四月馬鹿の恋心

だいち

四月馬鹿のマグカップ

 それは他愛もない嘘から始まって、他愛もない嘘がぶち壊した。そんな可哀想な恋心。


* * *


 春の麗らかな日差しに照らされて、歩いている己の頬を風が優しく撫でる。春はどこか皆が浮わつく季節。

 そんな例に漏れず私、綾音あやねも、ご機嫌にアスファルトを蹴っていた。

 四月一日、春真っ盛りだ。暖かくなってきたし、散歩しているだけでも気持ちが良い。

 高校生の春休みは課題も多いけれど、やっぱり休みっていいものだ。お休みは単純に嬉しいし、春の陽気に釣られて心も明るくなってくる。

 今日はいい天気だなぁ、そう思ったから。それと同じように、ただ、思い付いた。

 そういえば今日はエイプリルフール。折角なので自分も一つ、嘘を吐いてみよう。

 騙せたのなら上々。嘘だと分かって乗って来てくれたらそれも楽しい。すぐに嘘だと見抜かれて笑われても、笑ってもらえたらそれでいい。嘘だと言われなかったら、明日ネタばらしをすればいい。

 そんな軽い考えで、私は嘘を吐いたのだ。


 私は軽い心と足取りで、幼馴染みの家へと足を運ぶ。住宅街にある一軒家。幼馴染みの兄妹が暮らす家だ。

 兄のかいと妹のそら。二人とも私より年上だが、よく一緒に遊んでくれた。海は私の姉と同い年な事もあり、かなり可愛がってくれたようにも思う。

 だからきっと、海なら許してくれる。

 そう思ったから、私は海を嘘のターゲットとした。

 赤い屋根の家のインターホンを鳴らせば、一分もしない内に、はい、と中からよく知った声が響く。タイミングよく、それは海の声だった。

 がちゃりと開けられた扉の向こうから海が顔を出す。

「綾音か、おはよ」

「おはよう、海」

 そんな海がどんな顔をしてくれるのか、と考えると楽しみにする心が膨らんだ気がした。

 海に通されて、リビングのソファへと座る。幼い頃からよく遊びに来ている家だ。飲み物を淹れてくると言う海を手伝おうとしたが、座ってろと言われてしまった。いつもなら手持ち無沙汰な時間であるが、今日はいつ、どんな嘘を吐こうかと考えるのでそんな事はない。

 そんな風にのんびり考えながら待っていると、台所からいい香りが漂ってきた。これはダージリンかな。思考の端でぼんやり茶葉の種類を考える。

 考え事をしていたら、もう紅茶を淹れ終わった海が両手にマグカップを持ってやってくる。ことり、と二つのマグカップををテーブルに置いた音で、ぼうっとしていた意識がパッと明るくなった。

「どうしたんだ? 何か考えてたみたいだったけど」

 暗めの赤に青のボーダー模様のマグを傾けながら、海が訊ねる。私はうーん、と曖昧にしながら、白と青のボーダー模様のマグカップを傾けた。ふわりと立ち上るこの香りは、やはりダージリンだった。なんて考えながら、海が淹れてくれた暖かな紅茶を楽しむ。

 そうしたら、今言いたくなったのだ。だから、マグカップから唇を離した次の瞬間に嘘を吐いた。

「私、海の事好きよ」

 にっこり笑ってそう言ったら、海は噎せた。げほっ、ごほっと咳を繰り返す海の背中を擦ってやりながら、海が飲み終わるまで待てばよかっただろうかと考えた。

「ごほっ……。おまえ、それ」

「ごめんね、急に言って。迷惑だったよね」

 わざとらしい程しおらしく、眉尻を下げた笑みを浮かべて言った。すると海は目をこれでもかという程に見開いて、口を金魚のようにぱくぱくさせた。びっくりしてる。ちょっとのおかしい気持ちと、ほんの少しの申し訳ない気持ちを抱きながら、私は立ち上がった。

「ばいばい、海」

 嘘を吐いてごめんね、という気持ちをこっそり忍ばせながら、私はリビングの出口へと向かう。まだちょっとだけ、騙したままで。明日にはネタバラシをするから許してね。

 心の中だけでそう言って、クスクス笑った。そんな私を、どう思ったのか海が手首を掴んで引き留めた。

 びっくりして反射的に振り向いた先の、海の顔は真っ赤で。ちょっと間抜けに見えて可愛らしかった。でもなんだか、こっちまで恥ずかしくなってしまいそうだった。そして海はきっ、と私を睨むように見つめて、口を開いた。

