長逗留

 翌朝、五人は西国巡礼の旅を再開した。トメは巡礼装束に着替えての出発である。次の目的地は一番札所那智山青岸渡寺。伊勢路を南下して熊野速玉はやたま大社まで行き、そこから中辺路なかへちを通って青岸渡寺に至る。四十里を超える長い旅だ。


「雨か。幸先悪いな」

「おフユちゃん、雨降って地固まるって言うでしょ。何事も良い方へ考えなくちゃ」


 昨晩から降り出した雨は今朝になっても続いていた。五人は雨具を身に着けて山田の宿を後にした。

 西に二里ほど進んで城下町の田丸に到着。そこからさらに進んで成川村を過ぎると最初の峠道、女鬼めき峠に差し掛かる。雨に濡れながら半里ほどの峠道を歩く五人。意外なことにソメが遅れ始めた。


「おソメちゃんどうしたの。足でも痛めた?」

「いや、心配無用だ」


 だが言葉とは裏腹にソメの足取りは重い。いかにキミでも大柄なソメを背負ってはたちまち息が上がってしまう。


「おソメさん、荷物だけ寄越せ。おらが持ってやる」

「かたじけない、おキミ殿」


 幸いなことにこの峠は平山でさほど険しくはなかった。峠を越えた頃には雨も上がり幾分足が軽くなったので五人はさらに先を急いだ。日は暮れてしまったもののなんとか栃原とちはらに到着。そこで宿を取ることにした。


「おソメちゃん、今日は早く寝た方がいいよ」

「そうだな。気を遣わせてすまぬ」


 ソメは紙衣に包まって早々と横になった。キミと同じくソメも人一倍頑健だ。一晩眠れば良くなるはず、誰もがそう信じていた。

 だが翌朝もソメの様子は芳しくなかった。頬は火照り息が荒い。熱もある。どうやら風邪をひいたようだ。


「きっと昨日雨に濡れたせいだよ。どうしよう、出発を遅らせようか」

「その必要はない。それに体を動かして汗をかいたほうが治りが早い。参ろう」


 心配ではあったが本人の言葉を尊重して五人は予定通り宿を出た。いつもならフユが「馬鹿は風邪ひかないっていうのにおかしいな」などとからかうのだが、そんな言葉も出ないほどソメの具合は悪かった。

 谷あいを大きく曲がる馬鹿曲がりを抜けて神瀬に出た後は細い山道を歩く。道の左側は斜面になっていてその下を宮川が流れている。


「あそこ、崩れてるんじゃない」


 前方の道の左側が大きくえぐれて幅が半分ほどになっていた。昨日の雨で崩れたのだろう。用心して歩けばなんとか通り抜けられそうだ。


「待って。あそこに人が見えます」


 マツが斜面の下を指差した。見れば一人の若者が道から五間ほど下に倒れていた。キミが大声で呼びかけても返事がない。


「ほんなら直接助けてやる」


 キミは斜面を下った。若者の体を揺り動かし、頬を叩き、背中に活を入れて目を覚まさせ、若者を担いで斜面をよじ登って戻って来た。


「ありがとうございます。私は忠太郎と申します」


 若者はこの先にある焼飯やきい村の庄屋の倅で、栃原から戻る途中、運悪く崖崩れに巻き込まれてしまったのだ。足を挫いていたので結局そのままキミが背負って運ぶことになった。


「あんた、男のくせに軽えな。そこのおトメさんのほうがよっぽど重え」「昔から家に籠って本ばかり読んでいるもので。おかげでこんな歳になってもまだ独り身なのです」


 キミと忠太郎はなんとなく良い雰囲気だ。だが、ソメの足取りは昨日にも増して重い。途中で拾った竹の棒を杖代わりにして歩いている。


「今日中に三瀬坂峠を越えるのは無理かもしれないね」

「すまぬ、おトメ殿。拙者が皆の足を引っ張ることになろうとは。面目次第もござらぬ」

「それなら今晩は私の屋敷にお泊まりください。皆様は命の恩人なのですから」


 キミに背負われたまま忠太郎が申し出た。四人の顔が一斉にほころんだがソメだけは首を横に振った。


「いや、拙者は百姓家に泊めていただく。残りの四人だけ世話していただきたい」

「何故ですか。具合が悪いからと言って遠慮はいりません」

「なんとなくわかったのだ。これはただの風邪ではない。庄屋の屋敷となれば下働きの者は多く来客も頻繁にあるだろう。拙者の病をうつしかねない」


 ソメが頑なに拒否するので忠太郎も諦めざるを得なかった。また他の四人もソメ一人だけを残して庄屋の屋敷の世話になることなどできるはずもなかった。結局五人は庄屋の紹介で村の外れにある農家の厄介になることとなった。


「みんな、聞いてくれぬか」


 板間に敷いたゴザに横たわったソメが四人を呼び寄せた。病がうつらぬよう鼻と口に手拭いを当てて話をする。


「拙者の病はおそらく麻疹はしかだ。桑名で出会った病の二人連れ、あの者たちからうつされたのだ」


 素直に受け入れるにはあまりにも深刻な内容であった。話自体を打ち消そうとするかのようにフユが反論する。


「そんなのおかしいだろ。だって桑名にいたのは十日近く前じゃないか。おソメの考え過ぎだ。ただの風邪に決まってる」

「麻疹は症状が出るまでに時間がかかるのだ。だから風邪ではないとわかった。それにたとえ麻疹でなかったとしても、しばらくは満足に歩けまい。そこで相談なのだが」


 おソメはトメを見た。この言葉を伝えるのが無念でたまらぬ、そんな表情をしていた。


「拙者をここに置いて四人で旅を続けてはくれぬか。今、ようやくわかった。雲水殿が占った旅から抜ける一人、それが誰なのか」

「あんな雲水の占いなんか気にするな。歩けないんなら歩けるようになるまで何日でも待ってやる。おいらたちは絶対に五人で村へ帰るんだ」

「麻疹となれば永遠に歩けなくなる場合もある。そうなれば嫌でも四人で帰らねばならぬ。どのみち同じことだ」


 永遠に歩けなくなる、その言葉の意味を四人は考えたくなかった。少しの沈黙の後、トメが言った。


「とにかくしばらく様子を見ようよ。庄屋さんに紹介してもらった宿だし、お願いすれば何日かは置いてもらえると思うんだ。もしかしたらただの風邪かもしれないでしょ」

「そうだな。そうであれば拙者も嬉しいのだが」


 その夜はそれで話が終わった。数日の滞在を宿主に頼むと快く了承してくれた。


 翌日から四人は村のために働き始めた。宿主も忠太郎もそんな気遣いは無用だと言ったのだが、体を動かしていれば要らぬ考えをせずに済む。それに手伝いをすれば誰もが喜んでくれる。これまで旅で受けてきた様々な御恩を返すにはちょうど良い機会だった。


「あの娘っこは本当によく働く」

「ああ。庄屋のとこの嫁にぴったりでないか」


 四人の中でもキミの評判は特によかった。力仕事なら男顔負けの働きができたし、なにより忠太郎を担いで崖を這い上がり、そのまま村まで連れ帰ったという武勇伝も評判に拍車を掛けた。


「おキミさん、これ、食べてください」

「いつもすまねな」


 そして忠太郎自身もキミを気に入っているようだった。毎朝、毎夕、五人への差し入れを欠かさず持参し、その際は必ずキミとのお喋りを楽しんだ。

 忠太郎は本ばかり読んでいるせいか、ソメにもひけを取らぬほどの博識だった。人は自分にないものを求める。腕力はないが知力のある忠太郎と、頭を使うのは苦手だが体を使えば誰にも負けぬキミが惹かれ合うのはごく自然の成り行きだった。


