ゆらぎ

淡園オリハ

1

 どこか、遠くて近くて仄暗い場所に僕はいた。どうやらここでは、文字通りすべてが、文字になる前のすべてが、規則正しく生活していた。

「例えば、あそこを見てみな」

 ここに来て最初に出会った男。ふらふらと寄る辺なく立つ、湯気みたいな男が口を開く。彼が指差した方向に目を凝らすと、そこにはゆらぎがあった。本当に、ゆらぎという他ない、輪郭のぼやけた何かが中空を飛翔していた。泳ぐように、跳ねるように、全てから解放された無軌道な動きは、楽しそうにも悲しそうにも見える軌跡を残して、今まさにどこかへ飛んでゆこうとしている。

 空気が揺れる。無色透明、無味無臭。視界には映らないのに、そこに何かがあるのは明白だった。しばらく観察して、ようやく気付く。自分の鼓膜が揺れていた。それも、この上ないほどに心地よい震えだった。

「ピアノという名の楽器が生まれる、そのずっと昔からこの場所にあった音だ」

 男はぶっきらぼうに吐き捨てた。というよりも、怒っていた。何に怒っていたのかは分からなかったけれど、きっと彼は僕よりも長いあいだここに居て、この音たちの飛翔を眺めていたに違いない。その目は柔らかな光を湛え、目には見えない音たちの揺らぎを追い続けていた。

「あの」と僕が話しかけた途端、彼の目の柔らかな光が、ふっ、と消える。

「なんだ」

「あれはどうして飛び続けているのでしょう?」

「さあ」

 男は興味を失くした様子で、ぷいとそっぽを向いた。僕もそれ以上は何も言わなかった。やせ細り、猫より丸い猫背を引きずり男は進む。上半身はぬぼーっと脱力しているのに、下半身だけが忙しなく動くせいで、彼はやけに足が速かった。けれど、もちろん僕らに目的地なんてものはないので、決して急いでいるというわけではない。ただ、これが彼の速度だというだけのことだった。

「あの音は、後に”ミ”と名付けられたらしい」

 歩きながら彼が思い出したように口を開いたのは、地球儀が地球の海水を飲み干している光景を横目にしたときのことで、僕は反応が一拍遅れた。僕の無反応を無視して彼は言葉を継いだ。

「嘆かわしいことだ。そうだろう?」

「ええ、本当に」

 彼は本当にあの音を気に入っていたようだった。僕はあの音に、彼ほどの熱を持つことはないだろうと気付いていたので、閉口し続けた。間違っても、あなたはあの音ではないし、空は飛べないんですよ、などと言ってしまわないよう、相槌に集中する。

「音は、優雅に空を飛び回り続けるんだ。放っておけば……いや、そもそも放っておくことしかできないんだが、音を閉じ込められるようになった以上、そう言わなきゃいけなくなった。本当に、嘆かわしいことだ。そうだろう?」

「ええ、本当に」

「音は止まったことがないんだ。嘘じゃないぞ。一度も止まらず、揺らぎ続けて、空を、海を、地中を、血液を、走り続けるんだ」

「放っておけば、ですね」

「そうだ」

「それじゃあ、彼らは」

 ぴゅう、と風切り音が聞こえた。振り向くと、惑星図鑑がアンドロメダ銀河を指先でくるくると回して円形に引き延ばし、マヨネーズをかけようとしているところだった。マヨネーズの中身が少ないせいで、何度もぴゅう、ぴゅう、と間の抜けた音が聞こえてくる。

 あれは、きっとピザを作っている。

 味の想像が付かない。銀河は、どんな味がするんだろう。いや、マヨネーズをかければ全てマヨネーズの味になるはずだ。アンドロメダ銀河だって、きっと。

「少し歩きましょうか」

「あぁ。それがいい」

 マヨネーズの音が聞こえなくなるまで歩いてくると、風切り音の代わりに水の跳ねる音が聞こえ始める。僕らが歩く道の横には大きな川が流れ、時折何かが水面を跳ねる。ぱちゃん、という音が静かな川辺に響いた。周囲はすっかり薄暗く、夕暮れじみた藍色が視界の全てを染め上げている。

