六番目の札所 華厳寺

 初めての野宿を終えて迎えた朝、昨晩残しておいた麦飯を平らげて五人は峠を登り始めた。


「さあ、今日中に赤坂まで行くよ」


 トメは完全復活していた。先頭に立ってぐいぐい歩いていく。トメの元気な様子を見てフユたちは安心して付いていくのだが、ソメだけはどことなく浮かない顔をしていた。


「おソメ、まだ心配しているのか」

「いや、そういうわけではないが」

「おトメはもう大丈夫だと思うぞ。おマツの観音像の効果は抜群だったみたいだし」

「うむ。それについては拙者も同じ考えだ。これまでどおり旅を続けられそうだな」

「美濃はおいらの故郷だ。まだ足を踏み入れてもいないのに気持ちが浮かれて仕方ないや」


 フユの実家は濃州厚見郡の商家である。フユの父、要助に頼まれて巡礼の途中、実家へ立ち寄ることになっていた。数年ぶりの里帰りとあってフユはかなり楽しみにしているようだ。


「うわあ、みんな見て。いい景色だよ」


 峠の頂からは琵琶湖が一望できた。行き交う船、竹生島、村の集落。ほんの数日前にあの場所にいたことが夢の出来事のように思えてくる。


「本当に。登ってきた甲斐がありますね」

「この峠は中山道随一の名勝なんだよな、おソメ」

「うむ」


 普段のソメならここで知識を披露するのだが、フユに話を振られても乗ってこない。やはりいつもとは様子が違う。


「それよりなんか、あの茶屋。まるで宿場の旅籠だあ」


 峠には茶屋が立ち並んでいた。その中でもひときわ大きいのが望湖堂である。参勤交代の大名もこの茶屋で休息するほどだ。数名の旅人が餅を食べている。この峠の名物で、するはり餅というらしい。


「するはり餅か。食いてえな」

「おキミちゃん、無い物ねだりはやめようね。さあ、行くよ」


 それから五人はひたすら中山道を下った。柏原を過ぎ、寝物語の里で近江の国に別れを告げ、難所の今須峠を越えて関ケ原へ入り、垂井たるいまで来たところで日暮れとなった。


「おトメ殿、皆、疲れておるようだ。今日はここまでといたそう」

「うーん、まだ歩けそうなんだけどなあ」


 口ではそう言っているがトメの足はすでにガクガクである。気持ちだけが先走っているようだ。


「垂井から赤坂までは約一里半だし、明日、この宿場から谷汲山の札所に向かっても一日で着けるだろ。無理せず体を休めたほうがいいんじゃないか」


 ソメとフユの二人から言われてはトメも無理は言えない。そもそも今日赤坂に着けなかった原因は昨日トメが満足に歩けなかったからだ。その遅れを挽回するために全員が無理をしたのだから、譲歩すべきはトメのほうである。


「そうだね。明日に備えて今日は早目に休もう」


 宿場の外れにある善根宿に受け入れてもらいようやく落ち着いた五人であったが、ソメの気分は晴れなかった。実は観音正寺を出た時からソメはずっと考え事をしていたのである。ただトメの様子があまりにもおかしいので誰もソメの変調に気付かなかっただけなのだ。


(スケ殿の言葉、あれはどのように解釈すればよいのだろうか)


 ギン一行が観音正寺から引き上げる時、従者のスケはソメの耳元で囁くようにこう言ったのだ。


「四月一日、美濃加納宿近くの善福寺に参られよ」


 この一言がずっとソメを悩ませていた。スケが加納宿を指定した理由はわかっていた。成相寺の参道で交わした会話の中で、美濃の札所を回った後は加納宿にあるフユの在所に立ち寄り、その後伊勢参りに出掛けると教えたからだ。


「加納宿は中山道で五本の指に入る大きな宿場町。おギン殿たちにとっても待ち合わせるには都合がいいのであろう」


 この事はトメたちには教えていない。スケはソメ一人だけにこの言葉を告げた。つまり他の者には聞かれたくなかったと考えなければならない。他の者に知られたくないのであれば善福寺へも当然一人で行くことになる。これまでトメたちとはずっと一緒に行動してきた。それなのに一人で札所でもない寺に行きたいと言えば理由を訊かれるに決まっている。


(はて、どのような言い訳をすればよいものか)


 ソメの思考はこの段階で行き詰まっているのだ。今日は三月二十四日なので日程的には問題ない。むしろ時間が余り過ぎているくらいだ。四月一日になる前に伊勢へ旅立つ準備ができれば、出発を遅らせてくれと頼まなくてはならない。そうなればそのための理由も必要になる。


「なんだ、また考え事か、おソメ」


 話し掛けてきたのはフユだ。怒りっぽい性格だが人一倍気遣いをしてくれる。マツが隠し事を打ち明けた時も、キミが山道を嫌がった時も、トメが腑抜けてしまった時も、フユは怒った。怒りは心配の裏返しだ。みんなを心配しているからこそ怒るのだ。そして今もソメを気遣ってくれている。その優しさが心に染みてソメはつい口にしてしまった。


