ハルと温もりと恩返し
木原梨花
第1話
大切な人に出会わなければ、孤独にならずに済んだのに――そんな言葉を俺は聞いたことがあった。それは一理ある。人と人とが出会うとき、そこには感情が沸き起こる。楽しい、嬉しい、つまらない、ムカつく。いい気持ちにも悪い気持ちにもなるけれど、どっちにしたって存在するのは何らかの感情だ。感情が動くとき、人は生きている感覚に酔いしれる。
でも、ひとつだけ。寂しい、という感情だけは、ダメだ。よくない。楽しいとか嬉しいとかは、目の前がパッと明るくなる。つまらないとかムカつくとかは、怒りという名のエネルギーになって身体を動かす。だけど寂しいと思うことは、下を向かせ、歩みを止めて、その場から動けなくする。だからよくない。寂しいという感情は、持つべきじゃない。
でも、だ。ひとつだけ腑に落ちないことがある。別に大切な人に出会ったりしなくても、人は孤独になれるのだ。人の群の中に飛び込むと、それだけのことで自分が独りだと思い知らされる。そしてどんどん惨めになって、辛くなって――寂しくなる。視線が下がる。足が止まる。そういう経緯を経て、大学に入ってから三年目にして俺は表情筋がすっかり衰えてしまった。今はもう、どんな風に笑っていたかも思い出せない。
別に何かがあったわけじゃない。誰かに悪口を言われたり、仲間ハズレにされたり、そういうのはない。ただ、なんとなく――本当になんとなく、俺は人の輪に入れなかったのだ。周りのノリについていけなくて、勝手に独りになったのだ。
だから寂しくて足が止まるのも自業自得。だからこそ、キツかった。誰かのせいにしてしまえば、もっと気楽でいられたのに。
俺はずっと足元を見ていた。だからこそ気づいたのだ。
「……ん?」
花壇の影に、グレーの毛玉が転がっている。
「毛玉……いや、違うな?」
それはカンでしかなかった。けど、なんとなく違和感があったのだ。確かに毛玉だ。もふもふしている。でもよく見るとそのもふもふは、手と足と尻尾が生えている。
「猫じゃん、これ」
近づいて、上からその姿を覗き込んで、わかった。それはグレーの長い毛をした猫だった。遠くから見たらふさふさだったけど実際にはガビガビでところどころすすけていたりして、痩せてガリガリでボロボロで、それでも呼吸は弱々しくも続いていた。
放っておけば、きっとこの子は死ぬだろう。それが悲しかったわけではない。どちらかというと、俺は自然の中で朽ちていくものはそのまま手放すべきだと思うタイプだ。たとえ小さな命が失われてしまうのだとしても、人間の気まぐれで弄ぶようなことをするべきではない。だからこれまでもこういう時は見ないフリをして立ち去っていた。
……春だ。夜桜が美しく、街灯に照らされて淡く輝いている。他の季節の夜よりも、この季節は視界が明るい。さっきまでは気づかなかった。足元ばかり見ていたからだ。空がどれだけ明るくなっても、アスファルトの明度は変わらない。でも、この猫がここにいたから、なんとなく顔を上げてしまった。
寂しい、と。衝動的に思ったのは、その瞬間だった。腹の底に鉛が押し込められてしまったように重くなり、吐き気が込み上げてくる。指先が震えて、心臓が締め付けられて、呼吸が浅くなって――その猫を、抱き上げた。
「なあ……お前さ」
持ち上げてみると、猫の毛は想像以上にぺしゃんこでぐしゃぐしゃだった。
それでも、温かかった。もう離したくないと思うくらい。
「俺の家に、来てよ……いいだろ?」
腕の中で小さな命は、今にも消えそうな声でなぁんと答えた。
***
朝の日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。しっかりと寝たはずなのに、身体が痛い。寝ている間に腕が変な方向に曲がったせいだった。寝相が悪いわけでもないのに、なんで腕を伸ばして寝ていたんだろう。まるで腕枕でもしたみたいに――
「……ん?」
と、俺は不意に自分の部屋の異変に気づいた。一人暮らしで、趣味の本や画材ばかり買い込んで、正直あまり整頓された空間ではない。一昨日描いて、でも気に入らなくて放り投げた画用紙が床に何枚か散らばっていて、迂闊に足を下ろすと滑って転んでしまう。俺は今月に入ってから、既に二度ほど腰を打っていた。