「俺もっ! お前の事好きなんだ!」

 ぽかりと口を開けて彼を見つめる私は、顔が真っ赤な彼よりもよっぽど間抜けに見えるだろう。



 そうして、私は海と恋人関係となってしまった。あんなに必死の形相で言うものだから、嘘だと言い出しせなかったのだ。そしてそのまま流されるように付き合ったのが三日前。

 私はそれきり何をしても身が入らず、机に向かってもぼんやりしまっている。課題にかかる時間も増えた。しかし、やらねば終わらないのだから一日のノルマはしっかりこなさなければ。これでも学校では優等生で通っているのだ。

 はあ、とため息とも付かない息を吐き出して、ペンを置く。今日のノルマは終わった。だが今日は大した予定もなく、暇な一日を過ごす事になるのかもしれない。そう考えると、どうする事もないのにどうしようかなあ、と考えてしまう。

 とりあえず、連絡が来ていないかのチェックでもするかとスマホに手を伸ばした。スマホのランプが点滅している。メッセージでも来ているのだろうか。

 メッセージアプリを開いて見たら、何通かのメッセージが来ている。クラスのグループ、公式アカウント、学校の友達数人から。それと、空からも来ていた。

 海の妹で、私の幼馴染みで、私よりも五つ上の女子大生。

 空からのメッセージは五分前に来ていた。中身を見てみれば、それはショッピングのお誘いだった。

 おはよう、と言っている可愛らしくデフォルメされたキャラクターのスタンプと、買いものにショッピングモールへ行くのに付き合ってくれないかというメッセージが書いてある。最後には待ってるぜ、と言っているキャラクターのスタンプ。そのメッセージに微笑ましさを覚えながら、了承の旨のメッセージを打ち込んだ。


 ショッピングモールがあるのは電車で揺られて数駅先。駅のすぐ近くにあるので、学校の友達ともよく遊びに来る場所だ。

 午前中は二人で空の目当てのものを購入し、午後は服をウインドウショッピングしようという事になった。しかしその前にまずは腹ごしらえ。フードコートでそれぞれ食べたいものを買い、向い合わせの席に座ってのんびりお喋りしながらランチタイムとしていた。

 そんな時、空がうどんを食べながらこんな事を訊いてきた。

「ところで綾音さ、兄さんと付き合ってるってホント?」

 不意にそんな話題を振られて、私は噎せた。カルボナーラの麺が変なところに入りそうになる。

 急いで水を飲んで咳を落ち着けてから、びっくりした顔をしている空に口を開く。

「なんで、それを」

 けほ、と最後に小さな咳をしながらそう言った私に、空はあっけらかんとした様子で答える。

「だって、兄さんすごい上機嫌だったし。隠してるみたいだったけど、私にはバレバレだったよ。兄さんが綾音を好きな事」

 そう言われても、上手い答えが見つからなかった。だから私は、へぇ、としか言えなかった。

「意識してるのかしてないのか知らないけど、兄さんが選んだマグカップ、綾音とお揃いなんだもん。そりゃ、完璧な色違いってわけじゃないけどさ。二人ともボーダー模様にしたのは、やっぱりお揃いにしたかったんじゃないかなぁ」

 兄さんも可愛いとこあるよね、なんて笑って言われて、どう反応するのが正解なのか分からない。こちとら恋バナすら初心者なのだ。

 だから、声に出せない反論も仕方ないだろう。

 空のマグカップだって、彼氏のものと同じ同じ鳥の模様が描いてあるじゃない。

 そう声に出したら、自分達のマグカップもお揃いだって認めたみたいで。海がお揃いを意識していたって事を肯定しているみたいで、なんだか恥ずかしかった。


 その日の夜、海からメッセージが来た。

『空と出掛けたそうだな』

 簡潔で手短なメッセージ。それを見て返信を考えていた時、もう一つメッセージが送られてきた。

『今度、俺とも出掛けないか。都合の付く時、綾音の行きたい所で構わない』

 返信を打ち込もうとしていた指が止まった。なんだか胸の辺りがむずむずして、ぽかぽかした。

 少し震える指で打ち込んだ日付は次の日曜日で、場所は水族館。日曜日は確か海の仕事が休みだった筈、そして、私の春休みの最終日。行きたい場所に水族館を指定したのは、なんとなく。ただ、水族館の暗くて青い空間は、きっと彼に似合うだろうと、そう思ったのだ。


