五番目の札所 観音正寺
トメたち五人はまたも汗をかいていた。多くの札所がそうであるように観音正寺もまた山寺であり参道は石段である。その段数は長命寺より四百段多い千二百段。距離は十三丁。まだ半分も登らないうちにトメが弱音を吐き始めた。
「一日に二ヶ所も回るのは無理だったんじゃないのかなあ」
「ここまで来ては戻ることもできぬ。頑張って歩かれよ」
「おトメさん、おらが背負うてあぎょうか」
「それはダメ。おキミちゃんの背中はおマツちゃんのものだから」
マツの表情は明るい。ソメやフユと遜色ない足取りで石段を登っていく。これまで胸の中に閉じ込めていた秘密を全て打ち明けて心が軽くなったせいだろう。心が軽くなれば体も軽くなる。雲水やキミに背負ってもらっていた頃とはまるで別人だ。
「おトメさん、私のことは気にしないでください。おキミさんの背中は誰のものでもないのですから」
「あ、じゃあ、おいらが背負ってもらおうかな」
「誰がおフユなど背負うか。自分で歩け」
「左様。おフユ殿、杖に縋るとも人に縋るな、でござる」
ソメは古びた杖をフユに差し出した。参道の入り口に置いてあったものだ。先達の巡礼者が後進のために残して行ってくれたのだろう。
「それはおソメが使えばいい。杖だって荷物に違いないからな。荷物は少ないに限る」
「みんなのお喋りを聞いていたら少し楽になったよ。さあ、張り切って登ろう」
明けない夜がないように終わらない石段もない。やがて建物が見えてきた。
「なんだか小ぢんまりとした境内だね」
「戦乱の世の災禍に見舞われて移築しているからでござろうな」
「あ、あの建物はなんだか新しい」
「書院でござるな。再建されてまだ十年ほどだとか。さあおトメ殿、札を納められよ」
西国三十三所巡礼第三十二番札所天台宗単立繖山観音正寺。本尊は千手観世音菩薩。五つ目の札所にも無事納札できた。
観音堂を参拝し、聖徳太子が人魚の願いを受け入れてこの寺を建立したというソメの話を聞きながら体を休め、さてそろそろ石段を下りようかと歩き始めた時だった。真新しい書院の中から数名の人影が姿を現した。
「えらい遅いかったどすなあ。待ちくたびれましたわ」
ソメもフユもそして他の三人も我が目、我が耳を疑わずにはいられなかった。五人の目に前にいるのは竹生島の宝厳寺で会った、あの男だ。
「何故貴殿がここにいるのだ」
「ここにいてはおかしいどすか。もしや近江や京の寺を回っとるとでも思っていなはったんどすか。こら愉快や。何年この商売をやっとる思とるんどすか。あんたの嘘なんか簡単に見抜けましたわ。騙そう思て騙された気分は如何どすか」
「くっ……」
ソメは敗北感に打ちのめされていた。と同時に自分の未熟さを痛感していた。相手は海千山千の人買いなのに対し、こちらは出雲の片田舎で薬草を採取するだけの世間知らず。ソメたちが敵う相手ではなかったのだ。
「それであんた、あたしたちに何の用なの」
ソメに代わってトメが前に出た。知恵で勝てぬなら勢いで押しまくるしかない。
「それを尋ねはるんどすか。わざわざ嘘までついたんやさかい、こっちが何者かもうわかってはるのやろ。さっさとおマツを寄越しなはれ」
「おマツちゃんは渡さない。みんなと一緒に旅をしてみんなと一緒に村へ帰るんだから。あんたなんかには絶対に渡さない」
「困ったお人らやなあ。どないしても返さへん言うんならこっちにも考えがあります」
男の言葉を聞いてソメが竹光の柄に手を掛けた。フユが革袋に手を突っ込んだ。キミが道中合羽を脱ぎ捨てた。が、男は何もせずに後ろへ引っ込むと、代わりに羽織袴に二本差しの男がトメたちの前に進み出た。
「おマツと申す者は誰か」
「なによあんた、偉そうに」
「おトメ殿、やめられよ」
ソメは直ちに現状を理解した。この男は町方の役人に違いない。向こうが証文を持っている以上、非はマツを渡さぬこちらにある。力尽くではなく合法的にマツを取り戻そうとしているのだ。
