第101話 甘い夢。

 暗がりの中で椎名の目元の涙はそれでも光っていた。

 表情が見えなくてもどんな顔をしているのかは容易に想像できた。

 なのに俺は声をかけることができなかった。

 今この瞬間の正解となるであろう言葉は見つからなかった。


「椎名ちゃん……」

「ご、ごめんね、桃姉。……あたし……」

「椎名っ!」


 椎名からも目を逸らす姉ちゃん。

 涙をぬぐって足早に部屋を飛び出していってしまった椎名。

 椎名の手を握ろうにも姉ちゃんを乗せていた俺には身動きが取れなかった。


「……タク。椎名ちゃんのところに行って。わたしのことはいいから」

「姉ちゃんまで何言って……」

「わたしと居たら、タクは幸せになれないから」

「そんな事ない」

「あるよ。だって今こうなってる。わたしが居なかったらこの旅行だって、椎名ちゃんとふたりで、楽しく過ごせたはずだよ」

「…………なんで、そうなるんだよ…………」


 姉ちゃんの瞳に光は無かった。

 絶望したままの顔の姉ちゃんにはやはりもう何も届かないのだろうか?


 姉ちゃんの事だけじゃない。

 椎名だって姉ちゃんの言葉で傷付いた。

 だから部屋を出て行った。


 今まで姉ちゃんが俺や椎名を傷付ける様なことなんて言ったりしなかった。

 どうしたらいい?

 どうすれば俺は3人一緒に居られる?

 それとも俺のこの望みは傲慢ごうまんで欲張りなのか?


