新右衛門の娘ソメ

 朝から雨だった。茂助は田へ行かず囲炉裏端で草鞋を編んでいた。トメは縁側に座って軒から落ちる雨だれをぼんやり眺めている。元気がない。子らが遊んでくれとせがんでも腰を上げようとしない。女房の手伝いでもしろと茂助が言っても生返事をするだけだ。茂助は手を休めるとしょぼくれたままのトメに目を遣った。


(一難去ってまた一難か)


 数日前、茂助から西国巡礼の許可を取り付けたトメは大喜びだった。だがそれですぐ旅立てるわけではなかった。茂助から新たな条件を追加されたからだ。


「旅の間は観音像の力は使わない事。何か起きた場合は途中でも帰郷する事。そしてこれは言うまでもないが一人ではなく誰かに同行してもらう事。この三つは必ず守ってくれ」

「最初の二つはなんとかなりそうだけど、同行者かあ……」


 思案するトメを見て茂助は唖然となった。


「おまえ、まさか一人で行くつもりだったのか」

「一人で行くつもりだったんだよ。だってあたしと一緒にふた月も付き合ってくれる人なんているわけないもん」


 確かにその通りだった。観音菩薩の力を授かってからトメはほとんど家の中で暮らしてきた。村人は頻繁にやって来るので顔見知りは多いが、友と呼べるほど親しく付き合っている人物は一人もいない。

 しかもトメがひ弱であることは誰もが知っている。たったひと月で手に入れた健康など過酷な巡礼の旅ですぐ使いきってしまうに違いない、そう思われて当然なのだ。


「だからって一人旅など許せるわけがない。おれのような中年男でさえ同行者なしの旅には様々な危険が付きまとうんだ。これまでずっと家に引きこもり、体も弱く、世間知らずな女のおまえがたった一人でふた月も旅ができると本気で思っているのか。どうしても旅がしたいのなら最低でも一人の同行者を見付け出すんだな」

「うーん、誰に頼もう」


 さんざん悩んだ挙句トメが選んだのは新右衛門の娘、ソメだ。新右衛門は武士ではあるが郷士なので俸禄はない。ご先祖様は松江藩の士席医師を務めていたが今はすっかり落ちぶれてしまい、村唯一の医者として薬草を採取、調合する日々である。幼い茂助が麻疹に罹患した時、手厚く診療してくれたのが新右衛門だった。その娘がソメである。


「おソメちゃんなら引き受けてくれるかもしれない」

「おソメか。あの子なら安心だな」


 ソメは今年二十二歳。年増と呼ばれても仕方のない歳だ。そしてトメと同じく行き遅れている。

 ソメのたった一人の兄弟である兄は養子に出してしまったので、嫁に出すのではなく入り婿を望んでいる。だが武士とは言っても俸禄はなく、貧しい村人相手の赤貧医者の家に来てくれる男などそうそういるものではない。

 しかもソメは女だてらに剣術にのめり込み毎日木刀を振っている。剣の腕前はなかなかのものだが、炊事、掃除、洗濯などの家事はからきし駄目だ。さしもの杵築大社の神通力もソメには効かないようだ。


「おソメちゃんはよく家に来てくれるし気も合うからね。仲良く旅ができそう」


 ソメが茂助の家へちょくちょく顔を出すのは理由がある。具合の悪くなった村人はまず新右衛門を訪ねる。それでも良くならない時はその村人をソメが連れてくるのだ。

 もちろん無条件で誰でも連れてくるわけではない。どうしても治してあげたいとソメが思った村人だけだ。そしてソメが連れてきた村人に対しては治療効果が非常に高かった。

 トメの治療にはムラがある。初対面の相手や悪感情を抱いてしまう相手には治療の効果はほとんど現れない。しかしソメが連れてきた場合はどんな相手であっても良い結果が得られた。それは取りも直さずトメがソメを信頼している証でもある。ソメが連れてきた相手なら間違いはない、トメは無意識でそう判断しているのだ。トメの同行者としてこれほど打って付けの人物はいないだろう。