そんな部屋だから、ちょっと物が増えたくらいじゃ変化には気づけない。まあこんなものかな、みたいな。その程度で終わってしまう。だけど今日は、明らかな異変がそこにあった。
人がいる。
「……あんた、誰?」
声をかけると、俺が目を覚ましたのに気づいたのか、その人は振り返った。髪は短い。緩めの天然パーマで、色は濃いめのグレー。くりくりした目に綺麗な肌で、人懐こい猫みたいに笑って俺のことを見ていた。たぶん……男、だと思う。
その人は目を細めて笑って、ちょこちょこと俺のほうに近づいてきた。思ったよりも背が高い。でもちゃんと食べてるのかってくらい細くて、爪が少し長かった。
「驚かせてごめんね。でも、嬉しかったからちゃんと気持ちを伝えておきたくて」
「……いや、だから、誰?」
「んー、わかんない? ほら、昨日の夜、俺のことを連れて帰ってくれたでしょ?」
ニコニコ笑いながらそう言われて、俺はようやく気づいた。俺が昨日、公園で拾った猫がどこにもいないことに。
「もしかして、お前……猫?」
「うん。正解だにゃあ」
彼は猫っぽいポーズをとって、小首を傾げてにゃあと鳴く。身長が俺よりも高くて、ひょろひょろだけど、どちらかというと綺麗系イケメンで。そんな彼がにゃあにゃあ言っていたとしても全然可愛くない――どころか、ちょっと鬱陶しくすらある。
けど、それどころじゃない。
「いや、猫が人間になるわけないだろ!? 鶴の恩返しじゃあるまいし」
「まあ確かに鶴じゃないけど、結構あるんだよ? 今は鶴が恩返しすることは減っちゃったけど、犬とか猿とか、あと変わったところだと狸とかハクビシンとかもかな」
「それが人間になるの?」
「そうそう。で、恩返しするの」
彼はニコニコ笑ってそう言いながら俺のベッドに腰掛ける。そして楽しそうに俺の顔を覗き込む。
「びっくりした?」
「いや、するだろ……だって、動物が人間になるとか……ええ……?」
どう考えても話がおかしい。こんなこと、普通に考えてあり得ない。確かに鶴の恩返しでは助けた鶴が女性の姿になって綺麗な織物を織ってくれた。それで生活が助かって――という話だったと思うけど、
「だとしても、普通目の前に現れるのは女の子なんじゃないの!?」
「残念だけど、俺、オスだから。あ、でもちゃんと恩返しはするよ。きみがして欲しいことを言って。なんでもいいよ。織物でもする?」
「え? ええ……いや、なんか話ついていけてないんだけど……」
この状況を、どうしたらいいのだろうか。俺は思わず怯んでしまった。パッと言葉が出てこない。そんな俺を、彼はじっと見つめている。
その瞳は、澄んだビー玉のようで、キラキラと輝いていて――昨日の夜、俺を見上げたあの瞳と、同じだった。そのことに気づいた瞬間、俺はあの衝動を思い出す。
淡く輝く桜。普段よりも明るい夜。綺麗なのに、そのことにも気づかずに、俯いて歩いていた自分のつま先。
眼前の青年は、俺の言葉を期待するように待っていた。その眼差しに導かれるように、俺は、彼に、手を伸ばしていた。
「……え?」
気づけば彼を抱き締めていた俺の耳に、驚くような声が響く。その身体は、温かかった。昨日、痩せて汚れた毛玉を抱き上げたときのように、確かに命を感じられた。
「傍に居てほしい」
「……俺に?」
「そう。お前に。別に、何もしてくれなくていいから。ただずっと、俺の傍に居てよ」
「そんなことでいいの?」
「それが……一番難しいことだから」
「ふうん、そっか」
彼は嬉しそうにそう呟くと、細い腕で、俺の身体を抱き締めた。
「そんなことでいいなら、いくらでも。なんたって俺は猫だからね。人間が大事にしてくれるなら、ずっと隣にいてあげるよ。俺の命が尽きるまで」
これから一緒に過ごそうとしてるのに、命が尽きるときのことなんて考えなくたっていいのに。つい、そう考えてしまったけど、それでも今は、嬉しいと思った。
俺はもう、温もりを手に入れたのだ――
***
――次の瞬間、俺はふと目を開けた。そこは自分の家だった。
「……夢?」