 ハーレムなんて求めるわけじゃない。

 ただ3人で居たい。それだけだ。

 それだけのはずなんだ。


「下ろしてよ、タク」


 冷たくて殺意すら感じてしまうほどの姉ちゃんの低い声。

 こんな声だって今まで聞いたことはない。

 まるで首元にナイフを突き付けられたようにすら思ってしまう冷徹な声だった。


 心が折れそうになった。

 これまで何度もそう思ったことはあった。

 だけど、姉ちゃんのその言葉はあまりにも俺の心をえぐった。


 全身の力が抜けそうになった。

 今この手を離してはいけない。

 そんな事はわかってる。

 けれど、拒まれたこの手にもう一度力を込めるのは恐怖すら感じた。


 これ以上姉ちゃんに嫌われたくない。

 これ以上姉ちゃんに嫌われたら、俺は生きていく理由を失ってしまう。


 そうだ。

 だから手を離すのだ。

 そうすればこれ以上は嫌われなくて済むかもしれない。

 唯一の家族にこれ以上嫌われたらもう生きていけなくなってしまう。


 今手を離したって、時間がきっと解決してくれるかもしれないじゃないか。

 ほとぼりが冷めた頃にまたもう一度、もう一度……俺は、手を伸ばせるのだろうか……


 あの時と同じだ。

 姉ちゃんにフラれて、椎名にみっともなくすがり付いた時と同じだ。


 いや、同じじゃない。

 今度は姉弟にだって戻れないかもしれない。

 それこそえんを切られるかもしれない。


「っ!!」


 姉ちゃんは俺の太ももの上で藻掻いて床に自ら落ちた。

 受け身は辛うじてとったので怪我はしていなかった。


 だが俺は声をかける事ができなかった。

 声が出なかった。


 俺の言葉は届かない。

 俺の想いは届かない。

 俺の願いは叶わない。


 これ以上何かを言う事すらこわかった。

 これ以上手を伸ばそうとすれば俺の心が壊れると思った。


 俺はゆっくりと立ち上がった。

 どうしていいかわからなかった。

 俺は主人公じゃない。

 このこじれた関係性を上手くまとめて幸せハッピーエンドになんてできない。


 今まで何度理不尽に打ちのめされてきたか。

 その度に前を向けていたのは姉ちゃんと椎名と、他にも支えてくれていた人たちが居たからどうにかなってただけの話で。


 この旅行には俺と姉ちゃんと椎名の3人しかいない。

 なのにこうしてバラバラになってしまった今、俺にはなにもできなかった。

 無力どころか俺のせいでこうなっていると言ってもいいだろう。


 そうだ。俺が死ねばいいのではないだろうか。

 そうすれば姉ちゃんと椎名は今まで通り仲のいい姉妹で居られるのではないだろうか。


 そうか。

 俺が邪魔だったんだ。

 俺さえ居なければ問題は問題では無くなる。


「…………ごめんな、姉ちゃん」


 姉ちゃんに聞こえたかすら怪しいみっともない小さな声で俺は謝った。

 俺が姉ちゃんの代わりに事故に遭っていればよかった。

 そうして俺が死んでいればよかった。

 何もかもが丸く収まった。


 そうすれば大切なふたりを俺が苦しめるような事もなかった。


 俺は姉ちゃんに背を向けて部屋を出た。

 一歩一歩の足取りが重たかった。

 踏み出す足に力が入らなかった。


「……父さん、母さん……」


 部屋を出ると寒かった。

 けれどどうでもよかった。

 だってこれから死ぬのだから。

 だからべつに寒いことくらいはどうでもいい。

 どころかむしろ好都合ですらあった。


「今から、そっちに逝くから」


 もうあんまり父さんと母さんの顔も思い出せない。

 遺影を見ていた記憶すら曖昧で父さんと母さんがどんな風に笑ってたかとかも思い出せない。


 親不孝な息子でごめんなさい。

 大切な人たちを幸せにしてやれない情けない男でごめんなさい。


 父さんと母さんじゃなくて、俺が死んでたら姉ちゃんは今も笑顔で居られたかもしれない。

 椎名だって良い男とか捕まえて幸せになれたかもしれない。


 だからふたりの未来を暗くした欲張りな俺は今から独りで死ぬんだ。


「……それでも、幸せになれると思ってたんだ」


 とんだ勘違い野郎だった。

 思い上がってた。

 俺なら姉ちゃんを救えるとか、3人で仲良く暮らせるとかそんな都合のいいことなんてあるわけなかったんだ。


 20歳になってもまだ俺は餓鬼ガキだったんだ。

 甘い夢をずっと見てたんだ。

 甘い夢に縋ってたんだ。

 だからそのツケが来た。


「寒いな」


 ここはどこだろうか。

 椎名を探しに来たわけではない。

 ただなんとなく外を歩いてただけだ。

 けれど見晴らしはよくて、真っ黒な森が目の前に広がっていた。


 靴を雑に履いていたからかかとに枝が刺さってて痛かったけどそれもどうでもいい。


「……遺書って、どうやって書くんだろうか……」


 紙もペンも無い。

 けど遺書さえあれば後はここから飛び降りれば問題は解決する。


「スマホでいいか」


 取り出したスマホで3人のグループメッセに遺書のようなものを書いた。

 とても成人男性が書くような文章ではないけど、綺麗に文字をつづるだけの精神的な余裕なんてなかった。


 だいたい遺書を書き終えたところで靴を脱いで立ち上がった。


「あ、……ふたりが仲直りできるように、あれだけは観てもらわないとな」


 遺書の最後にPCの動画を観るようにと付け足した。

 やれることはやった。

 動画は完成しなかったけど、仕方がないだろう。


「じゃあ、さようなら」


 そう告げて俺は飛び降りた。

 真っ暗な森は闇そのものに見えた。

 風を切る感覚を全身で感じながら、不意に自殺した高原が頭によぎった。


 うらつらみのある男。

 姉ちゃんに酷いことをした男。


 なのにどうしてか俺はその男に同情した。

 たぶんあいつも、もうどうしようもなくて自殺したのだろうなと思った。

 そんな奴と同じことをしてしまった自分を同時に恥じたけど、なんとなく今なら少しだけわかる。


 自分の罪やあやまちに気付いて、どうしようもなくなったことを。

 逃げたかったのもあるだろう。

 その点においてはたぶん俺も同じだろう。

 認めたくないけど、どこまでも堕ちていくこの感覚を前にしたら認めざるを得ない。


 けど、ゆるされたかったのだろうと思う。

 俺の罪があるとするなら、好きになってはいけない人を好きになってしまったことだ。

 そして幸せになりたいと願ってしまったことだ。


 けど赦される事はない。

 その結果がこれだ。

 だから死ぬしかない。

 死んだところでその罪が赦されるわけでもない。

 むしろ罪が増えるだけだろう。


 けれど、もうそれしか方法がない。

 神様が教えてくれるようなこともないのだから。

 だから死ぬしかないのだ。


 どこまでも落ちていく感覚は全身をむしばんでいって意識が音もなく消える間際。


 ただ心の中で呟いた。


 ごめんなさい。

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