「マツは私でございます」
「出雲国神門郡知井宮村、清蔵の娘マツとはおまえに相違ないな」
「はい」
「その方、年季奉公の約定を違えて逃亡を図るとは不届き千万。本来なら然るべき仕置きを致すところであるが、雇主のたっての希望により、この場で恭順の意を示すならば特別に許して遣わす」
「仰せのままにいたします」
「ダメだよ、おマツちゃん。こんな奴らの言うことなんか聞かなくていい。行っちゃダメだ」
「黙れ。逆らうのであればおまえらもお縄にするぞ」
役人が連れている手下は二人。力尽くで突破できないことはないが、そんなことをすれば自分たちがお尋ね者になってしまう。強気のトメも引き下がるしかなかった。
マツは四人の前に出ると深々と頭を下げた。
「これ以上皆さんに迷惑は掛けられません。やはり雲水さんの占いは間違っていなかったようですね。短い間でしたが楽しい思い出ができました。ありがとうございました」
「素直なええ子やな。なんも心配することはあらしまへんで。みんなの言うことちゃんと聞いて早う一人前におなり」
男はマツを連れて引き上げていく。その後姿に向かってトメが叫んだ。
「待って。おマツちゃん一人を行かせやしない。あたしも行く。あたしも連れて行って」
「あんたが?」
男は胡散臭そうにトメを眺めた。トメは二十八歳。大年増と呼ばれても文句を言えない年齢だ。
「冗談はやめとくなはれ。あんたみたいな
「何でもします。掃除、洗濯、使い走り、言われた通り働きます。だからあたしも連れていって」
「そこまで言うなら付いて来なはれ」
「待て!」
ソメがトメの前に出た。
「おトメ殿が参るのなら拙者も参る。下働きにでも使うがよい」
「ほう。あんたは用心棒に使えそうやね」
「待ちない!」
さらにキミも前に出た。
「二人が行くならおらも行く。飯炊きは任せてごしぇ」
「ああ、もうわかった。三人とも来たらええがな。で、あんたはどないしはるんや」
男とトメたちの目が一斉にフユへ注がれた。
「えっ、お、おいら?」
フユは当然行くつもりはない。だがそんなことを言い出せる雰囲気ではない。それにトメを村に連れて帰るという役目もある。
「わかったよ、行きゃいいんだろ。雑用にでも使ってくれ」
「ははは、あんたたち、どこまで人が好いんだい。笑っちまうよ」
突然、聞き覚えのある女の声が境内に響いた。書院の陰から姿を現したのは成相寺で会ったギンとその従者だ。
「おギンさん!」
「娘一人のために自分たちの人生を捨てるのかい。親や兄弟を泣かせるような真似はやめときな」
おギンと二人の従者は男の前に進み出た。三人の貫禄に押されて男は少々うろたえている。
「な、なんやの、あんたら」
「この子らのちょっとした知り合いでね。悪いが五人を連れていくのはやめてもらえないかい」
「四人は要らんけどおマツはあきまへん。もう金は払っとるんやさかい」
「なら、その金をあたしが返してやるよ。それでおマツをこちらに引き渡しておくれ」
「あんたが?」
男は何か考えている様子だった。おギン、おギン……。ふと何か思いついたように叫んだ。
「まさか江戸吉原、銀狐の姐御どすか!」
「おや、上方にまで知られているのかい。嬉しいねえ。そのおギンさんが頼んでいるんだ。聞いておくれよ」
「そらまあ金さえ貰えたら構しまへんが、こっちもこれまでに出費がかさんでますさかいなあ。買値ではお売りできまへん」
「幾らなら売ってくれるのさ」
「五、いや十両でどないどす」
ギンの眉間に皺が寄った。教養のある武家の娘ならいざ知らず、貧農の娘ならばせいぜい三~五両が相場だ。吹っ掛け過ぎにも程がある。だがギンは素直に要求を飲んだ。
「カク、出してやんな」
「へい」
胴巻きから一両小判十枚を取り出すカク。が、すぐには渡さない。
「おマツの証文と交換だ。それから十両の受け取り証文も新しく作られよ。後で金を受け取っていないなどと言われては困るからな」
