旅の終わり
トメは片手でソメの頬に触れた。
「おソメちゃん、ごめんね。あたしのためにつらい思いをさせて。でももう大丈夫。あたしが助けてあげるから」
「違うぞおトメ殿。これは拙者のせいだ。桑名であの二人を助けようとしなければこんなことにはならなかったのだ」
「ううん、それを言うなら旅に誘ったあたしが一番悪いんだよ。だって旅になんか出ずにずっと村にいれば麻疹にかからずに済んだんだもの。他の三人もそう。これはあたしが蒔いた種。だからあたしが刈り取る」
ソメは自分の頬に触れているトメの手を払いのけた。今ここで四人に力を使えばトメの命は確実になくなる。それだけは絶対にさせたくない。
「考え直されよ。おトメ殿にはもはや力が残っていない。たとえ命を使い果たしても四人を治療することなどできぬはず」
「そうだね。でも快方へ向かわせることくらいはできると思うんだ。それだけでもあたしの命を懸ける価値はあるよ。それに」
トメはにっこりと笑った。
「観音像の力を使わなくても、五年も経てば無くなる命なんだもん。それならみんなのために使いたいよ」
ソメの予感は当たっていた。トメは自分の運命を知っていた。三十四歳を迎えられぬ宿命を知りながら、あんなに明るく振る舞っていたのだ。
「そしておソメちゃんがあたしの運命を知っていることもわかっていたよ」
「何故、それを」
「わかるよ。あんなに旅に出ることを反対していたおソメちゃんが、突然考えを変えてくれたんだもの。ああ、兄さに教えてもらったんだなってすぐわかった。そのせいでずいぶん気を遣わせちゃったね。ごめんね」
ソメはこれまで自分ほどトメを理解している者はいないと思っていた。だがそれは大きな思い上がりだった。トメの心はソメが考えている以上に強く、広く、そして優しかったのだ。だからこそ、その心に甘えるわけにはいかなかった。
「お忘れか、おトメ殿。旅の間は観音像の力を使ってはならぬ、茂助殿と固く約束したはず。それを破るような真似は断じてさせられぬ」
「そうだね。でも今はもう使ってもいいんだよ。だってあたしの旅は終わってしまったんだもの。今、この場所があたしの旅の終焉地。だから観音像の力を使っても兄さとの約束を破ったことにはならない」
トメは納め札の入った頭陀袋をソメの枕元に置いた。
「おソメちゃんにはこれを預けるよ。これからはおソメちゃんがみんなを率いてあげて。せっかくおギンさんが洛中五寺を回ってくれたんだもん。残りの札所を回って満願成就を達成して。約束だよ」
「わかった約束する。だがそれはおトメ殿も一緒だ。観音像の力など使わずともよい。拙者は必ず元気になる」
「ありがとう、おソメちゃん。でもあたしの旅はもう終わったの。これからはおソメちゃんたちだけで旅をして」
トメはソメの顔の上に観音像をかざした。つかみ取ろうとするソメ。しかし観音像が淡い光を放ち始めるとソメの全身から力が抜けた。その光は身も心も観世音菩薩に帰依させる無量の後光。もはや指一本動かせない。
「やめよ。頼むやめてくれ、おトメ殿、やめ……」
ソメの額に観音像が押し当てられた。ソメの口からはもう言葉は出ず、閉じた両目から流れ出た涙が頬を伝うばかりだった。
「おやすみ、おソメちゃん」
トメはソメの元を離れるとフユの枕元に寄った。すぐさまフユの拒絶が始まった。
「おいらには使わなくていい。もうほとんど治っているんだ。明日から旅に出られるくらいだ」
だがその声は小さく途切れ途切れで息遣いも荒かった。トメは優しくフユの頬に触れた。
「どんな時でも強気なおフユちゃんのおかげで、旅の間はずいぶんと励まされたよ。ありがとうね」
「そうだろ。これからだって活を入れ続けてやる。おいらたちの旅はまだまだ続くんだ」
「そう、おフユちゃんたちの旅はまだ続く。でもあたしの旅はここで終わり」
トメが観音像をフユの額に近付けた。それを拒むようにフユはトメの腕をしっかりと握り締めた。
「忘れたのか。おいらたちは雲水の占いを外すためにずっと頑張ってきたじゃないか。おキミの時もおマツの時もそしておいらの時も、おトメは誰も旅から抜けさせないようにしてくれたじゃないか。今、おトメが抜けたらその努力が無駄になっちまう。おいらたちは五人で村へ帰るんだ、そうだろ」
「ううん、違うよ」
トメは微笑みを浮かべて否定した。悲しい笑顔だった。
「あたしには見えていたんだ、雲水さんの水晶玉に映った光景が。あたしの治癒力も雲水さんの法力も観音菩薩に由来する力、それで見えたんだと思う。映っていた四人にあたしの姿はなかった。旅から抜ける一人ってあたしのことだったんだよ。雲水さんもわかっていたはずなのに言わなかった。きっと気を遣ってくれたんじゃないかな。本当に思い遣りのある人だった」