かと、思った。だけど俺の傍らには痩せた猫がいる。夕べ、ちゃんと洗ってやったから毛はふさふさになっていて、だけど病気があるかもしれないから今日、病院に連れて行こうと思っていたのだ。
昨日、うずくまっているのを見たときはとても小さい印象だったけど、いざこうやって見てみると、思ったよりも大きかった。
ちゃんともふもふになった猫は、丸くなって眠っていたが、ぱちりと目を覚ました。ふと顔を上げ、俺のほうに視線を向けて、にゃあ、と鳴く。
さっき見たものはただの夢なのかもしれない。でも、目の前のグレーの毛をした猫からは、あの人懐こい笑顔の青年の姿が見える気がした。
「まあ、夢でもなんでもいいか」
俺は隣で布団を温めてくれていた猫の身体を抱き上げる。彼は大人しく俺の腕に収まって、気持ち良さそうにほほをスリスリとすり寄せてきた。
「ずっと一緒にいてよ。お前か……俺か。どっちかの命が尽きるまで」
そうやって声をかけると、猫は文句を言うようににゃあんと鳴いた。
「はは、平気だよ。わざわざ自分で死んだりしないから。お前が一緒にいてくれる限り、俺はたぶん、大丈夫だ」
猫は俺をじっと見つめて、そうだよ、とでも言うように、小さく鳴いた。
***
――それが、十二年前のことだ。
あれからも結局、俺が顔を上げて生きるようなことはなかったし、飲み会とか合コンとかにも呼ばれなかった。そろそろ同窓会なんかも開かれているのかもしれないけれど、それがあるのかないのかすらも俺は知らないままだった。でも、別にいい。知らないなら、呼ばれなかったことに傷つくことだってないのだから。
そんなことより、この十二年、俺は家に帰ると待っている猫のことで必死だった。家に帰ると、にゃあんと迎え入れてくれる。そんな存在がいることは、俺の心を温めてくれた。
でもそれも、そろそろ終わりのようだった。
「……なあ、お前さ」
俺の膝の上で小さく丸まった老猫は、だんだんと呼吸が弱くなっていく。普通に、寿命だ。病気もなく、健康で、本当にずっと俺の隣にいてくれた。名前を呼んだらにゃあんと返事をしてくれたし、寝るときはいつも、一緒の布団に入っていた。
だけど猫の寿命は、人間よりも、ずっと短い。
大切な人に出会わなければ、孤独にならずに済んだのに――そんな言葉を俺は聞いたことがあった。それは、本当のことだった。猫の命が消えようとしているこの瞬間、俺には恐ろしいほどの巨大な孤独が覆い被さってこようとしていた。
だけど俺は、意外と冷静にその瞬間を迎えようとしていた。
「ずっと、一緒にいてくれて、ありがとな。本当に恩返ししてもらった気分だよ」
猫はもう、顔を上げることもなく、浅い呼吸を繰り返している。その呼吸も、ゆっくり、ゆっくりと小さくなって――
でも、まだ、温かい。
「……絵、書こうかな」
こいつと一緒に暮らすようになってから、部屋はちゃんと片付けた。描いては気に入らずに放り出していた画用紙も、全部纏めて箱に入れて押し入れの奥に押し込んだ。
もともと、なんとなくやっていただけの趣味だったのだ。だから猫と暮らすようになってすっかりやめてしまっていたけど、改めて、やってみるのもいいかもしれない。
こいつとの日々は、俺の手で、残せたらいい。
「なぁん……」
ほとんど消えかけた猫の声が、そうするといいよ、と言わんばかりに小さく響いた。そうして猫は――死んだ。
……本当のことを言うと、こいつが死んだら俺ももう死ぬのかな、なんて。そんな悲観的なことを考えていたのも事実だった。でも、案外その気にはならない。俺は思ったよりもずっと、元気だった。
「ホントにこいつ、恩返ししてくれたんだな」
助けた動物に自分のほうが救われる。そんなことが本当にあるなんて思わなかった。けど、これは、現実だ。
「ずっと、ありがとな……ハル」
ハル。それが、こいつの名前だった。
ふと、顔を上げる。窓の外には、美しい桜が花開き、はらはらと舞い降りていた。
ああ、また、この季節が来たんだな。
そう思うことで心が軋まなくなった自分に救われた気分になりながら、俺は静かに――静かに、涙をはらはらと流した。
ハルと温もりと恩返し 木原梨花 @aobanana
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