 現実感のないこの風景の中で、唯一、つまらなそうに歩く男の息遣いだけが、僕がここにいることを証明していた。

 ふと目を向けた川のほとり。広い河川敷の暗がりの中で、ホタルみたいにか細い暖色が明滅している。

「あれは?」

「この時間になると煙草がライターを吸ってるんだ。身体に悪いからやめろって何度言っても聞きゃしねぇ」

 男は舌打ちをすると、ちらちらと明滅に目を向けて、結局何も言わなかった。隣に僕がいるから注意するのを遠慮したのか、煙草の肺を諦めたのかは分からなかった。

「さっきの続きですけど」

「あぁ」

「音は、眠らないのでしょうか」

 男は呆れた表情で僕を見た。何を聞いていたんだ、と言わんばかりの形相に僕は思わずたじろぐ。

「眠らないし、食べないし、飲まない。休まないんだよ。そう言っただろ」

「でも、それは過酷なことじゃないですか?」

「過酷なもんか」男は笑って「そう生まれたものが、そう生きているだけだ。とやかく言う権利なんて誰も持ってない。そうだろう?」

「そんなつもりは。僕は、ただ」

「まぁ、お前さんの言いたいことも分かるがな」

 男は立ち止まり、空を見上げた。僕もつられて上を見る。すっかり暗くなった空には、死の誕生を喜び、涙を流す生がベッドを取り囲んでいる光景がぽっかりと浮かんでいた。こういうお涙頂戴のストーリーは好きではなかったから、すぐに目を逸らしてしまう。

 彼はしばらく空を眺めていたけれど、少し遅れて僕のほうを向き直った。

「音にも色々ある。中には眠りたいやつもいただろうさ」

 どこか芝居がかった口調で、男は続ける。

「そういう意味じゃ、音に名前を付けてやるのも、四六時中世界を駆けずり回らなくていいように鍵盤の中に音を閉じ込めてやるのも、いいことなのかもしれない」

 正解は分からない。分かるはずがない。僕は音じゃないから、音の気持ちなんて少しも理解できない。

 でも、それは彼も同じはずだ。だからこそ、ここまで音に入れ込む彼のことが、分からない。黙考していると、おもむろに彼が言う。

「お前さんはどうなんだ?」

「え?」

 質問の意図が分からなくて思わず聞き返す。男はぽりぽりと頭を掻いた。

「お前さんは……つまり、お前さんになる前のお前さんは、どんなだった?」

「そんなの、分かりません」

「分からない?」

「自分になる前の自分なんて、分かるはずがないでしょう」

 彼の様子を伺う。どうも前世とか魂とか、そういうことを話しているわけじゃないらしい。

 至極当たり前のことを聞くように、例えば好きな食べ物とか、今日の睡眠時間とか、それらと同じ類の質問として、彼はこの問いを扱っているようだった。

「僕にとっては、この僕が僕のすべてですから。前とか後とか、考えられないように、見えないように出来てるんです」

 伝わるようにそう説明すると、ようやく腑に落ちた様子で頷いた。

「そうか。人間ってのはそういうもんか」

「そういうもんみたいです。今の自分のことだって、分からない」

「なら、聞き方を変えよう」

 彼は顎に手を当てて少し考えた後、もう一度口を開いた。

「お前さんになる前のお前さんは、何がいい?」

「どういうことですか?」

「なんでもいい。今のお前さんになる前の何かがあるんだとしたら、それは何がいいかってことだ。星でも海でも紙魚でも、なんでもいい。教えてくれ」

「どうして、そんなことが聞きたいんですか」

「それこそなんでもいい。そうだろう?」

「……じゃあ僕が答えたら、そっちも答えてください」

「あぁ、分かった」

 ライターが煙草を吸う光の明滅は既に見えず、いつの間にか一服を終えてここを去ったようだった。空を見上げると、死の生誕を祝っていた先ほどまでの光景は消え、その代わりに、実家のカレーライスを鍋の底から見上げた茶色の景色が浮かんでいた。空いっぱいのカレーの中で、くし切りにされた玉ねぎがほうき星みたいに白く輝いていた。

「僕は僕になるまで、この世界にあるいろんなものの一部でした」

 今になって思い出した。僕の両親はヘビースモーカーで、僕がお腹にいる間も変わらず煙草を吸っていた、と口をとがらせて説く祖母の表情を。父の母。つまり父方の祖母は優しく厳しい人だった。父と結婚して嫁いできた僕の母にゼロから料理を仕込んだというし、父と母の喫煙をいつも嗜めていたそうだ。

 祖母の助けを借りて始まった結婚生活にも慣れてきた、三年目の夏。満を持して生を授かった僕は、さっき夜空のスクリーンに映った景色と同じように親族一同の笑顔を向けられながらこの世に降り立った。

 父も母も優しく、温かかった。

 僕が知能の発達に障害を抱えた障害児だと診断されるまでは。

「僕はニコチンで、タールで、カレーに入っている玉ねぎで、豚肉で。もちろん、期待とか失望の一部だったこともあります」

「なるほど」

 男は心底興味深そうに僕の話を聞いていた。僕はさらに思い出す。

「父が海外出張で訪れた、イタリアのコンサートホール。その近くのトラットリアで出会った日本人観光客の女性は、ピザにマヨネーズをかけていたそうです。イタリア語を知らない彼女がシェフに詰められているのを助けたのが、父でした」

