トメの願い

 春彼岸が近付いてきた。それが終わればいよいよ苗代作りが始まる。今はそれに向けて田の土作りの真っ最中だ。茂助も最近は田んぼに出ることが多くなった。


あにさ、弁当持って来たよ」


 昼飯を田に運ぶのは女房の役目だ。所帯を持ってからずっとそうだった。しかし今日は違う。持って来てくれたのは妹のトメだ。


「ああ、ごくろうさん」


 茂助は田の畦に腰を下ろして包みを開けた。蕎麦餅と野菜の煮しめだ。少し多いような気がする。


「あたしも一緒に食べようっと」


 横に座ったトメが蕎麦餅を食べ始めた。どうやら最初からそのつもりで二人分用意してきたようだ。うまそうに食べる妹の横顔は少し日に焼けて色つやも良い。


「おまえ、ずいぶん元気になったな」

「そうでしょ。これなら旅に出ても大丈夫だよね」


 明るいトメの笑顔とは裏腹に茂助の表情は冴えない。あんな約束をしてしまったことを少し後悔し始めていた。


 小正月のあの日、トメからいきなり「霊場を回りたい」と言われた時、茂助は俄かには信じられなかった。トメが望んでいるのは西国三十三ヶ所に点在する札所寺院を回る西国巡礼だったからだ。


「巡礼の旅か。そう言えばおまえはこの村から出たことは一度もなかったな」


 茂助はトメの気持ちがわからないではなかった。西国巡礼の歴史は古い。その始まりは平城京の時代にさかのぼる。ある徳の高い上人が三十三の観音霊場を巡って滅罪の功徳を受ければ極楽往生できると説いたのだ。三十三という数字は観世音菩薩が衆生を救うために三十三の姿に変化することに由来している。


 西国巡礼は一旦廃れたが平安京の終わりごろから広まり始めた。またこれを模範として坂東三十三観音巡礼や秩父三十四所巡礼が制定され、西国巡礼と合わせて日本百観音巡礼と呼ばれるようになった。

 観音菩薩としての役目を担わされ、誰よりも深く観音様を信仰するトメが西国巡礼を欲するのは当然と言える。だが、それでも茂助は反対せずにはいられなかった。


「それがどんなに長い旅かわかっているのか。体の弱いおまえにできるはずがない」


 西国三十三所観音巡礼は畿内の五カ国を中心にして、丹波、丹後、若狭、近江、美濃、紀伊、播磨を巡る約二百五十里の旅だ。四国八十八ヶ所巡礼の三百五十里よりは短いが、出発地が出雲であることを考えればそれに匹敵する長さとなる。一日十里歩いてもひと月以上かかってしまう。女の足ならふた月かかってもおかしくはない。体の弱いトメならばさらに長い旅になるだろう。最後まで歩き通せるとはとても思えない。


「全部回れなくてもいい。とにかく観音様にお礼がしたいんだ。今まで生かしてくれてありがとうって。そして観音様に褒めてほしいんだ。今までよく頑張ったねって」


 礼など言う必要はないと茂助は思った。むしろ文句を言ってもいいくらいだ。自分の人生を台無しにされたのだから。


「全て回らないにしても長旅であることには変わりない。今のおまえには無理だ」

「そうだね、無理かもしれない。でも行きたいんだ。こんな気持ちのまま一生を終わりたくないんだよ」

「旅のお許しが出るとは思えんな。百姓、それも米農家には特に厳しい。旅に出て農事が疎かになり収穫が減っては困るからな」

「あたしは女だから大丈夫だよ。そもそもこれまで手伝いなんてしたことなかったんだし」

「路銀はどうする。うちにはそんな余裕はないぞ」

「巡礼の旅は無一文で行うもんだ。銭を持っていなければ失くしたり盗まれる心配もない」

「うーむ、いや、だがなあ」

「兄さ、頼むよ。トメの一生のお願いだ。叶えてくれ」


 茂助の心は揺れた。治療に関すること以外は決してわがままを言わなかったトメが、これほど熱心に自我を押し通そうとするのは初めてだった。


(それほどまでに行きたいのか)


