第4話
『つまり、成功体験と褒められることが大事なんですね。褒められることで子供は自己肯定感を高め……』
ある日の朝。
ぼんやりテレビを眺めていたら、子供の上手な育て方、という議題でコメンテーターの人たちが話しているのが聞こえてきた。
「……これだ!」
私はぽんと手を叩いて、いそいそと掃除機を手に取って、お姉ちゃんの部屋に向かった。
「どうぞ、お姉ちゃん!」
私がにっこり笑って掃除機を渡すと、お姉ちゃんは明らかに当惑した表情を浮かべた。
「え、えっと……?」
「ごめんね。今まで私が全部やってきたせいで、お姉ちゃんの成長の機会を奪っちゃって。でも大丈夫! これからちゃんと家のこと、できるようになろうね!」
お姉ちゃんは正直言って、大体のことは完璧にこなせる。
勉強も運動も、人との関わり方も。全部完璧だからこそ、学校では誰からも尊敬されている皆の生徒会長なのだ。
で、あれば。
私に甘えずとも、掃除だってできるはずである。
「えー、めんどくさいよー。やりたくないなー」
「ちゃんとやったらご褒美あげるから!」
「ご褒美?」
「そ。とびっきりのやつ! やる気出るでしょ?」
「うーん……。それなら、まあー……?」
一度やらせてしまえばこっちのものである。
あとはもう褒めて褒めて褒め散らかして、お姉ちゃんのやる気と自己肯定感をにょきにょき伸ばしていくだけだ。
私はぴしゃ、と自分の両頬を叩いて気合いを入れた。
お姉ちゃんが微妙な顔で私を見ている気がするけれど、そんなことはどうでもいい。
さあ、掃除をするがいいです。それはもう溶けてしまうくらい、褒めてしんぜようではないか!
私は拳を握った。
がしゃーん!
甲高い音が聞こえて、思わず飛び跳ねる。
見れば、掃除機が花瓶にぶつかって、床に落ちてしまったらしい。
「お、お姉ちゃん! 大丈夫!?」
「う、うん。掃除機って意外と難しいねー……」
「そうかなぁ……?」
私は割れた花瓶をビニール袋に集めながら、はっとした。
まずは褒めることが大事!
「でも、すごいよ! ちゃんと掃除機かけられてる! さすが私のお姉ちゃん!」
「花瓶割っちゃったけど……」
「だ、大事なのは結果じゃなくて過程だよ! えらい! お姉ちゃん偉いよ!」
「そう……?」
「うんうん! その調子で洗濯もやっちゃおっか!」
お姉ちゃんは段々やる気が出てきたのか、意気揚々と掃除機をかけていく。その過程でテーブルに置いたものが吹っ飛んだり椅子の脚がボロボロになったりもしたけれど。そんなのはお姉ちゃんの自立に比べれば全然!
全然問題ない、はず。
……花瓶、可愛くて気に入ってたのに。椅子も、大事に扱ってきたのに。
なんてこと、思っていない。ちょっと、僅かに、少しだけ思っているだけで。お姉ちゃんの今後を考えれば、これくらいは全然平気だ。平気、平気……。
「乃愛ちゃーん! なんか泡が溢れてきたー!」
「ええぇ!? なんで!?」
「わかんないよー! 助けてー!」
「ちょ、ちょっと待ってて!」
洗濯は任せてお昼ご飯を作っていると、お姉ちゃんの声が聞こえてくる。
慌てて洗面所に行くと、確かに泡が溢れ出てきていた。
まさか、お姉ちゃんって家事に関しては不器用だったりするんだろうか。いやいや、でも、いつも食後は自分でちゃんとお皿は洗えているわけだし。それに……。
と、とにかく!
「これ、大丈夫かな……?」
「なんとかする! お姉ちゃんは鍋見てて!」
「うん……」
ややしょんぼりした表情で、お姉ちゃんはキッチンに向かっていく。
私は洗濯機の説明書を取り出して、せっせと泡をどうにかしようと試みた。
まさか、洗濯を任せただけでこんなことになるなんて。もしやお姉ちゃんは家事の神様に嫌われているのだろうか。
いや、なんだ家事の神様って。
その後も私は色んなことをお姉ちゃんに任せた。お風呂の掃除やお湯張り、それから洗面所の掃除に、ベッドのシーツを直すことまで。
お姉ちゃんは全部頑張ってくれたけれど、一つ作業をするごとに必ずと言っていいほど何かトラブルを起こしていた。
……シーツで窒息しかけているのを見た時は、どうしてそうなるのかと頭を悩ませたけれど。
そんなこんなで、一日が終わる。
私はダイニングソファでぐったりとしていた。
「乃愛」
お風呂から上がってきたお姉ちゃんが、私に声をかけてくる。
ふと顔を上げると、ちゃんと服を着て、髪も乾かしたお姉ちゃんの姿があった。
まさか、幻?
