旅立ち
三月一日の夕方、茂助の家はいつになく賑やかだった。昼過ぎから集まり始めた五人の娘たちは荷物を確かめたりお喋りしたり鏡を見たりしてまるで落ち着かない。茂助もまた心ここにあらずという様子で何をやっても手に付かなかった。
往来手形には「万一亡くなった場合はその地で埋葬していただきたい。国元に知らせずともよい」と書かれている。もしトメに何かあれば二度と会えぬと考えなくてはならない。そして旅先で不幸に遭うのは決して珍しいことではなかった。
「兄さ、浮かない顔してどうしたの」
茂助の心配をよそにトメは元気そのものだ。トメだけではない。他の四人もはしゃぎこそすれ心配している様子は微塵もない。いい気なものだと茂助は思った。
「いや、おまえがみんなに迷惑をかけるんじゃないかと思ってな。そうなったら兄として申し訳ないだろう」
「逆だよ。あたしがみんなの面倒を見てあげるんだから」
茂助はまじまじとトメを見た。数ヶ月前までは病人にしか見えなかったのに今は見違えるほど元気になっている。それは素直に嬉しかったが同時に茂助はあることわざを思い出した。
(
茂助は不吉な予感を追い払うように頭を振った。
茂助の女房が丹精こめて作った手料理で持て成された五人は早々と寝床に就いた。茂助は眠れなかった。どうにも心配で仕方がないのだ。
ようやくウトウトしかけたころ物音が聞こえてきた。トメたちが旅立ちの支度を始めたのだ。空も明るくなり始めている。茂助は寝床を出て五人が寝ている囲炉裏端へ行った。
「おう、よく似合っているなトメ」
「えへへ、ちょっと照れるな」
そこには旅装束を身にまとった五人がいた。今日は杵築大社に参拝するのでトメは巡礼着ではなく小袖の重ね着に足袋、脚絆という一般的な旅姿だ。それでも茂助は嬉しかった。ずっと家に籠っていた妹の晴れ姿を誇らしく感じた。
「おソメちゃんはまるで侍だね」
「うむ。拙者のお役目はおトメ殿の護衛であるからな」
他の四人も巡礼とはまったく縁のない格好をしている。ソメは黒縁付きの野袴に背割羽織。腰には道中差しを帯びている。武士の旅姿にしか見えない。
「おい、おソメ。その刀は真剣なのか」
「いや竹光でござる。父上が許してくれなかったのでな」
「なんだつまらん。おいらは真剣を二本持っている。切れ味抜群だぞ」
そう言って三寸ほどの小刀と鋸刃をちらつかせるフユは、室内だというのに蓑を両肩に掛け、忍者のような
「おフユ、雨も降らぬに蓑を羽織るのはなんでさ」
「日除けだ。これから暑くなる。蓑の内側はいつも日陰で涼しい。しかも風が通る。雨が降っても慌てずに済むしな」
「雨ならやっぱり合羽でねえか」
キミは身にまとった道中合羽をひらひらさせた。手には三度笠、足には股引と脚絆。しかも髷を結わずソメと同じように総髪を後ろで束ねているだけなのでどうやっても男にしか見えない。
「おキミ殿、それはむしろ男装束なのではないか」
「そうだあ。おめえはべっぴんだけん男の格好をしたほうがええっておっ
「べっぴんなのはおマツちゃんだよ。あたしとお揃いだね」
トメに褒められてマツは恥ずかしそうに顔を伏せた。普段着と変わらぬ小袖に上っ張り。足には足袋と脚絆。トメと同じありふれた旅姿なのだが、マツの装束は気の毒なほどの古着だった。擦り切れた裾や袖、色褪せた文様、くたびれた布地。茂助は哀れを通り越して怒りが込み上げてきた。
(清蔵は鬼か。金回りが良いのなら娘の装束くらい揃えてやればよいものを)
「あんた、おマツさんにおトメさんのお古を貸してあげてもいいかい」
女房も同じ気持ちだったのだろう、そっと茂助に耳打ちしてきた。
「いや、それは要らぬおせっかいだ。ここにいる娘たちは自分で今日の装束を選んだ。あれがあの子たちの一番の晴れ着なんだ。その気持ちを尊重してやろう」
茂助の考えは正しかった。数年前に亡くなったマツの母は死期を悟ると自分の着物を娘のために仕立て直した。今日マツが着ているのはその着物だった。母と一緒に旅をしたい、そう思ってマツはこれを選んだのだ。
「じゃあ行ってくるね」
簡単な朝食を済ませて五人は戸口を出た。茂助は最後の念を押した。旅の間は絶対に観音像の力を使うな。何かあったら無理をするな。三十三ヶ所全てを回る必要はない、などなど。
