第3話

「……乃愛?」


 お姉ちゃんは、不服そうに私の名前を呼ぶ。

 危なかった。私がちょっと顔の向きをずらしていなかったら、本当に唇にキスをされているところだった。


 辛うじてお姉ちゃんの唇は、私の頬に着地していた。

 寝ぼけているなら仕方ないけれど、さすがに唇はまずい。私にとっても、お姉ちゃんにとっても。


「どうして避けたの?」

「唇と唇は、駄目。そういうのは好きな人とするものでしょ!」

「私、乃愛のこと好きだよ?」

「そうじゃなくて……」


 駄目だ。

 寝ぼけたお姉ちゃんに理屈は通用しない。ため息をついてから、彼女の頬に私からもキスをする。

 やっぱりその顔は、どこか不満そうだ。


「はい、もう終わり。そろそろ起きないと、駄目だからね。朝ごはん抜きにしちゃうよ」

「ぶー。乃愛ちゃんのケチー」

「なんとでも言ってください。ほら、起きた起きた」


 私はお姉ちゃんを適当に転がして、布団を剥ぎ取った。

 殻を剥かれたエビみたいに頼りなく体を丸めていたお姉ちゃんは、やがてのろのろ立ち上がる。

 せっかく綺麗な黒髪なのに、寝癖でぐちゃぐちゃだ。


「顔洗って着替えて、髪も整えてきて。私、朝ごはんの準備するから」

「……今日はやってくれないの?」


 お姉ちゃんは振り返って、私のことを見つめてくる。

 まるで、捨てられた子犬みたいな目。

 胸がぎゅってなる。なる、けれど。


 我慢だ。ここはじっと我慢しないと、お姉ちゃんのためにならない。私はまっすぐ彼女の瞳を見つめ返した。


「今日は駄目! お姉ちゃん、最近私に甘えすぎだから。私なしでも生活できるようにならないと、将来色々困っちゃうでしょ」

「えー。でも……」

「でもじゃない! 駄目なものは駄目だから!」


 私はそう言って、お姉ちゃんの背中を押す。

 この前は押し切られてしまったけれど、今日の私は一味違う。長々話しているとお姉ちゃんに負けてしまうのなら、会話を打ち切ってしまえばいいのだ。


 いわばこれは私なりの電撃戦……みたいなあれである。

 戦いは長引けば長引くほど不利。ならば一瞬で押し切れば、勝利を収められるはずだ。


 私の完璧な作戦に、お姉ちゃんはなすすべもないようだった。そのままとぼとぼ洗面所に向かって歩く彼女の後ろ姿は、どこか寂しげだったけれど。


 私は心を鬼にした。今日の私は、鬼教官である。

 小さく息を吐いて、キッチンに戻る。私はそのまま、朝ごはんの支度をした。





 生徒会の仕事がよほど忙しい時以外、朝は二人で食事をとることにしている。


 今は夏休みだから、結構な頻度でお姉ちゃんと二人でこうして食事をしている、のだけど。


 今日のお姉ちゃんは心ここにあらずといった様子だった。

 身支度は完璧だ。雑草みたいにぼっさぼさになっていた髪はサラサラに戻っているし、顔も艶がある。


 いつも外で見せている完璧なお姉ちゃん、のはずなのだが。

 口から魂が出ているような気がする。


「お姉ちゃん?」


 返事がない。

 え、ちゃんと生きてる?

 私はお姉ちゃんの前で手を振ったが、反応がない。彼女は壊れたロボットみたいに、一定のリズムでご飯を口に運んでいた。


 怖い。怖すぎる。

 目が虚だし。え、いや、もしかして、私が髪を整えてあげなかったせい?


 いやいやいや。

 そんなことでここまでなるわけ……。

 なる、わけ…………。


 いや、なるかも。だって、お姉ちゃんだし。

 えぇ……?


「あの、お姉ちゃん? 私、別に一生甘えるなーって言ってるんじゃなくて。少しくらい身の回りのこと自分でできた方がいいよね? って言ってるだけで……」


 私は何を言い訳しているのか。

 悪いのは私じゃなくてお姉ちゃんだ。


 これまで甘やかしてきたのは私だから、私も悪いんだろうけれど。そうは言ってもこのままじゃほんと、色々まずいわけで!