 これまでトメは自分の命を他人のために使ってきた。自分の命を削って他人の命を救ってきたのだ。しかし今回は違う。自分の命を自分のために使いたいと言っている。たとえ寿命を縮めることになっても旅をしたいと言うのなら、それを叶えてやるべきではないのか。茂助はついに折れた。


「わかった。行きたければ行くがいい。だが今のままでは駄目だ」

「今のままでは? 何をどうすれば駄目でなくなるの」

「もっと体を強くしろ。今日から観音像の力を使うことを禁ずる。どんなに人に頼まれても断れ。それからもっと食って肥えろ。外に出て日を浴びて動き回れ。そして最後に旅に耐えうる体になったか吟味する。おれと一緒に杵築の大社へ参拝しろ。その程度の旅ができなければ西国巡礼など夢のまた夢だからな」

「ありがとう兄さ。大丈夫、きっとやり遂げてみせるよ」


 これほど明るく嬉しそうに笑うトメを茂助は見たことがなかった。その笑顔は茂助を喜ばせたが、心の中ではまったく反対のことを考えていた。これまでトメは頼まれれば必ず観音像を使って人々を癒してきた。二十年以上も続けてきた習性をいきなり断ってしまうことなどできるはずがない。

 しかもトメは幼い頃から食が細く体力がない。たとえ観音像を使わず自らの命を削らなかったとしても、ひ弱な体質は変えられない。肥えることも体を丈夫にすることも無理だと悟り、旅に出ることを自ら諦めてくれないものか、そんなふうに考えていたのだ。

 だが茂助の思惑は完全に外れてしまった。トメはその日から一切観音像を使わなくなった。


「ごめんね、旅に出たいから」


 村人たちは困惑したが理由を話せばすぐ納得してくれた。それに村人たちもトメが自分の命を削って治療していることはわかっていたので、無理強いする者はひとりもいなかった。


「おトメさん、またおかわりかね」

「育ち盛りなので、ふふ」


 茂助の女房も呆れるほどトメはよく食べるようになった。食欲があるからではなく無理やり口へ押し込んでいるだけなのは一目瞭然であったが、腹に入れれば入れた分だけ肥えるのが人の体だ。

 トメの顔も体も次第にふっくらとし始めた。間もなく三十路の中年増ちゅうどしまらしい色つやがほんのり漂ってくる。これなら嫁の貰い手が見付かるかもしれませんねと女房に言われ、茂助は満更でもなさそうに微笑した。


「おトメえ、遊んでくれ」

「いいよ。何して遊ぶ」

「鬼ごっこ、かくれんぼ、竹馬、どれにしようかな」

「全部遊んであげるよ」

「わあい」


 外に出て自分の子らと一緒に遊ぶトメを見ていると、これこそがトメの本来の姿なのだと茂助は思わずにはいられなかった。もし観音菩薩としての役目を負わされていなければ、相手にしているのは自分の子ではなくトメ自身の子であったはずだ。


「これだけ元気になったのだ。今からでも遅くはない。良い縁談話がないか探してみるか」


 最近の茂助はそんなことばかり考えている。しかし当のトメ本人は今さら嫁に行くことなどまったく考えていないようだった。口にする言葉といえば、

「あたし元気になったよね」

「これなら杵築の大社くらい簡単に行けるよ」

「巡礼の旅、楽しみだなあ」

 そんなことばかりだ。


 そして今日も茂助と一緒に弁当の蕎麦餅を食べながら話すことといえば、やはり西国巡礼に関することばかりである。


「兄さ、最後の吟味はいつしてくれるの」


 ここ数日、同じことを何度も訊いてくる。早く旅の許可を貰いたいのだ。トメの足で三十三ヶ所全て回ろうと思えばふた月以上かかるだろう。そして梅雨の季節に旅することはできるなら避けたい。となれば遅くとも三月初めには旅立たねばならない。それはわかっていても茂助はまだ迷っていた。旅を諦めてくれることを期待していたのだ。