 海との約束の日。私はどうしてかそわそわしていた。メッセージを送ってから気が付いたのだが、これは所謂デート、というものではないだろうか。

 そう意識するとやけに緊張してしまって、浮き足立ってしまった。どんな服を着ていこう、アクセサリーはどうしよう、なんて、普段はあまり悩まないのにデートの前日は凄く悩んだ。

 あっちがいいかな、こっちがいいかな。どれが一番可愛く見てもらえるかな。そんな風にそわそわ悩んで、やっと服が決まっても次はアクセサリー。どんなものを合わせよう。海はどんなアクセサリーが好きだろう。またらしくもなく悩みまくって、そんな自分に気付いてちょっと恥ずかしくなる。

 なんだか自分じゃないみたい。それに、なんか面映ゆい。でもどうしてか、むずむずとしたこの感覚を心地よいと思っている自分がいるのもまた、事実だった。


 悩みに悩んで決めた服とアクセサリーを身に付けて、待ち合わせの時間ちょうどになるよう家を出た。今日もいつも通り、私が海の家まで行こうと思っていた。のだが。

 ドアを開けたら、門の前に海がいた。

「おはよう、海。珍しいね」

 びっくりしてそう言えば、海は少し照れ臭そうに笑った。

「おはよ、綾音。デートだからさ、彼女の事は迎えに行くもんかなって」

 そう言う海の頬は少し赤くて、なんだか本当に私の事が好きなんだな、なんて思った。そしてその意味を一拍遅れて理解したら、私の頬も熱くなった。

 なにこれ。これからどうしたらいいんだろう。初めてのデートに慌てている。でも海がデートをするのは初めてじゃなくても、慌てているのは一緒の筈だ。なんて勝手に決めつけて、海の手を取った。

「じゃあ、デートらしく手でも繋いでみる?」

 そう言って、わざと手を顔の前に掲げて笑ってみれば、海の頬は更に赤くなった。挑発的に笑えている自信があるけど、きっと色は私も目の前の彼と同じ筈。


 気まずい。というか気恥ずかしい。

 二人とも赤くなって照れているものだから、駅に行くまでの道も電車も無言だった。時々互いを見つめて、更に時々目が合っては逸らすの繰り返し。

 なんだか情けなくなってきた。今時の小学生だって、ここまで初じゃないだろうに。

 今日行く水族館はビルの中にあって、そのビルの最寄り駅で降車する。バスが通っているけどそこまで遠いわけではないので、ビルまでは歩いて向かった。

 流石にそこも無言だとやっぱり気まずい。気恥ずかしいじゃ済まなくなる。だから、勇気を出して彼に声をかけた。

「ねえ、本当に水族館でよかったの? 私が行きたい所を尊重してくれるのはありがたいのだけれど、海も楽しめるかしら?」

 そう訊いたら、海は優しく笑って答えてくれた。

「楽しめるよ。俺はお前と一緒にいたくて誘ったんだから、どこだって楽しいさ」

 そんな気障な台詞言う性格じゃなかったでしょ、って言いたかったけれど、海自身は照れている様子がなかったので言わなかった。また照れさせて無言になるのは嫌だった。折角一緒に出掛けたのだから、楽しくお喋りしたい。

 そこからはお互いの事を色々お喋りしたり、家族のエピソードなどを話ながら歩いていった。そしたら時間なんてあっという間に過ぎていって、すぐに水族館へ到着した。やっぱり楽しい時間は早く過ぎ去るように感じる。

 入り口でチケットを買って、パンフレットを貰っていざ水中の世界へ。まず向かえてくれたのは淡水魚達。淡水魚のコーナーは海水魚のコーナーに比べて明るい。アマゾンの魚コーナーを見ながら、順路に沿って奥へ奥へ。