「おフユ殿の実家は加納宿にあるのだったな」

「そうさ。加納は美濃の宿場町の中で一番大きいんだ。賑やか過ぎて驚くなよ」

「加納宿の近くにある善福寺という寺を御存じか」


 言ってしまってからソメはしまったと思った。しかし口から出た言葉は戻らない。


「善福寺? いや知らない。故郷って言っても九歳までしかいなかったし、そもそも寺なんか興味ないしな」

「そうか。つまらぬことを訊いたな。すまぬ」

「で、善福寺がどうしたんだ。行きたいのか」

「う、うむ。まあ、それについてはおフユ殿の実家に着いてから詳しく話すといたそう」

「ああ、それがいいな。おいらの婆ちゃんならきっと知っていると思う」


 話はそこで終わった。ソメは油断した自分の心を叱りつけた。


 翌朝、五人は早目に宿を発った。中山道を赤坂まで進んだ後、四つ辻の常夜灯道標を目印にして北へ曲がれば谷汲巡礼街道の始まりである。華厳寺まで約五里。トメたちの足でも今日中にはたどり着ける距離だ。


「華厳寺には面白い話がある。道中の手慰みに語って聞かせよう」


 歩きながらソメが語り始めた。昔、京から奥州に観音像を運ぼうとしたところ、突然観音像が笠を被り、草鞋を履き、杖をついて歩き始めた。そして赤坂まで来ると、


「奥州には行かぬ。ここより北五里の地にて衆生を済度せん」


 と言って北に歩き始め、谷汲の地に着いた途端動かなくなった。それが華厳寺の始まりだと言うのだ。


「じゃあ、あたしたち観音像さんの歩いた道を通ってお寺に行くってこと?」

「まあ、そういうことになるであろうな」


 有難い話を聞かされてトメは上機嫌だ。昨日の疲れも忘れて早足で歩を進める。


「平地で歩きやすいね。丁石もたくさんあって迷わないし」

「強いて難所を挙げるとすれば揖斐川と小野坂峠であろうか」


 揖斐川は木曽三川のひとつでたびたび洪水を引き起こす暴れ川だ。街道周辺に湿地帯が多いのはそのためである。渡し場はいくつかあるがトメたちは杉野の渡しで川を越えた。船賃の対価はトメの熱意とマツの笑顔である。


「なあ、さっきの話の観音像だけと、どうやって川を渡ったんだろうな」

「木でできちょっけん、浮かんで泳えだのじゃねえか」

「法力で水の上を歩いたのでござろう」

「二人とも想像力がないなあ。大砲でぶっ放してもらったに決まってる」

「木でできちょっけん、大砲で撃ったら木っ端みじんじゃ」

「そもそもその時代に大砲はないであろう」

「ちょっとそこの三人、余計なことは考えず歩きなさい」

「普通に船で渡してもらったんだと思います」

「さすがおマツちゃん。そこの三人も見習いなさい」


 今日もトメは絶好調のようだ。


 さらに北へ進むと小野坂峠に差し掛かる。厳しい急坂を息を切らしながら登る五人。峠を下った後は湿地帯を避けるように麓に沿って進めば門前町の奥に山門が見えてきた。


「は~、なんとか日暮れまでに到着できたね。よかったあ」

「ずっと晴れてくれたおかげだ。雨だとこうはいかない。お天道様もおいらたちに味方してくれたんだな」

「それにしても立派な山門だあ」

「五十年ほど前に再建された仁王門でござるな」


 千社札だらけの山門の左右には運慶作と言われる仁王像が安置されている。手前に吊り下げられた大草鞋は仁王様の履物だろうか。力感溢れる山門の威容に圧倒されながら門をくぐると長い参道が続いている。境内の伽藍を眺めながらさらに北へ進み五人は本堂にたどりついた。


「これでようやく六つ目かあ」


 西国三十三所巡礼第三十三番札所天台宗谷汲山華厳寺。本尊は十一面観世音菩薩。ここは巡礼の最後に訪れる満願の寺なので他の寺にはない特徴がある。本堂を参拝した後さらに北へ進むと、たくさんの杖と衣が奉納された堂に着く。笈摺おいずる堂だ。


「満願成就に至った巡礼者が、不要になった金剛杖と笈摺を奉納する堂でござるな」


 笈摺は着物の上に着る袖無し羽織だ。西国巡礼の場合は背中に南無観世音菩薩と書かれている。トメは笈摺も輪袈裟も身に着けていない。これから暑い季節になるし荷物になるので用意しなかったのだ。


「このお寺が最後だったとしてもあたしには関係ないお堂かな。笈摺は着ていないし、金剛杖って言っても文字の書いてないただの白木の棒だから巡礼が終わっても使うつもりだし」

「我らには縁のないお堂であったようだな」


 笈摺堂の左側には三十三段の石段がある。その先にあるのは満願堂だ。納め札はこのお堂に納める。


「あたしたちはまだ六つ目だから満願にはほど遠いんだよねえ。それなのに満願堂って、なんだか複雑な気分」

「うむ。やはりこの寺は最後に回るべきなのだろうな」


 この満願堂にも十一面観音像が安置されていて格子の外からお姿を拝見できる。だが堂内は薄暗く、像は奥にあるのでほとんど見えなかった。

 なにはともあれ六つ目の納札を無事済ませ、心地良い疲労感とともに五人は門前町に戻ってきた。今日はここで宿を探すつもりだ。


「伊勢へ行く前においらの実家へ寄ってくれるんだろ。楽しみで仕方ないや」


 浮かれ始めたフユとは対照的にソメは浮かぬ顔だ。善福寺の件をいつどのように切り出そうか、頭の中はそれだけでいっぱいだった。








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