「おまえ、本当に元気になったな。小正月の頃とは別人だ」

「観音様にお願いしたからね。どこまでも歩ける体にしてくださいって」

「それだけ元気なら嫁にだって行ける。旅に出るのはやめて嫁に行ったらどうだ」


 途端にトメの表情が不機嫌になった。茂助の女房にも同じことを何度も言われているのだ。


「兄さまでそんなことを言うのか。今のあたしに必要なのは嫁ぎ先じゃなく旅先なんだ。ひと月前に約束したよね。あたしはその約束をきちんと守った。だから兄さも約束を守って早く最後の吟味をして」


 もはや茂助に言い返す言葉はなかった。結局次の寅の日に杵築大社へ行く約束をさせられてしまった。寅の日にしたのは理由がある。「虎は一日で千里を往復する」ということわざにあやかって、無事に大社を往復できるよう縁起を担いだのだ。


「では行ってくる」

「二人とも気を付けてね」

「心配要らないよ。兄さはこのあたしが責任を持って家に帰すから」


 トメは大張り切りだ。茂助も女房も心配はしていなかった。それくらい今のトメは健康を取り戻していた。


「兄さ、大社様に行くのは何度目だ」

「これで五回目になるかな。最後に行ったのはもうだいぶ前だ」

「そう言えば嫁が見付かった途端に行かなくなったよね。大社様の御利益は大したもんだ」


 杵築大社のご祭神は良縁祈願の神として有名な大国主命おおくにぬしのみことだ。茂助だけでなく日本全国から良縁を求めて人が集まってくる。


「今のおまえなら一度お参りするだけで嫁ぎ先が見付かると思うぞ」

「あたしが求める縁は婿ではなく旅の縁だよ。人様のご恩にすがらねば巡礼の旅などできないからね」


 二人はお喋りを続けながら北へ向かって歩く。神戸川を渡り新内藤川を越えれば杵築大社はもう目の前だ。明け六つに村を出て昼前には到着してしまった。


「これが大社様かあ」


 初めて見る杵築大社はトメを圧倒した。勢溜せいだまりの大鳥居をくぐるとそこには別世界が広がっている。何度も来ている茂助でさえ心が引き締まる思いだ。

 二人は無言で松の参道を進んだ。手水舎で手と口を清め、銅鳥居をくぐり、拝殿で参拝する。八雲山を背景にして鎮座する本殿は六十年前に再建されたばかりで真新しい。トメも茂助も息を吐くのさえ憚られるような心持ちがしてずっと口を閉ざしていた。元来た参道を引き返し鳥居の外へ出て、ようやく二人は人心地つくことができた。


「どうだった、杵築の大社様は」

「心が清められたような気分だよ。疲れも吹き飛んじゃった。こんな兄さに嫁を恵んでくれた神様だけのことはあるね」

「で、何をお願いしたんだ」

「それは訊くまでもないでしょ。西国巡礼の無事を願う以外に何を願えって言うの」


「嫁ぎ先が見付かりますように」という返事を熱望していた茂助は期待を裏切られて苦笑いした。トメの頭の中は巡礼の旅でいっぱいになっているようだ。大社の神様さえ変えられぬトメの心を茂助如きが変えられるはずがない。諦めて旅に出すしかないようだ。


「ねえ、それで最後の吟味の結果はどうなの。これだけ歩いても全然疲れていないし、当然及第だよね」

「いや吟味はまだ半分しか終わっていない。無事に家へ帰り着くまで結果は言い渡せぬ」

「えー。じゃあ早く帰ろう」


 トメは早足で歩き出した。続いて歩き出す茂助。口ではあんな返答をしたが茂助の心はすでに決まっていた。













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