「そうと決まればさっそく行ってくるよ」


 トメは意気揚々と新右衛門の家へ向かった。ほどなくして帰ってきたトメはすっかり意気消沈していた。結果は訊かずともわかった。


「おソメがそこまでおまえを嫌っているとはな。人とはわからんものだ」

「違うよ。同行することを断られたんじゃない。旅に出ることを反対されたんだ」


 茂助は納得した。二十年以上ほとんど外出せず家に籠っていたのだ。そんな娘が三百五十里の旅などできるはずがない、そう考えるのは当然だ。


「で、どうする。諦めるのか」

「ううん。もう一度頼んでみる」


 二日後、トメは再び新右衛門の家へ行った。間もなく春の彼岸だったのでぼた餅を持たせた。欠けたり割れたりした屑米で作った粗末なぼた餅ではあったが、茂助が用意できる精一杯の手土産だった。

 しかし結果は同じだった。最初よりさらに萎れた様子でトメは帰ってきた。ぼた餅は受け取りを拒否されたので自分で全部食べたらしい。それが昨日のことだ。


「おソメちゃんの兄さに頼んでみようかなあ」

「そっちのほうが難しいだろ。下っ端とはいえ城勤めなんだから」


 年の離れたソメの兄は妹とは逆で剣術はからきし駄目だが読み書き算術は優れていた。天下泰平の世で必要とされるのは武力ではなく知力である。その才が認められ役方の藩士の家へ婿養子として迎えられた。今は松江の城下に住んでいる。


「じゃあ新右衛門さんに頼もうかなあ」


 さらに無理な願望を口にしながらトメは縁側で雨を眺めている。茂助の心中は複雑だった。旅の許可を出したとはいえ本当は行かせたくないのだ。このまま諦めてくれればいい、それが紛れもない茂助の本音だ。

 だがこれほどまでに望んでいるのなら行かせてやりたいという気持ちもあった。それはある理由によるものなのだが、茂助と亡くなった両親以外は誰も知らない。もしソメがそれを知ったとしたら……。


「トメ、おれがおソメに頼んでみようか」

「本当!」

「ああ。引き受けてくれるかわからんが駄目元でやってみる」

「さすがあたしの兄さ。頼りにしているよ」


 トメは顔を輝かせて縁側を離れると茂助の背中に回って肩を揉み始めた。現金なやつだと茂助は思った。


 翌日、茂助は新右衛門の家を訪ねた。出迎えてくれたソメの開口一番は、

「茂助殿、貴殿の為されよう、正気の沙汰とは思えぬ」

 である。


 その後、戸口に立たされたまま茂助はソメの小言を延々と聞かされた。少し健康を取り戻したくらいで旅に出すなど笑止千万。西国巡礼の過酷さを御存じないのか。たった一人の妹を死地に向かわせるに等しい。兄として言語道断なる振る舞い。早急に旅の許可を取り消されよなどなど。


(そこまでトメを案じてくれるとは。有難いことだ)


 茂助は嬉しかった。ソメが頑強に反対するのはトメを思ってのことだ。恐らく兄の自分よりトメへの情愛は深いのだろう。いつ終わるとも知れぬソメの説教を茂助は感謝とともに受け取っていた。


