三番目の札所 宝厳寺
松尾寺のある青葉山は丹後と若狭の国境にある。吉坂峠を越えて若狭に入り高浜まで進んだトメたちは農家で井戸を借り顔を洗った。
「ふう、さっぱりした」
冷たい井戸水を飲んで喉の渇きを癒やす。マツの様子を見るとだいぶ落ち着いている。これなら話を聞いても大丈夫だろうとソメは判断した。
「おマツ殿、話してくれぬか。あの男たちは何者だ。何故おマツ殿を連れて行こうとするのだ」
マツはすでに観念していた。もはや黙っていることはできない。小さいがはっきりとした声で自分の置かれている状況を説明した。
「私は人買いに売られたのです。あの人たちはその仲間に違いありません」
マツの父、清蔵は女房に先立たれてから荒れた生活をしていた。満足に働きもせず酒に溺れ、知らぬ間に借金だらけになってしまった。これ以上は金の返済を待てぬ、即刻返せと脅され、仕方なくマツの身売りを承諾してしまったのだ。
「ひでえお父つぁんだあ。自分の借金を娘に肩代わりさせるなんて」
キミだけでなくトメもフユも憤慨している。しかしソメはようやく事情を知ることができて、立ち込めていた暗雲が晴れていくような心持ちだった。父から聞かされていた清蔵の気前の良さもこれで説明が付く。手に入れたのは富くじの当選金ではなくマツを売った金だったのだ。
「確かに父はろくでもない人間です。でも私や母にはとても優しくしてくれました。売られる私を不憫に思ったのでしょう。おトメさんと一緒に旅に出て、そのまま旅先で逃げるようにと私に言ったのです。人買いの手に渡すくらいならその方がマシだと思ったようです」
マツを引き渡す期限の三月七日になって初めてマツが逃げたことに気付いた人買いたちはすぐ後を追った。だがトメたちは予想に反して海沿いの道ではなく、山陰街道からなりあい道に入る経路で札所へ向かっていたのでなかなか見付からなかった。そこで最初の札所である成相寺で見張ることにしたのである。
「待って、そしたらあのおギンさんも仲間なんじゃないの。おマツちゃんをずいぶん気に入っていたみたいだし」
「私も最初はそう思いました。でも人買いは上方の置屋を相手にしていると父は言っていました。おギンさんは江戸の人。本当に偶然出会っただけなのだと思います」
「しかしおマツ殿、何故我らに打ち明けてくれなかったのだ。わかっていればそれなりに対策も立てられたであろうに」
「ごめんなさい。何度も言おうと思ったのです。でもずっと皆さんと旅がしたくて。もし言ってしまったら旅が終わってしまう気がして、それが嫌で。だからどうしても言えなかったのです。ごめんなさい」
「ちっ、なんてこった。おいらたちは騙されていたのか!」
いきなりフユが
「おフユ殿、今ここで怒っても何も解決せぬぞ」
「ここで怒らずにどこで怒れって言うんだ。おいらたちはとんでもない災難を背負い込まされてしまったんだぞ。今回はうまく逃げられたからよかったけど次もうまくいくとは限らない。あいつらは本気でおソメの命を奪おうとしていた。それもこれもおマツが旅に加わったせいじゃないか」
「おフユ、そげな言い方はやめら」
「いいえ。おフユさんが怒るのは当たり前です。雲水さんの占いを聞いた時、一緒に村へ帰れないのは私のことだとすぐわかりました。あの時、旅から抜けてしまえば皆さんを危ない目に遭わせずに済んだのです。本当にごめんなさい」
「おマツが謝って済むことじゃない」
「おフユ殿、それは言い過ぎであろう」
「何が言い過ぎだ。まだ言い足りないくらいだ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめん、なさい……」
「おマツちゃんを泣かせるなんて、おら許せねえ。おフユ、おマツちゃんに謝れ」
「なんでおいらが謝らなきゃいけないんだ。謝るのは向こうだろ」
「おマツ殿は先程から謝っておるではないか」
「おマツが謝ってどうするんだ。謝るのはおマツの
「は?」
「誰がおマツに腹を立てていると言った。悪いのはおマツじゃない。おマツの親父だ。自分の娘だけでなくおいらたちにまで自分の難儀を押し付けやがって。考えただけで腹が立つ」
