第90話 覚悟の話。

 知らない天井、鼻を突くような病院の匂い。

 この匂いは苦手だった。

 警察署で死んだ父さんと母さんと対面した時にこの匂いが僅かながらしたから。


 俺にとって、病院の匂いは死の匂いだ。


「拓斗っ!!」

「…………椎、名…………」

「長谷川くん!」

「たっくん!」

「お母さん! お医者様に連絡をっ!!」


 目が覚めると俺を囲むようにみんなが居た。

 なんで居るのか一瞬理解が遅れたが、姉ちゃんへの臓器提供で手術を受けていた事をぼんやりとしながらも思い出した。

 まだ少し麻酔の余韻というか、そんな感じの変な感覚が残っていた。

 体感的にはほんの少しの時間経過くらいで夢も見ることのない熟睡のような感じでもある。


「……姉ちゃん、は?」


 まだ上手く声も出すのが難しい。

 それでも姉ちゃんが大丈夫なのかどうか聞きたかった。

 俺は最悪死んでもよかったが、姉ちゃんに死なれるのは困る。

 シスコンが姉を守れないとかシスコン失格だ。


「手術は成功したよ。でも桃姉はまだ意識が戻ってないの」

「……そうか」


 成功したならよかった。

 手術前の説明では車に轢かれて主に下半身のダメージが大きいと聞いていたが衝撃で頭も打っている為に手術に成功しても確実に目が覚めるとは保証できないと言われていた。


 それでも、繋ぎ止めることに成功したのだ。

 それだけでも充分だ。


 そこからはお医者さんが来て確認したり検査したりとかで数日入院していた。


 目覚めた翌日には姉ちゃんの寝顔見たさに病室を抜け出しては担当の看護師さんに怒られていた。

 愛川さんというこの看護師さんに速攻でシスコンとバレてからかわれたりもしたがこの看護師さんはクセが強かった。


 仕事中だろうに暇だからメイクさせてとか言い出すしなんなんだこの人って思った。

 なんでも男にメイクして女装させるのが趣味だとかいうのだが、患者相手になにやってんだよって話である。


「拓斗〜着替え持ってきたわよ」

「おう。ありがとう椎名」

「通い妻の如く身の回りの世話をする幼馴染。とっても偉いと思わない? あたし」

「それを言わなければ完璧だったな」

「褒めてくれてもいいじゃないの。椎名ちゃんマジ天使! とか」

「病室に天使が現れたらそれはもうお迎えなんだよなぁ」

「……それは笑えないわね……」


 入院して思い知った事であるが、実際入院すると着る服とか色々と困ることがある。

 椎名には助けてもらってばかりだった。

 もちろん他のみんなも気を使ってくれたりしてもらって有難かった。


 俺は姉ちゃんを助ける為に必死だったが、俺もまた誰かに助けられている。

 手術後の入院の事とかは完全に頭から抜けていたのでもうおんぶにだっこ状態だった。

 椎名には元から長谷川家の合鍵を渡していたので好きに出入りできる状態でもあったのも大きい。


「退院は明日だっけ?」

「予定ではそうだな。まあ問題はなさそうだとは言われてるし」

「そっか」


 ベッドに座って足をパタパタさせる椎名。

 姉ちゃんの世話もしてくれているからほんと頭が上がらない。

 日の出ているうちの空いている時間は姉ちゃんの手を握っていてくれていると愛川さんから聞いている。

 いつ目を覚ますかわからない。

 このまま目を覚まさない可能性もあるとは言われている。


 だから俺も椎名も姉ちゃんの手を握ってただひたすらに祈るのだ。


「と、ところで最近、大丈夫なの?」


 少し頬を赤くしてなんとも曖昧な質問をしてきた椎名の意図が分からず困った。

 着替えとかは今持ってきてもらったばかりだし、困っていることはとくにない。


「ん? なにが?」

「いや、その…………なんでもないわ」

「飯の話か? 飯はまあ、病院だしなぁ。健康になっちまうよ全く」

「ご飯の話じゃないんだけど、まあいいわ」


 どことなく子どもっぽいようないじけ方にわけがわからなかった。


「聞きたいことがあるなら聞いてくれ」


 俺はしびれを切らしてそう言った。

 普段椎名がこのような曖昧な表現をすることはあまりない。

 察して、みたいなことはたまにあるが、大概俺にはわからない。というか大多数の男は世の女性の察して欲しい事を察するのは難しいと思うわけでして。


「……欲求不満だったり、するかなぁ、とか思って……」


 なるほど。

 うん。言いたい事はわかった。


「椎名」

「な、なによ?」

「そういうのってたぶん両手が骨折とかしててとかのパターンのやつだろう? たしかに病院という特殊なシチュエーションではあるが」