 どうやらこの水族館は、淡水魚、海水魚、深海魚といった具合に並んでいるらしい。そして屋外のではペンギンやアザラシが見られるらしい。ワクワクしながら、私は海の手を引っ張った。

 淡水魚コーナーで熱帯魚を見て綺麗だねって笑い合う。

「そういえば、昔海の家にいたわよね」

「ああ。世話が結構大変だったから一回だけな」

 海水魚コーナーの大水槽で、凄いね、って言いながら一緒に水槽を見上げた。

「こんなに沢山いて、食物連鎖が起こらないのが凄いわよね」

「一匹くらい食われてるんじゃないか?」

「あるかも」


 屋外のコーナーではペンギンが沢山いる水槽を見た。気持ち良さそうに泳ぐ子もいれば、日向ぼっこをしている子もいる。すいと指を水槽になぞらせてみれば、それに着いて泳いでくれた。可愛いな、って海も笑ってる。楽しんでいるみたいでよかった。

 アザラシの水槽は円柱型で、中で気持ち良さそうに一頭のアザラシが悠々と泳いでいる。私達の前でくるりと回ったり、止まったりと色々サービスしてくれた。そのアザラシに甘えて、海に一緒に写真を撮ってもらった。


 お昼ご飯は水族館に併設されているカフェで食べた。二人とも沢山食べる方ではないので、軽食っぽいメニューで充分にお腹は膨れる。私はサンドイッチ、海はハンバーガーを注文した。二人とも注文した飲み物は紅茶だ。

 どの生き物が可愛かった、驚かされた、など色々お喋りしながら美味しいランチを食べた。ただやはり、紅茶は海に淹れてもらったものが一番美味しい。帰ったら、ディンブラを淹れてもらいたい。

 そんな風に考えながら、楽しいランチタイムは過ぎていった。


 お腹も膨れて、もう一度ぐるりと一周してから最後に来たのはお土産ショップ。家族や友人に二人でお土産を選ぶのは、やっぱりこれもちょっと恥ずかしいような気がする。デートしたんだ、って皆に伝えるみたいで。

「ねえ、これ可愛いと思わない?」

 そう指差したのはアザラシのぬいぐるみ。アザラシのきゅるんとした瞳や、まんまるのフォルムが可愛らしい。

 ふうん、と言ってアザラシのぬいぐるみを覗き込んだ海は、欲しいのか、と訊いてくる。私は曖昧に笑って答えた。

「ん~。欲しいんだけど、大きいだけあって高いしね。学生には手が出せないわ」

 そうか、と言った海はアザラシのぬいぐるみをむんずと取り、私に押し付けた。

「え?」

「カゴに入れたら他のものが入らなくなるからな。綾音が持っててくれ」

 こういう時は彼氏に甘えるもんだ。そう笑われてしまえば、私に反論はできやしない。ただ、こういう事には慣れてるような振る舞いをされるとちょっと気分が悪い。理由は分からないけれど、なんだかもやもやするのだ。

 しかしその正体は分からないし、突っ立っていたら邪魔になってしまう。

 カゴを持つ海に着いて、ショップの中を周った。

 そしてそのまま会計をして、帰路に着いた。ぬいぐるみは大きいから一つで袋を占領している。私はその袋だけ持って歩いていた。海が全部持つと言ったのだが、それは流石に悪すぎる。だから私も持つと言ったら、このぬいぐるみだけが入った袋を渡された。

 それが一番大きいからな、と言われたが、中に入っているのはぬいぐるみだけなので重くはない。ここにもなんだか慣れた気遣いを垣間見てしまったような気がした。


 家に帰って、姉さんと両親にお土産を渡した。両親、というか家族にはぺんぎん饅頭というお菓子。姉さんにはイルカのストラップ。彼氏さんにも、とシャチのストラップを渡した。姉さんも私達のお揃いに巻き込んでやる。

 そして夕飯を食べて、お風呂に入って自室のベッドにぼふんと倒れ込む。

 今日は疲れた。けど、凄く楽しかった。

 買ってもらったアザラシのぬいぐるみを抱き締める。

 ああ、本当に楽しかった。ずっと続けばいいのにって思ったくらい。

 そう考えて、私は思い出してしまった。

 この関係は、嘘なのだ。私が吐いた嘘の上で成り立つ、偽りの関係なのだと。

 ああ、嫌だな。忘れていたかった。ずっと幸せな夢に浸っていたかった。でも、これは忘れちゃいけないのだ。嘘は明かさないといけない。ずっと騙し続けるなんてあってはいけない。だから、いつか海に本当の事を言わなきゃいけない。

