

 完全にだらけきっていつもの甘えんぼさんに戻ったお姉ちゃんは、洗面所で私を呼んでいた。

 しょうがないなぁ、と思いながら、私はお姉ちゃんの元まで歩く。


「もー。お姉ちゃん、こういうのはちゃんと自分でやってっていつも言ってるのに」

「今日、頑張ったのに」

「……う。ご褒美はカップルごっこでちゃんとあげたよね?」

「足りないよー。もっと乃愛成分がほしいよー」

「なんなの、乃愛成分って」

「乃愛に甘やかされると補充できる栄養素」

「またそういうことを……」


 私は櫛とドライヤーを手に取った。

 髪を梳かしながら、ドライヤーをかけ始める。いつもしているから慣れているけれど、慣れるのもどうなのって話で。


 こういうの、きっぱり断れないから弱いんだよね。

 いや、でも、うーん。


 駄目! って強く言ったら、ちょっと可哀想じゃない?

 しょんぼりしたお姉ちゃんの顔が目に浮かぶようで、ちょっと困る。


「ねえ、乃愛ちゃん」

「なあに?」

「私、頑張ったよね?」

「うん。今日もすごい頑張ってたと思う」


 一瞬、間が開く。

 お姉ちゃんは鏡越しに、何かを期待するような眼差しを私に向けていた。

 お姉ちゃんが何を期待しているのか。少し考えて、思い至った。


「……頑張ったね、お姉ちゃん。偉い偉い。すごいよ」

「……ふふ、うん」


 私は軽く、お姉ちゃんの頭を撫でる。

 そういえば、今日はちゃんとお姉ちゃんのこと、褒めてなかった。いつもしているからって、こういうのは忘れちゃ駄目だ。


 自立云々を置いといても、お姉ちゃんが頑張っててすごいのは事実だし。


 頑張るのは当たり前ではないから。だから、過剰かもしれなくても、ちゃんと褒めたいと思う。

 たくさん、いっぱい、飽きるくらいに。


「いやー、頑張って乃愛ちゃんに褒められるのは格別だねー」

「……この前、頑張って褒められるより甘やかされる方が好きって言ってたのに」

「えー、そうだっけー? 忘れちゃったなー」

「調子いいなぁ、もう」


 ドライヤーの風の音と、私たちの会話が重なる。

 その重なりは、ひどく雑音じみているけれど、日常って感じがして愛おしい。


 冷たい髪の感触に、弱い風の感触。いつもの会話。

 全部が積み重なって、過去の上に降り積もって、私たちの毎日になっている。


「……これからも、頑張ったらたくさん褒めてくれるよねー?」

「うん。たくさん褒めるよ。お姉ちゃんが嫌になるくらい」

「これからも、二人一緒だよね?」

「そうだね」

「明日も、明後日も。私のこと無条件でたっくさん甘やかしてくれるよね?」

「うん。……うん?」


 何か、変な要求が混ざってなかった?


「わーい。言質とったー。録音停止、と」


 お姉ちゃんはスマホを操作して、にっこり微笑む。

 いやいや。

 いやいやいや。


 ちょっと待って?

 そういうの、反則じゃないですか?


「ちょっと、お姉ちゃん?」

「約束だからね。これからも乃愛ちゃんは、私のこと甘やかすんだよー」

「無効! そんなの無効だから!」

「……嘘なの?」

「え」

「乃愛ちゃん、私に嘘ついたんだ……」


 お姉ちゃんは低い声で言う。

 そんな深刻になられても困る。嘘とか本当とか、今はそういう話でもなくない? とは思うものの。


 こう言われてしまうと、弱い。

 私は思わず口を開きそうになって、唇を噛んだ。

 待て待て。


 こういうところですぐに引いてしまうのが私の悪いところだ。毅然とした態度でいないと、そこに漬け込まれて、無茶な要求を通されてしまう。


「嘘はつかないって昔約束したのに。破るんだね。指切りしたのに。あーあ、悲しいなぁ……」


 むむ。

 確かに、約束した。小さい頃、私たちの間に嘘はなしだって、ちゃんと約束はした。したけど。


「私、人のこと信じられなくなりそうだなぁ。乃愛ちゃんだけは、嘘つかないと思ってたのに。結局乃愛ちゃんも嘘つきなのかぁ。はぁ……」


 むむむ。

 負けちゃ駄目だ。今日こそは。


「はああぁ……」

「……」


 甘やかさない。たとえ幼い頃の約束を反故にすることになったとしても、お姉ちゃんの未来のために。


 そう簡単に甘やかしたりなんて、しない。

 絶対。

 絶対……。


「乃愛。乃愛は、本当に嘘つき?」


 くるりと体の向きを変えて、お姉ちゃんが私のことを見つめてくる。

 お姉ちゃんの瞳には、いつも嘘がない、と思う。


 言葉だけでなく、その瞳にも。

 本当に嘘をつくのか、と問われている気がした。


 どんな些細なことでも、嘘をつくのは、きっと。悪いことなんだと思う。でも、しかし、こんなの。


 むむ、むむむ……。

 ……うぅ。


「わ、わかったよ」

「うん? 何がわかったの?」

「わかってるでしょ! お姉ちゃんのこと、いっぱい甘やかすって言ってるの!」

「……約束だよ?」

「……うん」


 お姉ちゃんは小指を差し出してくる。

 私はそっと、自分の小指を絡めた。


 意志薄弱。付和雷同。

 こんなんじゃ駄目だって自分でもわかっているのに。

 約束には勝てない。


 私は楽しげに笑うお姉ちゃんを見て、ため息をついた。一体いつになったら、お姉ちゃんを自立させることができるのか。


 ……はぁ。

 私の馬鹿。

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