「うっさいわね! もういいわよ!」


 入院中の数日の間に何度か病室を移動していたりしたが、個室じゃない時はたしかに欲求不満ではあった。

 とくに他の患者たちが全員男だけだったので男っ気しかない分大変だった。


 椎名たちが帰った後におじいちゃんの患者に「どの子が彼女なんじゃ? モテるんじゃなぁ」とか弄られたりした。ヤッたのかとかあれこれ聞かれたりもした。


 単純に少しでも愉快な話がしたかったからそんな下世話な話をしたのだろうと思ったので俺はキッパリとシスコンである事をおじいちゃん患者やおっさん患者に告げてやった。

 実姉が好きで処女をもらったのだと言ったらみんなテンション上がってた。そんな気狂いは初めて見たとむしろ近親でヤッたらどうだったのかとか聞かれて大変だった……


 閉鎖的な空間に長いこと居るとたしかに欲求不満にはなるのだろう。

 入院して初めて知った、というか実感したことだった。

 普段の俺なら姉ちゃんとのそういう話はしたくない人間だが、このおっさんたちにシスコン魂を植え付けてやろうと思い話したりもした。

 もちろん同じ病院内に姉ちゃんが居ることは隠してである。


 今はまた個室になったのでそういう事もないが。


「椎名」

「なに? ……っ?!」


 俺は椎名を抱き寄せた。

 欲求不満とかじゃなくて、そういうことではなくて、もっと大事な話がしたかった。


 俺の胸に寄りかかるようにして身を預けている椎名を抱き締めたまま俺は話を続けた。


「俺、高校を休学することにした」

「……え?」

「姉ちゃんのこともあるし、俺が働かなくちゃいけない」


 入院中に考えていたことだ。

 欲求不満になる余裕なんて正直無かった。

 病室で今も眠る姉ちゃんの顔を見て、このままではいけないことはわかっていた。


「入院費も掛かるし、生活もある。だからバイトは続けて隙間時間に動画編集して、姉ちゃんの世話をして。だから高校は休学する」

「……」


 大学に行ける余裕なんてものはいよいよ無い。

 どころか今の生活もできなくなるだろう。

 あの時姉ちゃんが高校を辞めて働き出したのと同じように、今度は俺がやらないといけない番なのだ。


「たぶん、大学にもいけないだろう」

「……パパとママなら、頼んだら出してくれる」

「しぃパパとしぃママにはお世話になりっぱなしだし、これ以上は頼るつもりはない。それに、大事にしたい関係性だからこそ金のやり取りはしたくない」


 目覚めない姉ちゃん。

 親族である俺は病院側との金の話もしていた。

 だからこそ、その責任の重さを少しくらいは知っている。

 とにかく金が掛かる。それを椎名の両親である七島家に頼るのは良くない事と思った。


「けど、そういう話をしたいんじゃないんだ」


 俺は椎名を強く抱き締めた。

 けれど痛くないように気を使いながら。


「たぶん姉ちゃんはもう今の仕事はできないし、ひとりでは生きにくい。介護生活みたいなことにもなる」

「……」

「それでも俺がちゃんと自立できるようになったなら、俺と結婚してほしい」


 椎名に、助けられてきた。助けられ続けてきた。

 それは今までずっとそうだったし、これからもそうなるのだろうとは思う。


「……はい……」


 椎名は俺の胸に顔をうずめたまま抱き着いてきたので顔は見えなかった。

 けれど泣いているのはわかった。


「幸せにしてやれるかどうかはちょっと自信ないけど」

「……それでも、いいから」


 俺はずいぶんと都合のいい事を言っている。

 歩けなくなってしまった姉がいる状況で、それでも傍に居てくれと言っているのだから。

 苦労するのは目に見えている。

 間違っても順風満帆じゅんぷうまんぱんな生活とは言えないだろう。


 それでも、俺と姉ちゃんの傍に居てくれるのはたぶん椎名しかいない。

 こんなに尽くしてくれる椎名を、それでも俺は幸せにしなければならない。自信なんて無くても。


「苦労を掛けると思う」

「……そんなの、今更だし」

「すまん」

「それに、あたしだけでしょ。拓斗と桃姉の関係を許容できるのなんて」

「嫁公認近親不倫ということで」

「……人類史上かつてないほどの最低なプロポーズね」


 泣きながらくしゃくしゃな笑顔をした椎名。

 全く本当に最低な最悪なプロポーズだと自分でも思った。どれだけ都合のいい話なんだとも思う。


「でも、桃姉以外は赦さないから」

「あ、はい」


 涙混じりのジト目の椎名さん、こわいです……









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