 でも、今はこのままで。まだ、甘い夢を見ていたい。あと、ほんの少しだけ。

 そう声なく唱えて、強くぬいぐるみを抱き締めた。



 学校が始まっても、私と海の関係は変わらなかった。私が本当の事を言い出せていないのだから当然と言えば当然だが。

 昼休みにはメッセージをくれたし、休日は一緒に出掛けたりした。一回だけ放課後迎えに来てくれて、友達に質問責めにあったりもした。そんな風にここ一ヶ月の出来事を思い出していると自然と頬が緩む。嘘を吐いているという後ろめたさはずっとあった。それでも、この一ヶ月間は楽しかったのだ。彼の恋人としての生活は、凄く楽しかった。

 お風呂上がり、ベッドに寝転んで海へ向けてのメッセージをスマホに打ち込む。

『明日、家に行ってもいい?』

 数分後、返信が来た。

『勿論。待ってる』

 互いにスタンプも甘い言葉もないメッセージ。でもそれが私達らしくて、良いのだと思う。それに、海からはほんの少し、以前よりも優しい意味合いの言葉が送られて来るようになったと感じる。

 海はいい恋人だ。だから、今のままじゃいけないと思う。私に彼の愛情を受ける資格など、本当はないのだから。

 解放してあげなきゃ、いけないのだ。

 ベッドに一緒に寝ているアザラシのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて、このぐるぐるした気持ちに蓋をしようとした。



 外は生憎の雨模様。おうちデート、なんて言ったけど、今日は本当の事を言おうと決めていた。言い出せないまま、ずるずると恋人という関係を続けて一ヶ月。そろそろ、潮時だろう。

 チャイムを押したらすぐにドアが開く。海はおはよう、と笑った。

 私の考えには気付かない彼は、家の前に立つ私を見て嬉しそうに頬を緩めている。

 海の後ろに着いて、慣れ親しんだ家のリビングへと通される。手伝うと言った私を制して、彼は台所へ行った。きっと、あのマグカップに紅茶を淹れてきてくれるのだろう。

 ソファに座って浮かべたその予想は当たっていて、台所からいい香りが漂ってくる。ああ、この香りはディンブラ。私が前に好きだと言ったこの紅茶を、付き合うようになってからは以前に比べて更によく淹れてくれるようになった。こういうところに、彼の細やかな愛情を感じる。そして、私にはそれを注がれる資格がない事も。

 さあ、言うんだ。

 そう決意しても、私には今すぐ言う勇気なんてなくて、ただ台所を眺める事しかできなかった。

 更に香りが強くなって、紅茶がマグカップに注がれた事が分かった。すぐに海はリビングへとやってくる。

 言わなきゃ。

 心を決めて、私はソファから立ち上がった。

「ごめんね」

 台所からディンブラを淹れてきてくれた海が、両手にカップを持ったまま首を傾げる。その様を見ていると決心が鈍りそうで、何でもないって笑って座ってしまいそうで。

 でも、もうこんな事は止めるって決めたから。心の内で叱咤して、私は震えそうになる唇を開いた。

「私が海の事好きだって言ったの、エイプリルフールだったの」

 海が両手に持っていたマグカップがするりとその手を滑り落ち、割れた。ぱりん、と思ったよりも呆気ない音で割れたそれらから、私と海それぞれのカップに入ったディンブラが混ざる。