「だったら尚更だ。おトメが抜けたら雲水の占いが当たっちまうじゃないか」
「おフユちゃんは勘違いをしている。あたしは占いを外すために頑張ってきたんじゃない。占いどおりになるように頑張ってきたんだよ。あたしの他には誰も抜けてほしくなかった。あたし以外の四人は占いどおり一緒に村へ帰ってほしかった。そのために頑張ったんだよ」
フユは思い出した。「五人で一緒に帰る」という言葉はソメとフユしか言っていない。トメは一度もその言葉を口にしていないのだ。自分が村に帰れないことを知りながら誰にも言わず、自分だけの胸に秘めてこれまで旅をしていたのだ。
「どうして教えてくれなかったんだ。そうとわかっていればおいらはもっとおトメに優しくしてやれたのに」
「あたしに優しくしてくれるおフユちゃんなんて似合わないよ。さあもう眠って」
観音像が淡い光を放ち始めた。フユの全身から力が抜け、トメの腕をつかんでいた手は弱々しく床に落ちた。そしてフユの額に観音像が押し当てられると、荒かった息遣いが穏やかになり、フユは静かに眠りについた。
「おトメさん、負ぶされ」
キミは半身を起こしてトメに背を向けていた。男のように広くたくましいキミの背中。トメは後ろからキミに抱き付いて体を密着させた。キミの温もりが伝わってくる。
「もっと背負うてあげらあよかったなあ。おらはそのために同行したにたった一回しか背負うてあげられんかった」
「あの時は助かったよ。ありがとうね、おキミちゃん」
「礼を言うのはおらのほうだ。伊勢に来たおかげでええ婿に巡り合えた。おトメさんのおかげだ。こっからはずっとおトメさんを背負うてやる。おトメさんはもう歩かんでええんだ。だけん観音像を使うのはやめろ。おらたちと一緒に旅をしよ」
「ううん、それはできないよ。あたしの旅は終わったんだもん。さあ、もういいよ。横になって」
トメが体を離すとキミは寝床に横たわった。ふくよかな胸が大きく上下している。
「もうおトメさんに会えんのか思っと寂しゅうて仕方ねえ」
「そんなことないよ。おキミちゃんは旅が終わればこの村に嫁いでくるんでしょう。あたしもこの村に葬られる。あたしたちはずっと一緒の村にいられるんだよ」
「そうか、そうだなあ。ずっと一緒だなあ。ほんなら寂しくねえなあ」
キミは嬉しそうに笑った。その笑顔の額に観音像が押し当てられた。無邪気な寝顔はまるで童女のようだ。
「おマツちゃん、最後になっちゃったね」
枕元に寄ったトメがそう声を掛けると、マツは仰向けになったまま小さく礼をした。
「今までありがとうございました。おトメさんからいただいた御恩は生涯決して忘れません」
「あれ、おマツちゃんはみんなみたいに観音像を使うなって言わないの」
「おトメさんが決めたことです。私はそれに従うだけです」
「それでこそあたしの大好きなおマツちゃんだ」
トメは観音像をマツの上にかざした。しかし額に近付けようとはしない。まだ話があるのだ。
「そんなおマツちゃんにお願いがあるんだ。この観音像を兄さに届けてくれないかな」
「茂助さんに?」
「おマツちゃんはあたしに観音像をくれた。だからあたしもこの観音像をおマツちゃんに預ける。ただ兄さは観音像を嫌っているから、ひょっとしたら手放そうとするかもしれない。その時は」
トメは愛おしさが溢れ出すような瞳でマツを見詰めた。今見えている全てのものを記憶に留めておきたい、そんなトメの思いが感じられる瞳だった。
「おマツちゃんがこの観音像の持ち主になってほしいんだ」
「私が、ですか」
「そう。旅が終わった後、おマツちゃんは誰よりも苦労すると思う。時には挫けそうになるかもしれない。この観音像はそんなおマツちゃんの心の支えになってくれると思うんだ」
「わかりました。この観音像、おトメさんだと思って大切にします」
「よかった」
トメは大きく息を吐いた。三人に観音像の力を使ったことでトメの体力は限界に達していた。最後の力を振り絞ってマツの額に観音像を近付ける。
「残っているあたしの命、全部おマツちゃんにあげるね。だからあたしの分も幸せになって。約束だよ」
「はい。おトメさんの分まで必ず幸せになります」
観音像を額に押し当てられたマツは安らぎの表情で眠りに落ちていった。それを確認したトメは観音像をマツの手に握らせた。後悔も悲しみもない、ただ穏やかな表情のままトメの体は崩れ落ち、マツに寄り添うようにその身を横たえ目を閉じた。そして、その目が開かれることは二度となかった。
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