逃亡中、動物園にて

第1話

 シマウマは、ワン、と鳴くらしい。ヒヒーン、とか、ウオーン、とかではく、ワン。


「変な鳴き声だねえ」


 水色に塗られたハリボテみたいに薄いベンチに座っていると、シマウマが「ワン」と鳴くので、思わず吹き出しそうになった。不意に声を掛けられるのはそのときだった。


「隣いいですか?」


 聞き慣れた女の子の声だった。


「久しぶりだね」


 顔も向けずに答えると、彼女は「そだねー」と僕の隣に腰を下ろす。


「何してたの?」

「知ってるでしょ」

「んーまあね。まだ捕まってないんだ」

「捕まってほしいの」

「いや、むしろ……。まあでも、今ここで何もしなかったら俺も捕まるらしいし」

「じゃあいいよ、好きにしても」

「でもほら、せっかくチケット買ったんだし」


 彼女は人を殺して逃亡しているところだ。学校の昼休みに同級生をカッターで切り付けて逃亡。彼女が行方を眩ませて今日で三日になる。切られたのは僕たちのクラスメイトだった。失血死したというのだから、相当苦しんだ最期だったのだろう。ざまあみろ、と思った。殺されて当然の奴は世の中にいるのだと、僕も彼女も信じて疑わない。


「どうやって逃げてるの?」

「んー色々。公衆便所の中で寝たり、干してある服盗んで着たり。今日はおじさん逆ナンして泊めてもらった」


 それは君が殺すほど嫌いだったあいつがやってたことと同じじゃないの、なんて訊ねたりはしない。


 彼女を着ておらず、男物の黒いシャツにデニムパンツにスニーカー。頭にはニット帽を被っている。どこか違和感があるように思って、サイズがじゃっかんダボついているからだと気付いた。


「通報されなかった?」

「多分ね」


 シマウマがワンと鳴いた。


「ねえシマウマなんか見て楽しい?」

「まあつまらなくはないけど。他に何が観たいの?」

「ペンギン」

「いるの?」

「いるよ」


 僕らは水生生物のコーナーを目指して歩いた。園内を歩いていると糞尿の混じった獣臭さが鼻腔にこびりつく。平日。昼間。園内は閑散としている。


 ゾウの庭の前でアジア系の団体とすれ違った。彼らは不必要に思えるほどの大声で、聞き取れない言語を交わし合っていた。ほとんど怒鳴り合っているみたいだった。表情だけが明るく嬉々としていた。


「お腹空いたなあ」


 不意に彼女が言った。


「何か食べてた?」

「なにも」

「何か食べる?」

「なんでもいい」


 僕はキッチンカーでホットドッグとココアを二つ買った。販売員は彼女のことを疑いもせずに「今日は人が少ないのでゆっくりできますね」と笑顔を浮かべる。


「おかげさまで。学校をサボった甲斐がありました」

「学生さんですか?」

「僕らは高校生です」

「明日からは学校行くんだよ?」


 ホットドッグとココアを受け取った。


 ペンギンのプールがあるのは屋内だった。平日の昼間といえどさすがにペンギンは花形らしい。カップルや親子連れが数組闊歩していて、僕らは端のベンチに並んで座った。


「これって何の臭いなんだろ」


 特有の生臭さに顔をしかめると、彼女は「餌の匂いじゃない?」と答えた。


「生魚とかかな」

「そんなイメージ。死んだ後の臭い」


 死んだ後、という言葉が頭の中を反芻した。彼女の中には、もう死ぬ前と死んだ後の境界が存在するのだ。僕との間にある溝が浮き彫りになったように思えた。死を前にしたことがない人間と、したことがある人間。殺してない人間、殺した人間。復讐ができなかった人間、できた人間。


「ねえ、あいつをやったときどう思った?」

「んーなんかね、呆気ないなって」

「スカッとしなかった?」

「全然。割に合わないと思った」


 ドリルのように鋭く泳いでいたペンギンが、軽やかな動作で陸へ飛び出た。水しぶきが周りのペンギンに飛び散る。ブルブルと体を震わせる。羽毛が舞った。


「僕はざまあみろって思ったよ」

「私のこと警察に言いつけたりする?」


 彼女は言った。


「しないと思う。今のところは」

「じゃあいつになったら?」

「例えばこのまま動物園を出て、僕は地下鉄が帰るけど、君は別の方向へ行くとする。そうしたら、一応通報しておこうかなって」

「動物園でデートしましたーって言うの?」

「言うよ」


 ペンギンが水の中に飛び込んだ。


「私もそうしよ」


 僕らは立ち上がって、次の動物を観に行く。

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逃亡中、動物園にて @ZUMAXZUMAZUMA

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