「兄さ、それはもう何度も聞いたよ」
「茂助殿、大切な妹御は拙者が責任を持ってお守りいたす」
「心配すんな茂助さん。ふた月なんてあっという間だ」
「うまいものをたくさん食ってくるけんね」
「行ってまいります」
「みなさん、トメのことをよろしくお願いいたします。道中お気をつけて」
「これから兄さは自分のことだけを考えて。あたしはこうして旅に出られただけですごく幸せなんだから」
手を振るトメに女房が火打石を打った。火花に見送られて五人は歩き出す。茂助は寂しさを感じながら無言で見送った。
「まずは杵築大社だね」
最初の目的地二十八番札所相成寺へは山陰街道を通っていく。山陰街道は
「思ったよりでかい。これが大社様か」
フユとマツは初めての参拝なので緊張気味だ。他の三人は落ち着いてはいるものの居心地が悪い。視線を感じるのだ。
「ねえおソメちゃん、みんなあたしたちを見ているような気がしない?」
「はて、そう言われれば確かにそうであるな」
「こんな成りでもおらがべっぴんだとわかるみてえだな」
それはないとトメとソメは思った。キミはどこから見ても男にしか見えない。
「なんだか馬鹿にされているような気分だ」
フユも視線を感じているようだ。参拝客の中には見ているだけでなく含み笑いしている者もいる。五人は手早く参拝を済ませて最初の宿泊地宍道宿を目指すことにした。
「よういらっしゃったのう」
「おばやん、お世話になあ」
幸運なことに宍道にはキミの親類が住んでいた。事前に話はついていたので快く迎え入れてくれた。
「たいした持て成しはできんけど、たんと召し上がってごしない」
漁師を
「若い娘が西国巡礼とはご立派なことですな」
主人は褒めているようだが言い方に含みがある。しかも蔑むような目付きで五人を見ている。気になったソメが尋ねた。
「ご亭主、何か面白ことでもおありか」
「これは失礼。皆様の装束があまりにも珍奇なもので。巡礼者とは思えぬ方々がおられるようですな」
ソメは納得した。杵築大社で感じた居心地の悪さの原因はこれだったのだ。バラバラな衣装の五人がまとまって歩いている姿が面白くて仕方なかったのだろう。
「巡礼に装束は関係ないでしょ。大切なのは観音様への信心なんだから」
「もっともですな、ははは」
トメの咎め立てを笑いで済まそうとする主人。トメはまだ言い足りなそうだったがソメが止めた。これ以上話しても不愉快になるだけだし、こちらは世話になっている身なのだ。自重するのが一番である。
「おいらは別にどうだっていい。うまいものが食えれば」
「おフユの言う通りだ」
フユとキミは食べるのに夢中で主人の言葉など聞こえていないようだった。ただマツだけは身を強張らせて無言でうつむいていた。
翌日、トメは巡礼装束に着替えた。全身を白で覆われると心まで白く染められる感じがする。トメは生まれ変わったような気分で歩き始めた。二日目の目的地は松江宿。宍道湖沿いに歩いて四里ほどの距離だ。ここは雲州松平家十八万六千石のお膝元である。城下町には婿養子に行ったソメの兄が住んでいるのでそこに泊めてもらう予定だ。
「うわー賑やかだね」
城下町は杵築大社とは違う風景が広がっていた。長く続く武家屋敷の土塀。立派な商家の土蔵。広い大通り。
なにより行き交う人々の姿が村とは全然違う。ほとんどが町人や武士だ。洗練された着物に身を包み、女の髪には洒落た簪や柘植の櫛。遊び人風の着流し姿も糊を効かせて小奇麗だ。気丈なトメも少々気後れしてしまった。
「なんだか場違いな所へ来ちゃったみたい」
「そんなことはない。城下の者も我らも同じ出雲の民だ」
ソメは何度か城下を訪れているのでさして気にしていない。フユとキミも物怖じしない性格なので平然としている。しかしマツはまだ十代前半の娘。自分の姿を恥じるようにうつむいて歩いていた。
「おう、よく来た」
ソメの兄は温かく迎えてくれた。すでに一男一女の父である。
「兄上、世話を掛けるがよろしくお頼み申す」
「ソメ、もう少し娘らしい言葉で話したらどうだ。そんなだから婿が見付からぬのだぞ」
「今更どうしようもありませぬ。婿はもう諦めております」
「やれやれ長く続いた我が家系も父の代で終わりだな」