「わかりました。しばしお待ちを」
男は書院に入って新しく証文を作り、金と引き換えに二枚の証文を渡した。
「さ、これでおマツはあんたのもんや。好きにしなはれ」
「ありがとよ」
「礼を言うんはこっちや。ええ銭儲けをさせてもろうたわ。江戸のお人はほんま商売下手やなあ。お役人はん、今日は御足労どした」
「うむ、ならば引き上げるとしよう」
男たちは境内を出ていく。トメたちは一斉にギンを取り囲んだ。
「おギンさん、ありがとうございます。どれだけお礼を言っても言い尽くせません。本当に本当にありがとうございました」
「おらからも礼を言うだ。おマツちゃんを助けてごしぇてだんだんなあ」
「おギンが善人だってことは最初からわかっていたんだ。おいら人を見る目は確かだからな」
「おギン殿、此度の御厚情に深く感謝いたす。この御恩は決して忘れぬ」
「でもよく再会できたよね。観音様の御慈悲に感謝しなくちゃ」
「ああ、まったくだよ。観音寺城の城跡見物をしていなかったら、あんたらに会うこともなかっただろうからね」
寺の隣には六角氏が放棄した観音寺城跡がある。寺域よりも広い城跡には石段、石垣、潜り門などが当時のまま残されている。
「城跡見物とは良きご趣味でござるな」
「たまには他の史跡も見たくなるのさ。これで八回目の巡礼だからね」
「おギン様、三回目です」
「だから訂正しなくていいって言ってるだろ、カク」
「ははっ」
「それじゃ、おマツ、行こうか」
「えっ?」
ギンはマツの肩に手を回して歩き出した。戸惑いながらも付いていくマツ。慌ててトメが止める。
「待って。おギンさん、どういうこと。どうしておマツちゃんを連れて行くの」
「あんたたち、何か勘違いしてないかい。金を払ったのはあんたたちのためじゃない。あたしが欲しかったから買ったんだ。おマツはもうあたしの物。どうしようがあたしの勝手だろ」
「でも、おマツちゃんはあたしたちと一緒に旅をしているんです。せめて旅が終わるまで待ってくれませんか」
「嫌だね。どうしても旅に連れて行くって言うんならこの場で十両払っておくれ。そしたらおマツを返してやるよ」
「そんな……」
思い掛けないギンの行動に戸惑う四人。だが考えてみれば当たり前の話だ。ギンとはたった一度会っただけの仲。十両という大金を立て替えてもらえるなどと考える方がどうかしている。
「くそっ、褒めて損した。この女狐め」
「おフユ殿、おマツ殿を助けていただいた相手にそのような物言いは失礼であろう」
「だども、このままじゃおマツちゃんを連れて行かれちまう。おソメさんはそれでもええのか」
「よいわけがない。しかし十両は大金。とても我らの手には負えぬ」
ギンはマツを連れてゆっくりと歩いていく。だが妙なことにカクとスケはその場に突っ立ったままだ。そればかりでなく四人に向かって目配せのようなことをしている。その意味をトメが悟るのにさほど長くはかからなかった。
「うん、あたし決めた」
トメは吹っ切れたように弾んだ声を出した。
「あたしもおマツちゃんと一緒に江戸へ行く。実は一度行ってみたいと思っていたんだ」
「な、なんだって」
驚くギンに対して他の三人も畳み掛ける。
「おお、それはいい。ならば拙者も参ろう。江戸に出て多くの文人たちの話を聞くのも一興であるな」
「おいらも行くぜ。江戸の花火は凄いんだろ。弟子入りして江戸っ子が腰を抜かすような大玉を作ってやる」
「うめえ物もたくさんあんだらあ。早う食うてみてえ」
江戸に行けると聞いてはしゃぎ出す四人。西国巡礼の途中であることは完全に忘れてしまっているようだ。
「ああ、わかったわかった。同じ猿芝居を二度も演じるのはやめとくれ。十両は貸しにしといてやる。おマツは連れて行きな」
うんざりした表情の中に安堵の色を隠しながらギンは言った。やはりギンは善人だった。初めからそのつもりだったのだ。