 海は、何も言わなかった。

 ゆっくりとした動きで私に背を向けて、ふらふらと部屋を出ていった。ばたん、と閉められた扉が、私達を隔ててしまった。もう、私達の間には壁が出来てしまったのだ。

 そう思ったら、自分の体温が急激に下がった気がした。自分は、なんて酷い事を、彼にしてしまったんだろう。

 彼の心を弄ぶような真似をして。いや、実際に弄んでしまった。

 彼の笑顔が、泣きそうに悲痛な顔へ塗り替えられていく。きっと、彼はもう私に笑顔を見せてくれない。いや、会ってくれるかも分からない。

 なんて事をしてしまったんだろう。

 自分のした事を反芻したら、体から力が抜けた。情けなくその場にへたり込む。


 罪悪感と後悔が煽られる。悪いのは自分だって、自分で蒔いた種だって分かってるのに。どうしようもなく悲しかった。胸がぐぅっと締め付けられて、息が出来ない。


 ああ、そっか。

 私、海の事好きだったんだ。

 嘘なんかじゃなくて、本当に、私は海が好きなんだ。


 悟った瞬間、さっきまでよりもずっと沢山の後悔と悲しさがどっと押し寄せた。

 自覚するのが遅すぎる。

 嘘だって白状した後に、自分の気持ちに気が付くなんて。

「ごめん、ごめんなさい、海。ごめんなさい……」

 もうここにいない彼にいくら言葉を連ねたって、伝わる筈がない。ごめん、ごめんと何度唱えても意味をなさない。

 彼の優しさに甘えて、私は取り返しの付かない事をしてしまった。

 私は彼を傷付けた。きっと、心をずたずたに引き裂いてしまった。彼は優しい。その優しい心は、私のせいでぼろぼろになってしまった。

 なんて酷いやつだろう。私は彼を捨てたのだ。本当は誰よりも、何よりも彼を欲している癖に。

 心は己を責めている。理由なんて、経緯なんて関係なく、心は正直に悲鳴を上げる。

 どうしてこんな事になってしまったの。どうしてあんな嘘を吐いてしまったの。どうしてもっと早く自分の気持ちに素直になれなかったの。

 どうして、どうして。

 悪いのは自分だって分かってる。私が私自身を責めたってどうにもならない事も、頭は知っている。

 なのに、涙は溢れてきて嗚咽は零れる。ぼたぼたと落ちる雫はスカートに吸い込まれていく。太ももが冷たくなって、それが情けなさに拍車をかけた。

 何、やってるんだろう。罪悪感で死にそうなのに、私は彼を追いかける事すらできない。

 海に謝らなきゃ。でも、どうやって謝ったらいい? 謝ってどうなる。私が彼を傷付けた事は紛れもない事実で、彼が出ていったのはそれに対する答えだったのでは?

 彼の背中。あれは、私への拒絶だったのでは?

 そんな風に、言い訳でも何でもない言葉だけが脳内をぐるぐる回る。

 臆病者。臆病者。自分でも自分を詰る事なんていくらでもできて、それは贖罪になんてならない。

 もう、彼が私を愛しさの滲んだ瞳で見る事はないのだろう。もう、彼が私の名前を呼ぶ声に親しみを込める事はないのだろう。もう、彼が私に優しく触れる事はないのだろう。

 そう考えるとまた、じわりと涙が滲んだ。

 引き攣った頬が痛い、ぎゅうと瞑った目が痛い、嗚咽を漏らす喉が痛い、握り締めて爪が刺さっている手が痛い。

 引き裂かれているように胸が痛い。

 本当に胸の中で、何かが千々に切られているかのよう。ずきりずきりと痛みを訴えるそれを、いっそ胸の内から取り出してしまいたい。胸に穴を開けて、それを取り出してしまえば、こんな痛みなど感じなくなるのかもしれない。

 でも、この想いも後悔も忘れてしまう? それはだめだ。この想いは、忘れたくない。

 自覚するのが遅すぎて、悪気なく悪い事をした。それはどうしたって取り消せないから、忘れちゃだめだ。

 私が彼にもたらした痛みはこんなものじゃない。彼の心を千々に裂いたのは、自分だ。だからこんな痛みから逃れようとする事はずるくて、でも向き合う事が恐ろしい。彼を傷付けて、己の想いすら知らずに投げ捨てたのだと。そう知る事が恐ろしい。

 感情は私の中で乱れて、暴れて、私はもうどうすればいいのか分からない。優秀な筈の脳も今は最適解を導き出す事ができなくて、ただ罪悪感と後悔だけを認識している。


 ああ、これこそまさにエイプリルフール、四月馬鹿。春に浮かれた愚か者。

 大切な人を傷付けて、勝手に自分も傷付いた。その結果がこれならざまあない。

 どれだけ後悔したってもう遅い。

 時は戻らない。友達には戻れない。恋人にはなれない。


 割れたマグカップに、もうディンブラは淹れてもらえない。

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