第100話 月明かり。

 旅館での2日目の夜。

 なんとなく目が覚めた。

 部屋は薄暗くて窓から差し込む月の光が窓際を照らしていた。


 ぼーっとしながらその窓際を見ると姉ちゃんが月を見ていた。

 その姉ちゃんはどこか遠くへ行ってしまいそうな顔をしていた。

 そんな顔を見てしまったからか、眠気はどこかへ消えた。


「姉ちゃん」

「……タク。ごめんね。起こしちゃった、よね」


 月明かりに照らされて優しく微笑む姉ちゃんは綺麗だった。

 人ですらないような気さえした。

 それでも確かに姉ちゃんだった。


「眠れない?」

「さっき目が覚めて、そのまま」


 姉ちゃんの隣に座って手を握った。

 下心とかではなくて、不安だったから。

 今なら姉ちゃんは空を飛んでいくのではないかとすら思えてしまう。


「眠れなかったら起こしてくれたらよかったのに」

「うん。ありがと」


 姉ちゃんはただ微笑んでそう言った。


 布団はやや乱れていて姉ちゃんが這いずって窓際に移動したのだろう跡がある。


 姉ちゃんは俺と別れて以降、甘えてくることはなくなった。

 そもそもそんなに甘えてきたりはしなかったが、事故に遭って目覚めてからは1人で藻掻こうとしているように見える。


 俺はそれが寂しかった。

 でも姉ちゃんの気持ちもわかる。

 それはある種一方的に守られているようで、自分は足でまといなのではないかとすら思ってしまう。


 俺が学生だった頃はそれをよくもどかしく思っていた。

 姉ちゃんの力になりたくてバイトして家事もしたりして。

 少しでも姉ちゃんを支えられるようにと。

 大したことはできないから。


「……引き篭ってる間ね、ずっと考えていたの」

「なにを?」


 姉ちゃんは俺の方を見ることはなく、ただずっと月を見上げていた。

 それは俺から逃げているように感じた。


「わたしが居なくなれば、タクと椎名ちゃんは幸せに……なれるかなって」

「何言ってるんだよ」


 なんとなく、そんなことを言うだろうことはわかっていた。

 俺だってそうだった。


 俺が居なかったら姉ちゃんは今頃は大学卒業して就職していい男とか捕まえて幸せに暮らしてたんじゃないかって思う。

 俺がいたせいでしっかりしないといけないって仕事して、頑張って、そうしてその結果が今だ。


 この現状を幸せと言えるほど俺も姉ちゃんも頭の中がお花畑ではない。


 たぶん、幸せというのは失うものを数える必要どころか認識する事のない状態の事を言うのだと思う。

 俺と姉ちゃんは色々と失い過ぎて、なのにまだ失いたくないものがいくつかあって、人生が続く限りその残った大事なものは次々に天秤にかけられていく。


 金があればよかったのだろうか?

 助けてくれる親戚とかがたくさんいればよかったのだろうか?


 どっちもそれほど持ち合わせてはいないけど、しかしそれほど不幸だとも思わない。

 けどやっぱり幸せとも思えない。


「姉ちゃん」

「……」


 俺が姉ちゃんを呼んでも、取り憑かれたみたいにずっと月を見上げている。

 たぶん俺と向き合いたくないのだろうと思った。

 現実逃避をするように、俺を見なければ気が紛れるとでも言う様だった。


 それがムカついた。


「ッ?!」

「無視すんな」


 俺は姉ちゃんの両脇に手を伸ばして子どもを抱っこするようにして持ち上げて俺の太ももに向き合うようにして座らせた。


「ちょと?!」

「反抗期だから姉ちゃんの意見は聞かん」

「?!」


 姉ちゃんに苛立ったのなんていつぶりだろうか?

 シスコンとはいえ腹が立つものである。

 本来はそうであるはずだった。


 20歳を迎えてから反抗期がなかったと今気付いた。

 ……反抗してる暇なんてなかったからな。


「言いたい事があるなら言えよ姉ちゃん。姉弟喧嘩しようぜ」

「……言いたい事なんて、べつに……」


 目の前で向き合って、それでもうつむく姉ちゃん。

 わかってる。

 今の姉ちゃんがそう簡単に俺たちに向き合えるはずもないことは。


 でもこのままだとすれ違ったまま取り返しのつかないことになると思った。

 表面上は楽しそうにしてた姉ちゃんだけど、心の奥底に沈んたままの気持ちが2日の旅行程度で簡単に解決するはずなんてない。


「……とりあえず下ろして。椎名ちゃんも起きちゃうし」

「嫌だ」


 俺は姉ちゃんの肩を掴んで放さなかった。

 下半身が不自由だから放すと危ないというのもあるけど、そういう事じゃない。


「俺はこれからも姉ちゃんとずっと一緒に居たい」

「…………」


 どの面下つらさげて反抗期かと自分に言いたいが、しかし間違ってもない。


「姉ちゃんがこれからどうしたいのかは俺はわからん。だから、もしもやりたい事とかあるならそれを止める事はしない。尊重するよ。けど今の姉ちゃんを見てて、とてもじゃないがそうは思えない」

「……じゃあ、どうしたら、いいわけ?」


 姉ちゃんは俺を見て怒りの表情を見せた。

 長らく喧嘩なんてしてなかったから、内心怖かった。

 それでも退けない。退いてはいけない。


「目覚めたら2年半経ってて、タクと椎名ちゃんは幸せそうだし、わたしが居てももう邪魔でしかないじゃん!! 歩けないし働けない。子どもだってもう産めない。わたしはもう必要ない。要らないんだよ」

「そんな事な」


 俺がそう言おうとした時、姉ちゃんの手は震えていた。

 そしてそのとても苦しそうな顔を見てしまった。


「わたし、タクと椎名ちゃんの子どもが産まれたとしても、おめでとうって心の底から言えないと思うから」


 それはある種の悪意だった。

 姉ちゃんの、女としての悪意だった。

 その悪意に苦しむ姉ちゃんの顔を見て俺は何も言えなくなってしまった。


 子どもを産めなくなった姉ちゃん。

 誰よりも家族を求める姉ちゃん。


 だからこそ椎名の事を疎ましく思ってしまうのだろうと思った。


「苦しいよタク……。わたし、タクのことも椎名ちゃんの事も大好きなんだよ。なのに、羨ましくて仕方がないの……。ふたりの事、恨みたくない……」


 俺の考えが浅かったと今気付いた。

 3人で一緒に居たいと思う事が、どれほど難しいのかをもっと深く考えるべきだった。


 考えているつもりではいた。

 でも、姉ちゃんが子宮を失ったという事がどれほど深刻な事なのかをもっとちゃんと考えるべきだった。


「桃姉……」

「……椎名、ちゃん……」


 いつの間にか起きていた椎名は泣いていた。

 姉ちゃんも泣いていた。


 月明かりは涙だけを残酷にも煌めかせていた。

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