お姉ちゃんを自立させたいと願う私の心が見せている、甘い幻なのだろうか。そう思って彼女の頬に手を伸ばす。
ちゃんと柔らかな感触が伝わってくる。
幻じゃない。本物だ。本物のお姉ちゃんが、お風呂上がりに、ちゃんと服を……。
「乃愛? なんで泣いてるの?」
「な、なんでもない……」
もう思い残すことはない。私の遺骨は日本海に撒いてください。
……じゃなくて!
「……今日はごめんね。頑張ったんだけど、全然うまくいかなくて」
お姉ちゃんは私の隣に座ってきた。
お風呂上がりだからか、シャンプーの匂いがする。
同じシャンプーを使っているとは思えないくらい、いい匂い。そんなことを考えるのは、ちょっと変態っぽいけど。
「こんなんじゃ、駄目だよね。乃愛に迷惑ばっかりかけちゃって……」
悲しそうに目を伏せるお姉ちゃんを見て、私は思わず手を握った。
「そんなことない!」
「……乃愛?」
「迷惑なんかじゃないよ。頑張るお姉ちゃんはほんとに偉いと思うし、最初からうまくできなくたって仕方ないよ」
「乃愛……!」
「それに。今日はちゃんと、自分で髪乾かして、服も着てる。すごい偉いよ。頑張ったね」
私は今日初めて、心からお姉ちゃんを褒めて、その頭をゆっくりと撫でた。
本当にすごい。もうすごいとしか言いようがないと思う。あの面倒くさがりで甘えたがりで私に依存しきっていたお姉ちゃんが、自分で髪を乾かすなんて。
水の跡が残っていない廊下がひどく輝いて見える。
ああ、廊下ってこんなに色鮮やかだったんだ。ずっと忘れていた。
「……じゃあ。ご褒美、もらえる?」
お姉ちゃんは、上目遣いで尋ねてくる。
心臓が、ぎゅっと掴まれたような感じがした。
私は思わずお姉ちゃんを強く抱き寄せる。お姉ちゃんの匂いが、さっきよりずっと近くなった。
「……さすがお姉ちゃんだよ。偉い、偉い」
「……これがご褒美?」
「……駄目かな?」
「駄目じゃない。でも、もっとぎゅってして?」
「……うん」
私はもっと強く、お姉ちゃんのことを抱きしめる。
すごい。本当に、今日のお姉ちゃんは偉すぎる。
この十五年でも五本の指に入るくらいには衝撃的だった。もしかしたらお姉ちゃんは天才なのかもしれない、と思う。
……いや、ちょっと驚きすぎかな?
いやいや。
でも、すごいものはすごいんだから仕方ない。
「もっと、頑張ったら」
耳元で、彼女は囁く。
少し、くすぐったいけれど。
「もっともっと、褒めてくれる?」
ひどく小さな声。
私は、笑った。
「……うん。頑張ったら頑張った分だけ、たくさん、たっくさん褒めるよ」
「……そっか。じゃあ、もっと頑張ってもいいかも」
お姉ちゃんから、こんな言葉が聞けるなんて。
明日は雪が降るかもしれない。
ありがとう、謎のテレビ番組。やっぱり人にやる気を出させるのに必要なのは、たくさん褒めることだったんだ。
頭ごなしにあれもやれこれもやれって言ったら、やりたくないと思うのは当然だ。
そんな当たり前のことも、私はわかっていなかった。
……よし!
明日からお姉ちゃんのこと、もっともっと、もーっといっぱい褒めよう!
それで色んなことをできるようになってくれたら、私も嬉しいし。
そう思いながら、私はぎゅっとお姉ちゃんを抱きしめた。
……が。
「あの、お姉ちゃん?」
「ふふ……あはは! 何それ、そんなことある?」
「お姉ちゃーん」
「ふ、ふふふ……。あれ? ジュースがもうない……。あ、乃愛ちゃん乃愛ちゃん。冷蔵庫からオレンジジュースとってきてくれる? なくなっちゃった」
あれ?
昨日見たのは幻だったのかな?
あるいは私に都合のいい夢でも見ていたのか。
いやいやいや。花瓶が破壊されているのも、椅子の脚が傷ついているのもそのままなんだから、夢なはずない。
じゃあ、どうして。
どうしてお姉ちゃんは寝っ転がって、タブレットで動画を見ているんだろう。
「お姉ちゃん、掃除は? もっと頑張るんじゃなかったの?」
「え? あー……」
お姉ちゃんはポテチを齧りながら、にこりと笑う。
「よくよく考えたら私、頑張って褒められるより甘やかされる方が好きだなーって」
「え」
「それに、頑張らなくても普段から乃愛ちゃん、私のこと褒めてくれるよねー?」
「えぇー……」
そんなに普段から褒めてたっけ。
いや、じゃあ、昨日の頑張りは全部無駄だったってこと?
「だから……あれ? 乃愛ちゃん? 乃愛ちゃーん? 大丈夫?」
お姉ちゃんの声が遠い。
手応え、あったのに。
昨日はいい感じの雰囲気だったから、お姉ちゃんの自立への道が始まると思っていたのに。
人生そう甘くないらしい。
……ふふ。
あはは、笑える。
花瓶と椅子を犠牲にして、得られるものは何もなし。
……。
…………。
泣いてもいいですか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます