最終話 伊勢街道を行く
病の二人連れ
四月二日、トメたち五人は数日間の滞在を終え、ようやく旅立つことになった。次の目的地は伊勢神宮。参拝しようと言い出したのはキミだが、その他の者もキミに負けず劣らず楽しみにしている。
「本当にお持ちにならなくてよろしいのですか」
「あたしたちは無銭の巡礼者だもん。路銀は持たないって決めてるんだ。それに御厄介になっている間はずいぶん無駄遣いもさせてもらったしね」
番頭が持たせてくれようとした路銀はトメが断った。銭がなければ確かに旅は厳しくなる。しかし銭がないからこそ人の情けをより深く感じられるのだ。巡礼の旅とはこの世の親切に感謝する旅でもある。
「やはり拙者はこの装束が一番でござる」
滞在中は五人ともフユの実家が用意してくれた着物を身に着けていた。その間に旅装束はしっかりと洗われ、繕われ、継ぎを当てられて、出雲を出た時より新しく感じられるほどだった。久しぶりの旅姿はみなの気持ちを一新させてくれた。
「ふふ、おマツちゃんとお揃いだね」
ただしトメだけは巡礼装束ではなくマツと同じ小袖に上っ張りのありふれた旅姿だ。旅の初めに杵築神社を参拝した時と同じく、巡礼装束で神宮に参るのはさすがに憚られるからだ。
出発の支度ができた五人は番頭たちと共に長良川の湊に向かった。フユの祖母の計らいで船が用意されていた。加納宿の北を流れる長良川は木曽三川のひとつ。河口で揖斐川と合流して伊勢の海に注いでおり、そこには東海道の宿場町のひとつ桑名がある。今日はそこで宿を探す予定だ。
「フユお嬢様、またお目に掛かれる日を心待ちにしております。道中くれぐれもお気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ジイ爺たちも元気でな。おいらが戻るまで
五人を乗せて船は川面を下り始めた。旅に出てからはつらく苦しいことも多かったが、フユの実家では楽しく安らかな日々を過ごすことができた。それぞれの思い出に浸りながら五人は美濃を後にした。
加納から桑名までは約十里。途中何度か船着き場に寄るので一日がかりの船旅となる。幸い順調に船足を伸ばすことができ、日の高いうちに桑名へ到着した。
「ここが桑名かあ」
「伊勢の国の東の玄関口でござるな」
桑名は尾張の宿場町である宮と七里の渡しで結ばれており、その渡船場には伊勢国一の鳥居が立っている。この鳥居は二十年ほど前、桑名の二名の商人が関東諸国に勧進して建立したものだ。東国からの参拝者はまずこの鳥居をくぐって伊勢参りの始まりとするのである。
「さて宿を探しましょうか」
桑名は宮に次いで旅籠数の多い宿場だ。それだけ旅人が多いわけで、さぞかし宿屋も盛況だろうと思っていたが意外にあっさりと見付かった。ここ数日波が穏やかで船待ちもなく泊り客も少ないらしい。トメたちを受け入れてくれた宿も十人に満たない客しかいなかった。
「ここの名物は焼き蛤だなあ。出っとええなあ」
桑名と言えば焼き蛤である。元禄の頃に書かれた本朝食鑑には桑名藩富田の焼き蛤が最高級品であり、さらに松ぼっくりで焼くと味が良くなり毒にも当たらなくなると書かれている。そのような銘品が善根宿で供されるはずがない。出てきたのは焼き蛤ではなく磯の香り漂うすまし汁だった。いつものように粗末な飯をいただく五人である。
「やっぱり番頭さんから路銀を貰っちょけばよかったなあ」
「おキミちゃん、贅沢を言うと罰が当たるよ」
雲水が同行してくれた時と同じく、フユの実家でうまい物をたらふく食べていたせいで、キミはすっかり口が
「こほっ、こほこほ」
「まだ苦しいのかい。しっかりおし」
相部屋になった二人については、宿に入った時から五人の気掛かりになっていた。どちらも子どもなのだ。マツくらいの女の子とそれより幼い男の子。きっと姉と弟なのだろう。ずっと見ていたが親はいない。二人だけで旅をしているようだ。
「あんな年端も行かない子だけで旅をするなんて珍しいね」
「
抜け参りとは、子や奉公人が親や主人の許しを得ずに出掛けてしまう伊勢参りのことだ。もちろん往来手形も持っていない。本来なら御法度であるがこのような形態の伊勢参りは容認されていた。それは「伊勢神宮への参拝は善行であり、善行である以上非難できない」という考えによるものだ。柄杓は喜捨を仰ぐための物で、差し出された者は銭や食べ物を施行して参拝者を助け、徳を積むのである。
「それならおいらたちも柄杓を持って旅すれば楽に巡礼できるんじゃないか」
「それは無理だ。柄杓は伊勢参り独自の物であるからな。我らが柄杓を差し出してもせいぜい井戸水を貰えるくらいであろう。しかしあの咳、気になる。ちょっと診てやろう」
ソメは薬の入った風呂敷包みを持って二人の元へ行った。男の子は雨具の紙衣に包まって震えている。
「こんばんは。拙者は医術の心得がある。診せてもらってもよろしいか」
女の子は無言で頷いた。ソメは男の子の額に手を当てた。熱がある。鼻水も出ている。しかし汗はかいていない。
「どうやら風邪のようだ。ちょっと待っていなさい」
ソメは湯を用意してもらうと紙包みの粉末を溶かした。葛の根の粉だ。古くから風邪の特効薬として用いられている平凡な薬だが効果は抜群である。
「さあ、お飲み。楽になるよ」
「弟のためにありがとうございます」
礼の言葉を嬉しく思いながらソメは五人の元へ戻った。トメが笑顔で迎えてくれた。
「ねえ、これまではあたしたちって施してもらってばかりいたけど、ようやく人様のお役に立てたね」
「うむ。何事も持ちつ持たれつであるな」
ソメだけでなく他の四人も嬉しかった。少し誇らしい気がした。
しかし状況は良くならなかった。翌朝になっても男の子の咳は止まらず熱も下がらなかったのだ。ソメはもう一度葛根湯を与えた。
「すまぬ、少し出発を遅らせてはくれぬか」
「乗りかかった船だもん。おソメちゃんの気の済むようにすればいいよ」
ソメは枕元で看病しながら様子を見たが男の子に好転の兆しはない。一刻ほど経ったところでソメは決断した。この二人連れと同行できないかと四人に頼んだのだ。
「雲水殿は縁もゆかりもない我らのために己の時と銭を使ってくれた。我らとてこの二人にできるだけのことをすべきではなかろうか」
反対する者はいなかった。ようやく昼前に宿を発ち次の宿場へ向かう七人。男の子の足取りが覚束なかったのでソメが背負った。その日はほとんど距離を稼げず四日市で宿を取った。
「これはただの風邪ではないのかもしれぬ」
その夜も葛根湯を与えたが男の子の熱は下がらない。ソメは夜通し看病した。四人はソメを心配したが口出ししたところで聞いてくれるはずもない。男の子が良くなることを祈りながら床に就くしかなかった。
翌朝、事態はさらに悪化した。女の子まで発熱したのだ。ソメは憔悴した顔で四人に頼んだ。
「すまない、今日も出発を遅らせて……」
「おソメ、いい加減にしろ!」
ついにフユの怒りが爆発した。疲れ切ったソメを心配しての怒りだ。
「おいらたちは人を助ける旅をしているんじゃない。人に助けられて旅をしているんだ。おソメ、おまえの役目は何だ」
「おトメ殿を無事村まで送り届けること」
「そうだ。その役目だけはどうあってもやり遂げなきゃならない。そのためにおいらは婆ちゃんの頼みだって断ったんだ。おまえがその二人を助けたいのはわかる。だけどそのために大切な役目を
「それは、そうであるが……」
ソメの家は代々医術を
「わかったよ。おソメちゃんがどうしても諦められないんだったら、あたしがその役目を引き受けてあげる」
トメは懐から観音像を取り出した。マツが彫ったものではなくギンから返してもらった本物の観音像だ。
「あたしがその二人を治してあげる。そうすれば万事解決でしょ」
「ダメだ。それだけは容認できぬ」
「やれやれ、おソメがこれほどわがままだとは思わなかった」
フユはソメの頭を優しく撫でた。まるで年下の幼女をあやしているかのようだ。
「おソメはよくやったよ。薬を飲ませただけでなくこの宿場まで背負って運び、ほとんど寝ずに看病した。これ以上やったらおソメの体がどうかなっちまう。施しを与えるのは立派なことだ。だけど身の丈以上の施しを与えるのは間違っている。与える方が無理しているってわかったら貰う方だって素直に喜べないだろう」
「そうだよ。これでもまだ看病を続けるつもりなら本当に観音像を使っちゃうよ」
「皆様の言う通りです。私も弟も本当に良くしていただきました。もう十分でございます」
「……わかり申した。拙者の力不足、まことに申し訳ない」
ソメは手持ちの葛の根を全て宿の主人に預けた。そしてあの二人にはくれぐれも良くしてやってくれと頼んで宿を後にした。
「おソメちゃん、元気出して。これまでだっておソメちゃんの手に負えなかった病人や怪我人はたくさんいたでしょう」
「そうだな。拙者は少し思い上がっていたのかもしれぬ。雲水殿が我らにしてくれたような親切を、あの二人にもしてやりたかったのだろうな」
「あんな雲水の真似なんかしたって良いことなんかありゃしないさ。そんなことより先を急ごう。神宮はまだまだ遠いんだからな」
遅れを取り戻そうと街道を足早に歩く五人。伊勢参りの旅は始まったばかりだ。
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