「おキミちゃん、忠太郎さんとどんな感じ」

「ええ感じだ。おらはいずれどこぞに嫁に行かねばなんねし、伊勢は好きだし、ここはええなあ」


 仲良くお喋りする二人を見ているだけでトメたちは心が和んだ。しかしソメは一向に良くならない。それどころか今度はフユが倒れてしまった。ソメと同じく高熱と咳。風邪のような症状だ。


「おソメに続いておいらまで病になっちまった。迷惑掛けてごめんな」

「あたしたちのことはいいから自分のことだけを考えて。早く治そうね」


 二人も同じような病になるとはただ事ではない、そう考えた宿主は庄屋と相談の上、役所に届け出た。役所は近隣の村から医者を呼び寄せ診察させた。ソメの予想どおり麻疹という見立てであった。


「やはりそうであったか。すまぬ。おフユ殿まで巻き込んでしまった」

「おソメが謝ることはない。薬も貰ったことだしそのうち治るだろ」

「私たちはお二人が良くなるまで何日でも待ちます。ゆっくり養生してください」


 そう言っていたマツも数日後、病に倒れた。村の者たちは心配して野菜や味噌を持って来てくれた。それに応えようとキミは以前に増して村の雑事をこなし朝から晩まで働き続けた。


「おキミさんが倒れました」


 忠太郎と数人の男たちがキミを板に乗せて運んで来た。水汲みをしている最中に倒れたらしい。高熱と咳。キミまで麻疹にかかってしまったのだ。


「おキミちゃん、頑張りすぎだよ」

「そうだなあ。おトメさんも無理は禁物だよ。病になってまう」

「あたし、体は弱いけど病にかかったことはないんだ。観音様の御加護かな。怪我はしょっちゅうだけどね」

「そうかあ、それならおトメさんだけでも村に帰れるな」


 それはフユが倒れた時から話に出ていたことだった。このままではいつ旅立てるかわからないし、他の者も発病するかもしれない。庄屋にお願いしてトメの同行者を探してもらい、トメ一人だけでも村に帰してはどうだろうか。ソメのこの意見にマツとキミは賛成だった。しかしフユとトメは反対していた。麻疹といえども治らぬわけではない。全員が完治するまで待つべきだ。結論が出ないままついにキミまで倒れた。トメは病に苦しむ四人の仲間をただつらそうに見守ることしかできなかった。


 その日、ソメは懐かしい感覚に襲われていた。それは高熱が見せる幻のようなものかもしれなかった。自分は寝床に横たわって熱にうなされているのだが、自分を見下ろす兄が妙に幼い。父も母も幾分若く感じる。そしてトメはまだ子どもだ。


「ああ、これは六歳の頃の記憶か」


 ソメがトメの力で治療してもらったのはこれまでただ一度きりだった。六歳の頃に高熱を発した。治してくれるトメはまだ十二歳だ。

 顔の前にかざされた観音像が淡い光を放ち始めた。全身の力が抜けていく。身も心も全てを観世音菩薩に委ねよ、その光はそう言いながらソメの自由を奪い取った。もう指一本も動かせない。


「おソメちゃん、あたしが治してあげるね」


 ゆっくりと近付いてくる観音像。それが額に触れた瞬間、全ての苦しみが薄れていった。ソメの目に映るトメの姿はまさしく観音様であった。この御恩に報いるために命を投げ出してトメを守ろう、この時ソメはそう心に決めたのだ。


「おソメちゃん」


 声が聞こえた。ソメが目を開けるとそこには二十八歳のトメがいた。


「夢か。懐かしい夢を見たものだ」

「どんな夢を見ていたの」

「初めておトメ殿に治療してもらった時の夢だ。拙者が体験した最初で最後の観音像の力であった」

「ふふ、そんなこともあったね。でも体験するのは最後じゃないよ」


 トメは懐から観音像を取り出した。たった今、夢で見たばかりの観音像が、あの時と同じようにソメの前に掲げられた。


「おトメ殿……」


 ソメの声は震えていた。トメが何をするつもりなのか、ソメには悲しいほどわかっていた。








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