「ふふふ、そんなことだろうと思った。おフユちゃんがおマツちゃんを悪く言うわけないもんね。もう泣かなくていいよおマツちゃん。ここにいる四人はみんなおマツちゃんの味方なんだから」
トメはマツの涙を指で拭ってやった。マツの顔が少しだけほころんだ。
「だがこれから如何したものか。人買いと言っても年季奉公という形で証文を作っているはず。しかも金まで払っているとなれば、おマツ殿を引き渡さぬ我らの方に非がある。これは困ったでござるな」
「これ以上皆さんに迷惑は掛けられません。私は旅から抜けます」
「旅から抜けてどうするの。村へ帰るの」
「いいえ。父に言われたようにどこかの村で働き口を探します。給金は要らないと言えば置いてくれる家もあるでしょう」
「しかしそれでは何の解決にもならぬ。人買いはその家へ押し掛けておマツ殿を引き渡せと言うであろう。我らの迷惑を他人の迷惑にすり替えるだけに過ぎぬ」
「ならば素直に人買いの元へ参ります。本来はそうすべきなのですから」
四人は黙ってしまった。それが最良の選択であることは百も承知だ。だがそれだけは絶対にさせたくない選択でもあるのだ。
「ねえ、おマツちゃんはどうしたいの。どんなに自分勝手なわがままでもいいから言ってみて」
「私、私は……」
言い淀むマツ。頬が少し火照っているのは涙のせいだけではなさそうだ。
「これからも皆さんと一緒に旅がしたいです。村に戻ってもう一度父に会いたいです」
「決まりだな」
フユは嬉しそうだ。この返事を期待していたのがありありとわかる。
「あの雲水の占いは絶対に外してやると最初から決めていたんだ。おいらたちの旅からは誰一人抜けさせない。必ず五人で村へ帰る」
「でも、それでは皆さんに迷惑が」
「寺を回るだけの旅なんか退屈でつまらない。逃げ回りながらの旅のほうがよっぽど面白いじゃないか」
「うむ。拙者も良い鍛錬になる。最近剣術の稽古を怠けておるからな」
「おマツちゃんには指一本触れさせねえ。全部おらが投げ飛ばしてやる」
「聞いたでしょ、おマツちゃんはみんなと村へ帰らなきゃいけないんだよ。だから一緒に旅を続けよう」
「はい。ありがとうございます」
五人の方針は決まった。何一つ解決していないが五人の心が一つになったのだ。この先何が起きようと全てを受け入れる覚悟はできている。
「腹減ったな」
キミの一言は四人の笑いを誘った。と同時に疲労と空腹がどっと押し寄せてきた。結局その日は高浜の先の本郷で宿を探し漁師の家に泊めてもらった。出された焼き鯖は格別だった。
翌日は海沿いに小浜まで進みそこから若狭街道へ入った。この街道は小浜と京を結んでおり別名鯖街道とも呼ばれる。行商人たちは朝、小浜で獲れた生鯖に塩をして「京は遠ても十八里」の道を一昼夜かけて歩く。トメたちの足なら三昼夜はかかりそうな距離だ。
「京まで十八里か。もう手の届く距離だね」
「おトメ殿、京の都に行きたくなったのではないか」
「ううん。行かないって決めたんだもん。何の未練もないよ」
口ではそう言っているがソメにはわかっていた。西国巡礼は三十三ヶ所全て回ってこそ意味がある。満願成就の思いは簡単に捨てきれるものではない。だが行かないと決めたのはトメ自身だ。その決断に口出しはできない。
「では今津に向けて歩くとするか」
小浜から今津までの道は九里半街道と呼ばれ、こちらは琵琶湖の水運を利用した鯖街道になる。今津から三里ほど船に乗れば次の札所
竹生島は島全体が神域でありかつては女人禁制だった。琵琶湖東岸の早崎には竹生島一の鳥居があり、島に渡れない女たちはこの鳥居から島を望んで参拝したと言われている。
九里半街道に入ったトメたちは女改めが特に厳しいと言われる熊川番所を無事通り抜けて近江の国に入り追分で一泊。翌日二里先の今津に着いた。ここからは船に乗って竹生島へ渡るのだが、
「ただで乗せろって? そいつは無理だ」
さしものマツの笑顔もここでは通用しなかった。今津から竹生島へは二里半ほどの距離。天橋立の渡し船とは距離が違いすぎる。さすがに無料では乗せてもらえなかった。