 ……うぅ。


「だから、その、たまには甘えてもいいっていうかなんていうか……。わかった、わかったってば! 明日はちゃんとしてあげるから!」

「……今日」

「え?」

「一緒にお風呂入りたい」


 お姉ちゃんはぽつりと言う。

 一瞬人間に戻ったかと思えば、お姉ちゃんはまたロボット化してしまった。どうやら要求が通るまでは徹底抗戦の構えのようである。


 これで要求が通ると思っているのだろうか。だとしたら、甘く見られたものである。


 今日の私は屈しない。

 お姉ちゃんがどれだけ甘えて来ようとも、折れないと今決めた。


「今日は駄目。お姉ちゃんには、ちょっとずつでも妹離れしてもらわないと」

「……」

「……お姉ちゃん?」

「……」

「聞こえないふりしてる?」


 わんこかな?

 都合の悪いことは無かったことにするのはやめていただきたい。


 ……そういえば、智友はお姉ちゃんのこと「わんこちゃん」と呼んでいるけれど。もしかして、こういう一面を知っているからそう呼んでいるのかな。


「お姉ちゃん。お姉ちゃんって。……わんこちゃーん」


 返事はない。

 お姉ちゃんは虚な目をしたまま「ご馳走様」と言って、そのまま食器を洗いに行ってしまう。


 むむ、食後のご馳走様はちゃんと言うくせに。

 そっちがその気なら、私にだって考えがある。


 私は勢いよく朝ごはんを平らげて、シンクで食器を洗うお姉ちゃんの横に立った。


「お姉ちゃん。そっちのスポンジ取って」

「……」

「お、ね、え、ちゃ、ん!」


 お姉ちゃんはぷい、とそっぽを向く。

 むむ、むむむ……。


 子供じゃないんだから、やめてほしい。私は腕を伸ばしてスポンジを取ろうとするけれど、お姉ちゃんに妨害される。


 皿を洗いながら腕でブロックするなんて、器用だと思う。

 思うけれど、そういう器用さは別のところでぜひ生かしてもらいたい。体育の時間とか。


「夕飯」

「え?」

「夕飯は、カレーがいい。乃愛ちゃんの手作りのやつ」

「……」


 ちょっと?

 さらっと要求の数が増えてない?


 お姉ちゃんのためにスパイスは各種揃えてはいるものの。作るかどうかは全くの別問題というやつで。

 私はお姉ちゃんを見習って、都合の悪いことを無視することにした。


「プリン、食べたよね?」


 お姉ちゃんは、呟く。


「私が買ってきた、高いやつ。あれ、デパートで買ってきたいいやつだったんだよ? 生徒会のお仕事で疲れて、帰ってきて……食べようと思ったら、無かった。この気持ち、乃愛ならわかるよね?」


 その件はもう一週間前でのことで、その時ちゃんと謝ったのに。

 お姉ちゃんもあの時はちゃんと許してくれて、お詫びに豪華な夕飯を作って、お姉ちゃん甘やかし体制を敷いたというのに。


 今蒸し返すのはズルだと思う。

 確かに、今でも悪かったとは思ってる。私も日々の疲れというものがあってですね。

 ……というのは、言い訳だけど。


「……何が望みなの?」

「……百歩譲って、お風呂は別々に入るとして。お夕飯のカレーはマストね。食後は乃愛の膝枕付き」

「むむ、むむむむ……」

「……期間限定だったのに。もう同じプリンは食べれない」

「うぅ……」

「乃愛はごめんなさいできる子だよね?」


 何か、問題がすり替えられている気がしてならない。

 でも、ここまで言われたら。


「……わかった。もうわかったよ! してあげるから!」

「膝枕と、添い寝も?」

「添い寝は言ってなかったよね……?」

「……」


 虚空を見つめるお姉ちゃん。怖いのですが。


「……はぁ。してあげたら、全部ちゃらだからね?」

「……ふふ。それでいいよ。さすが乃愛ちゃん。そういうとこ好きだよ」


 こうやってお姉ちゃんに甘くしてしまうところなんて、好きと言われても困る。


 意志薄弱である。

 お姉ちゃんが何を言おうと跳ね除けるだけの力というか、そういう負けない意志が欲しいのだけど。


 結局私は今日も、お姉ちゃんをたっぷりと甘やかすことになった。

 ……今度は。今度こそは、絶対。


 お姉ちゃんを自立させてみせる!

 ……ほんとに。

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