「そう言ってくれると思ってた。おギンさんありがとう」
「だけど質草は貰っておくよ。何の担保もなしに十両の金は貸せないからね。取り敢えず納め札を寄越しな。あんたらの名と在所が書いてあるから証文代わりにする」
「はい、どうぞ」
トメが一枚取り出すと、ギンは受け取らずに頭陀袋の中に手を突っ込んだ。
「一枚なんてけち臭いことを言わずもっとお寄越し」
「あ、そんなにたくさん! お寺に納める札がなくなっちゃう」
「なくなったら新しく書きゃいいだろ。さてと後はあんたたち五人から質草をいただこうかね」
「十両の担保になるような高価な物は持っておらぬが」
「わかってるよ。今持っている中で一番大切な物を一人ひとつずつお寄越し。それで許してやるよ」
顔を見合わせる五人。最初に差し出したのはマツだった。
「これは母の形見のお守りです。私にとってとても大切な物です」
「へえ。ボロ雑巾みたいになっているけど良い品だ。たぶん西陣織だね。貰っとくよ。はい次」
「おらは箸だ。これを使うとどげな飯でもうまくなる」
「輪島塗かね。あんたら良い物持ってるじゃないか。次」
「おいらの切り札、
「何だいこりゃ。花火玉かい。それにしちゃ小さいね」
「似たような物です。危ないのでわたしが預かりましょう」
スケは懐から手拭いを取り出し厳重に包み込んだ。
「拙者は竹光だ。受け取られよ」
「いいのかい。刀は武士の魂なんだろ」
「不伝流には無刀術もある。心配無用だ」
「勇ましいこったね。さて、最後のあんたは何をくれるんだい」
「あたしは……」
トメはしずしずと懐から手を出した。観音像が握られている。
「あたしは観音像を」
「駄目だ。それは渡してはならぬ」
ソメはトメの手をつかんだ。トメにとって観音像の価値は十両どころではない。その気になれば将軍の病さえ治せるのだ。質草になどできるはずがない。
「でも、あたしにとって一番大切な物って言ったらこれしか……」
「何言ってんだ。馬鹿正直におギンの言葉に従う必要なんかないだろ。適当に金剛杖でも渡しとけばいいじゃないか」
「そうだあ、その観音像はおトメさんが持っちょるけん意味があんだ。他人に渡しちゃなんねえ」
「おトメさん、私のためにそこまでしないでください」
騒ぎ出した四人を見れば、事情を全く知らないギンでも観音像に特別な意味があることは理解できた。さすがに居心地が悪くなったのだろう、勢いが和らいだ。
「どうすんだい。あたしゃ別に金剛杖でも構やしないよ」
「ううん。みんな自分の一番大切な物を差し出したんだもん。あたしだってそうしなきゃみんなに顔向けできないよ」
トメは観音像をギンに渡した。ギンは大切に懐に仕舞うと大声で叫んだ。
「待たせたね。出発だよ」
「へい!」
書院の陰から二人の駕籠かきが出てきた。寺の境内だけでなく隣の城跡も駕籠を使って見物していたようだ。
「金が用意できたらいつでも江戸に来な。それまで大切に取って置いてやるよ。出しな」
「へい」
ギンは駕籠に乗って引き上げていく。従者二人もそれに従うが、去り際にスケがソメの耳元で何かを言い残していった。
「行っちゃった。十両なんてお金用意できないし、もう会うこともないだろうな」
「おトメさん!」
ギンを見送るトメにマツが抱き着いた。泣き声になっている。
「ごめんなさい、おトメさん、私なんかのために大切な観音像を……ごめんなさいごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。旅の間は使うなって兄さに言われてたんだし、それに」
トメはまるで独り言のようにつぶやいた。
「それにもうすぐあたしには必要なくなるんだから」
その言葉の真の意味を理解できるのは自分だけに違いない、この時のソメはそう考えていた。
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