「ソメ、それくらいにして茂助さんを中に入れてやりなさい」

「わかりました父上」


 まだ言い足りない様子で家の中へ戻るソメ。茂助も中へ入ると新右衛門は板間で薬研やげんを使っていた。還暦間近とあって艶のない総髪には白髪が多くなっている。


「すまぬな、妻は所用で家を空けておってな。これソメ、何をしている。お茶をお出しなさい」

「わかりました父上」


 ソメが奥へ引っ込む。茂助は板間に腰を下ろした。新右衛門は薬研の手を止めようとしない。


「至らぬ娘で申し訳ない。年取ってからできた子ゆえ少し甘やかしすぎたようだ」

「至らぬ娘なのはこちらも同じです。いきなり無理難題を持ち掛けられてさぞやご迷惑のことでしょう。しかし他に頼める者がおらぬものですから」

「そんな心配は無用だ。おトメが普通の娘ならソメも喜んで申し入れを受けただろうからな」

「では新右衛門様はトメの西国巡礼に反対ではないのですね」

「反対も賛成もない。わしは茂助さんの判断に口を出す立場ではないのだから。おトメがそれを望み茂助さんが許したのならそのようにすればよい」

「父上、口ではそんなことを言っておきながら本音は反対なのでしょう」


 ソメが盆に湯呑をのせて運んできた。茂助は一口いただくと居住まいを正して二人に向き合った。


「実はわたしも本当は反対なのです。しかしある理由でどうしてもトメを巡礼に行かせてやりたいのです」

「ある理由?」


 新右衛門の手が止まった。ソメも静かに言葉を待っている。茂助は少しためらったが意を決したように口を開いた。


「トメは三十三歳までしか生きられないのです。それが観音菩薩の役目を負わされた者の宿命なのです」


 話は茂助が麻疹を病んだ時にさかのぼる。茂助の回復を願う両親に観音像が与えた言葉――ならば代受苦の役目を授けよう――それには続きがあったのだ。

 ――この役目を授かった者は年齢に対応する観音菩薩の力を宿し続ける。宿る観音菩薩の姿は一年毎に替わり、三十三歳に対応する観音菩薩の姿を宿し終えた時、その者の命は絶たれる。


「わたしには聞こえていないと両親は思っていたようです。しかし熱にうなされながらも観音様の声はしっかりと耳に届いていました。観音菩薩の力を宿した者は、それが何歳から始まったかにかかわらず三十四歳の正月を迎えることはできないのです。トメは今二十八歳。どんなに養生を心掛けても癒しの力を使わずとも、あと五年ほどで死ぬ運命なのです」

「左様であったか。よくぞ話してくだされた」


 新右衛門は茂助に寄り添うとその背中を優しく撫でた。このような事実を誰にも話さず、ずっと自分一人の胸の中に秘め続けていたのだ。茂助の苦悩がどれほど深かったか、新右衛門には想像もできなかった。


「おトメ殿が、あと五年の命……」


 気丈なソメも少し動転していた。茂助に詰め寄り問いを浴びせる。


「おトメ殿は知っているのですか」

「いや、教えてはいないので知らぬはずだ。しかし自分の体のこと、気付いていてもおかしくはない」

「余命が五年しかない、それが旅を許可した理由なのですか」

「そういうことになる、かな」

「それはおかしい。むしろ逆ではないのですか」


 ソメは語気を強め、畳みかけるように茂助に迫った。


「残り少ない命だからこそ大切に手元に置いておくべきではないのですか。少しでも長く生きられるように努力すべきではないのですか。旅に出せばおトメ殿の命は確実に縮みます。茂助殿はそれでもよいのですか。悲しくはないのですか。兄としてそれが最善だと思っているのですか」

「ソメ、言いすぎだ」

「……はい、父上」


 新右衛門に諫められて口を閉ざすソメ。茂助にはソメの気持ちが痛いほどわかった。茂助とて同じ思いなのだから。


「そうだな、おソメの言う通りだ。トメの肉親ならば旅の許可など出すべきではない、それは正しい。だがおれはトメが不憫でならないのだ。これまでトメは何ひとつわがままを言わなかった。自分の力を全て他人のために使う、ずっとそうやって生きてきた。そんなトメがわがままを言ったのだ。自分の力を自分のために使いたいと言ったのだ。生涯で初めての、そして最後のトメのわがまま、トメの願いだ。ならば叶えてやるのが肉親としての兄としての務めではないか。おれも本当は行ってほしくない。トメには一日でも長く生きてほしい。だがそれはおれのわがままだ。おれは自分のわがままよりトメのわがままを優先したいのだ。おソメ、頼む。トメの巡礼を認めてやってくれ。一緒に付いていってやってくれ。トメの願いを叶えてやってくれ」

「自分のわがままよりトメのわがまま……」


 ソメの心に変化が起きた。トメの旅を反対する心、それは自分のわがままに過ぎないのではないか、そう思い始めたのだ。正しいのは自分の心を押し通すことではない。トメの心を大切にすることだ。ならば自分のすべきことは……。


「茂助殿。よくぞ拙者の目を開かせてくれました。旅の同行の申し出、快く引き受けましょう。父上も異存はありませんね」

「元よりそのつもりだ。おまえなぞとっくに嫁に行ってここにはいないはずの娘なのだからな。二度と戻って来なくても構わんぞ」

「いいえ、必ず戻って来ます。おトメ殿を連れて」

「おトメではなく婿を連れて戻って来い」

「それは無理です」


 二人の会話を聞きながら茂助はほっと息をついた。朗報を聞いて大喜びするトメの顔を思い浮かべながら茂助はお茶の残りを飲み干した。








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