「さて如何したものか」
「諦めようか。どうせ京の札所も回らないんだし」
渡し場で困惑する五人。と、不意に声が掛かった。
「若い娘五人連れで西国巡礼とは感心どすなあ」
背後から声を掛けられてソメは咄嗟に竹光の柄に手をかけた。が、そこには気の良さそうな中年の男が一人いただけだった。派手な文様の羽織に金紗の帯。どこぞの大店の旦那にしか見えない。
(人買いの仲間ではないのか)
松尾寺で襲ってきた連中とは明らかに違う。だがソメは疑いを捨てきれずにいた。
「ちょいとそこの女剣士さん、怖い顔で睨み付けるのはやめとくなはれ」
「我らに何か用か」
「あても巡礼の途中なんどす。自前の船がありますんで一緒に乗せてってあげましょか」
「うわー、助かる!」
即座に喜ぶトメ。ソメとフユは男に対する疑念を持ち続けてはいたが、島に渡るにはどうしても船が必要だ。
「フユ殿、如何いたす」
「向こうは船頭とあいつの二人。こっちは五人。なんとかなるだろ」
背に腹は変えられない。五人は男の好意に甘えることにした。
「竹生島は平城京の頃に行基上人が開いたと言われとります」
「長さ千丈の大
「島に来た
船の中で男はよく喋った。トメとキミはソメから「男の話に乗って余計なことを喋らぬよう」ときつく言われていたので黙って聞き流していた。
やがて船は竹生島に到着した。
「水に浮かぶ松並木は橋みたいだったけど、水に浮かぶお寺って船みたいだね」
天橋立とは趣を異にする景観に、舩の上でも島に上がってからもトメたちはすっかり心を奪われているようだった。ただソメとフユは一層警戒を強めていた。こんな小島で騒ぎを起こすとは思えないが用心するに越したことはない。
「おフユ殿、油断なきよう頼む」
「わかってる。でもここは島全体が境内みたいなもんだろ。いくら人買いでも罰当たりなことはしないだろ」
島に上がった五人は豪壮絢爛な唐門に圧倒された。この門は観音堂、渡廊とともに豊臣秀頼によって京の豊国廟から移築されたものである。唐門に接する観音堂には本尊である千手千眼観世音菩薩が納められている。西国三十三所巡礼第三十番札所真言宗豊山派巌金山宝厳寺。三つ目の札所にも無事納札を済ませられた。
「ここには観音さんの他に弁財天さんもおられましてなあ。あれが弁天堂どすわ」
「このもちの木は秀頼さんの家来の片桐さんが植えたと言われとります」
「平家物語によると義仲討伐に向かった平通盛は戦勝祈願のために竹生島に詣でたそうどす」
島に上がってからも男はよく喋った。物知り自慢は鼻につくが話が面白いのでさほど不快ではない。
境内を一通り見て回り船着き場に戻ると男は言った。
「さて次は三十一番札所
「いや、残念ながら我らが次に向かうのは長命寺ではない」
「えっ?」
ソメ以外の四人は一斉に首を傾げた。昨晩の話し合いによって札所の回り方は番号順と決まっていた。しかもその回り方を一番支持していたのがソメなのだ。
「ちょっとおソメちゃん、何を言っ……」
困惑するトメの言葉をソメが遮る。
「それゆえ有難いお申し出なれどお断りいたす」
「おや違いますんか。なら次はどこへ行くんどすか」
「せっかく近江に参ったのですから近江にある他の札所を回る所存」
「それ、あたしの意見……」
混乱しっ放しのトメの言葉をソメが遮る。
「船で大津まで行き、十四番
「もしや京のお寺も回りはるんどすか」
「左様。先に洛中五寺を済ませておけば気が楽になる。長命寺へ詣でるのはその後となろう」
「ああ、そうどすか。なるほど、ようわかりました。ほなさいなら」
男は船着き場へ降りていった。手を振ると一艘の船が桟橋に近付いてきた。来た時とは違って船頭の他に二人の男が乗っている。どちらも険のある目付きでトメたちを睨み付けている。
「さ、出しとくなはれ」
男を乗せた船は湖面を遠ざかっていった。
「やっぱり人買いの仲間だったか。油断も隙もありゃしねえ」
吐き捨てるようにフユが言った。
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