「そして助けられたのが、お前さんの母親だった」

「父は型破りな人でした。まぁ、音楽をやろうなんて人間は皆そうなのかもしれませんけど」

「父親は演奏のためにイタリアに?」

「そう聞いてます」

 実際、すべて祖母に聞いた話だった。

「バイト代を貯めてイタリアに旅行に来て、マヨネーズをかけてピザを食べてる女性に、父は一目惚れしたそうです」

 彼はなるほど、と小さく呟いて先を促した。

 僕はまた忘却の海に潜る。記憶を手繰り、僕を思い出す。

「僕の一番最初の記憶は、部屋を縦横無尽に飛び回るたくさんのゆらぎでした。それを目で追っている記憶です。きょろきょろと見回す僕を抱き上げる母と、笑いながらピアノを弾く父の背中」

 付け足すか迷って、まっすぐな彼の目に促され、するりと唇の間から漏れ出た言葉は、恐ろしいほど正確に僕の心を傷つけた。

「僕を抱く、母の温度を、覚えてます」

 原初の記憶で見たゆらぎ。日が暮れる前にここで見た、空気のゆらぎ。音の正体。

 僕はあれを見たことがあった。けれど、どうして忘れていたのだろう。

 それよりも、どうして思い出せたのだろう。そこまで考えて、彼の言葉が引っかかった。

「ピアノの音は、ピアノが生まれる前からこの場所にあったって、そう言いましたよね」

「あぁ。そう言った」

「それなら僕も、僕として生まれる前は、ここにいたんですかね」

「そうかもな」

 どこか自嘲気味に彼は続ける。

「ここには何でもあるけど、何もない。ここにいたんじゃ形にならないから、すぐに霧散しちまう。物も、概念も、みーんな生まれたそばから消えていく」

 ここは可能性の国だ。彼は僕をじっと見つめて、続けた。

「どんな形でも関係ない。いま、お前さんはお前さんを形作っている。これからもお前さんはお前さんだ。それだけが大切だ。そうだろう?」

「質問の答えに、なってませんよ」

 そして気付く。僕も質問に答えていなかった。

「あまりに羨ましそうな顔でここを見て回るもんだからな、考えてることはなんとなく分かる。だが、残念ながらお前さんはお前さんに戻らなきゃならん。ここに留まることは許されない」

「それが過酷な道でも?」

「過酷な道でも、だ」

「でも、戻りたくないんです」思わず僕は頭を振る。「僕は僕が嫌いだ」

 男は僕から目を逸らし、空と地面の間をすっと見据えて、声を震わせた。

「音は自由だ。そうだろう?」

 はい、とも、いいえ、とも言わなかった。

「お前さんは、お前さんとして生まれる前から、お前さんだったんだ。自分が嫌いなら、なおさら、自分の音をちゃんと聞くんだな」

 その言葉が合図となって、世界が暗転した。無茶苦茶に回転する視界が脳を揺さぶる。

 お尻を付けていたはずの地面が空になり、空が地面になる。僕はふよふよと浮かびながら、通り過ぎていく景色を眺めていた。地球儀が地球に食われ、惑星図鑑がアンドロメダ銀河の重力にぐちゃぐちゃに引き裂かれ、空を跳ねまわっていた音たちは自分の鍵盤に規則的に吸い込まれていく。

 僕は、僕に戻っていく。そうして、何も見えなくなった景色の中で、彼の姿だけが眼前に浮かび上がる。細く、猫より丸い猫背の彼は、記憶の中にある僕と同じ顔をしていた。どうして気付かなかったのだろう。

 彼は僕だった。たぶん、僕になる前の、僕だった。


 頭が痛い。未だにぐわんぐわんと揺れる視界はぼやけていて、上手くピントが合わない。

 白い。

 背中と後頭部に伝わる、柔らかな感触。

 身体に伝わる温かな重さ。

 徐々に機能し始めた眼球を動かすと、ようやくここが病室で、僕がベッドで寝ていることが分かった。

 次の瞬間。ワッ、と歓声が上がる。ベッドの周囲から声が聞こえた。

 僕を大勢の人が取り囲み、泣いて、笑っている。

 一斉に何かを言うからほとんど聞き取れない。

「よかった」とか。

「目を覚ました」とか。単語だけはなんとか聞き取れた。

 僕はきっと、長いあいだ眠っていた。

 その時、男性の、低く、聞き慣れた声が、右耳にすっと割り込んできた。

「よかった……よかった、生きていてくれて、本当に」

 次に、懐かしく温かい声が反対側の左耳を揺らした。

「飛び降りるなんて、万が一のことがあったら、もう、どうしたらいいかと……」

 父と母の音が、鼓膜を、頭蓋骨を、血液を駆けずり回って僕の身体を巡っていく。止まることなく身体を駆けて、僕の一部になっていく。

 視線を真っすぐ天井に向けて、次に、窓の外に広がる青空を見つめた。

 もう見えない音のゆらぎを少し探して、そうして、やめた。

 ゆらぎは、音は、自由は、僕は、僕の左胸で今も鳴り響いているから。

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ゆらぎ 淡園オリハ @awazono_oriha

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