「それについては父上も諦めておられます。兄上も諦めてくだされ」
武家には武家の悩みがあるものだ。当事者には切実な問題なのだろうが、
「こちらが西国巡礼の方々ですか。どうぞこちらへ」
奥方の言葉は丁寧だが明らかに上から目線だ。宍道宿の主人と同じ冷たさを感じる。それでも世話になる以上文句は言えない。五人は素直に板間へ上がった。
「どうだ松江のご城下は。村とは全然違うだろう」
夕食の席では話が弾んだ。話し好きなトメとキミは口々に感想を言い合った。
「みんな奇麗で驚いたよ。庄屋さんが何人もいるみたい」
「おらたちとは住む世界が違うみてえだ」
「あんまり奇麗なんでこっちが恥ずかしくなっちゃった」
「おらももっとええ装束で来ればよかった」
「ほほほ。松江のご城下ぐらいでそんな有り様では困りますね」
奥方が口を挟んできた。意地の悪そうな眼付きをしている。トメもキミも突然のことで口を閉ざしてしまった。
「あなたたち、都には行かれるのですか」
「洛中にも札所は五寺あるので行くつもりですけど」
「おやおや、そんな成りで都大路を歩くつもりですか。京の人々の
マツが体を震わせた。昨日もそうだったが今日もほとんど食べていない。そして一言も口を利いていない。
「これ、やめないか」
「あら、私は本当のことを話しただけですよ。それではごゆっくり」
主人に諫められても悪びれる様子もなく奥方はその場を離れた。
「すまぬな。婿養子ゆえ、あまりきつくも言えぬのだ」
「いえ、兄上が謝る必要はありませぬ。むしろ有難い御忠告に感謝せねば」
そう答えたソメではあったが固く握りしめた両こぶしは震えていた。トメもまた珍しく何か考えているようだった。
翌朝、ようやく空が白み始めた頃、トメは寝床から這い出した。
「おソメちゃん、起きて」
「うーん、おトメ殿か。いかがされた」
「話があるの。みんなを起こして」
マツはすぐ起きた。キミとフユは熟睡していたがトメが叩き起こした。
「何だ、気持よく寝ていたのに。今日の出発は遅いんだろう。もう少し寝かせてくれ」
「おフユちゃん、ごめん。でも大切な話だから一刻も早く伝えたくて。あたし、都に行くのはやめようと思うんだ」
理由を訊く者は誰もいなかった。旅に出てから自分たちが受けてきた扱いを考えれば、トメがそんな決断をするのも致し方ない。だからと言って賛成できるわけでもない。
「昨日のおばさんの言葉を気にしているのか。あんなのは無視すればいい」
「そうだあ。おら、伊勢の次に都見物を楽しみにしちょるんよ」
「おトメ殿、被褐懐玉をお忘れか。大事なのは外見ではなく中身であろう」
「うん、三人の気持ちはよくわかってる。でもね、あたし兄さに言われたんだ。無理はするなって。三十三ヶ所全部回る必要はないって」
「しかしそれでは満願にならぬではないか。おトメ殿はそれでもよいのか」
「いいんだ。嫌な思いをしてまで満願成就に至ろうとは思わないもん。ねえみんな、気が付かなかった? おマツちゃんはこの旅が始まってから一度も笑っていないんだよ」
ソメとフユとキミは一斉にマツを見た。夜明け前の薄明りの中にマツの顔が青白く浮かんでいる。
「兄さはこうも言っていた。傷ついてまで進む必要はないって。傷つけじゃいけないのは体だけじゃない。心も傷つけちゃいけないんだよ。あたしはこの旅を楽しい思い出にしたい。みんなで笑いながら旅したいんだ。だから都には行かない」
トメの言葉は三人の考えを変えるのに十分だった。そしてこれまでマツの気持ちを少しも考えなかったことを恥ずかしく感じた。
「どうやら一番大切なことを見落としていたようだ。我ながら面目ない」
「都の奴らの高慢な顔を見ないで済むなら万々歳だ」
「余った時間で伊勢をたっぷり見られっしね」
ようやく三人の賛同を得られたトメはマツの両手を握った。
「おマツちゃん、これからはなるべく小さな宿場で泊まろう。貧しくても親切な農家で泊まろう。見付からなければお寺のお堂に泊めてもらおう。そうすればおマツちゃんも気が楽でしょう」
マツはにっこりと笑った。旅に出て初めて見せた笑顔はこれまでになく明るかった。
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