第89話 まっしろ。

 気が付くと、そこは真っ白な空間だった。

 何も無い。ほんとにひたすらに真っ白な空間。

 真っ白だけど眩しいと感じることもない。

 どこまでも続いているという空間的な不思議な感じがした。

 俺はこんな場所は知らないはずなのに違和感とか恐怖感とかはそれでも感じなかった。


「……てか俺全裸じゃん……」


 なんで全裸なんだ……

 てか今どうなってんだ……まあいいか。

 ここが現実世界ではないことは肌感覚的にわかっていた。


 というよりはこちらが本当の世界のひとつなのだろうと自覚した。

 でもここにいる記憶は現実世界向こうに持っていけないこともわかっていた。


 幽霊とか神とか、宇宙人だとかそういうオカルティックな事を信じてるわけじゃないけど、なんとなくわかるというかなんと言えばいいのかわからなくなる。

 日本語として思考して頭の中で言語化しようとすると情報量が圧倒的に足りない感じだろうか。

 語彙の多い日本語でも表現できない圧倒的な全てがここの空間とでも言うべきだろうか。

 要するにこの空間は人智を超えているなにか。

 それが今の俺に表現できる限界とでも言うか、或いはそれが人類にできる表現でもあるとは思う。


「でもなんで俺はここにいるんだ……?」


 ここがそもそもどこなのか?

 どこ、という表現も適切なのかはよくわからないが、物質的な地球ではないのはわかる。だがそれでもなぜ俺が今この真っ白な空間にいるのかはよくわからない。

 でも思い出せる直前の記憶ではたしか姉ちゃんを助ける為に臓器移植手術を受けていた。


「……もし、もしもだが、俺は死んだ? とか?」


 臓器移植手術の臓器提供者ドナーと言っても身体にメスを入れる以上リスクはあるわけで、手術に失敗して死んでいわゆるこの空間の「天国」とかにいる、という認識なら話の流れとしては理解できなくもない。

 でもここが「天国」というのもしっくり来ない。


 というかたぶんそもそも天国とか地獄というのが何かしら違うのではないかと思う。

 天国と地獄にはくっきりとした境界線があるような表現だが、本質はたぶん違う。

 境界線ってのは未熟な人間が分かりやすくする為に引いた愚かな線引きだ。


 そう思った。

 でもなぜそう思ったのかもよくわからない。

 少なくとも俺はそんな変に達観たっかんした考え方なんてしていないはずだったし。


「にしてもここってあれだな、精神と時の部屋みたいだな」


 あの空間から建物とかあらゆる物質を無くした感じだ。うん。

 そしてこの空間が俺の認識から出来ていることが瞬間的に理解した。或いはそういう認識でも合っているというべきか。


「うぉぉなんか頭の中がごちゃごちゃしてきたぁ?!」


 ここにいると頭が変になる。

 何かに気付いてしまえばあらゆる情報が頭の中に注ぎ込まれてしまいそうな感覚。

 今なら世界の真理すら理解出来てしまいそうな漠然とした恐怖。

 それは同時に自分がどれだけ何も知らない愚か者だったかを無理矢理自覚させられてしまうのかという自我の崩壊の予感とでもいうべきか。


 とにかく頭がおかしくなる。

 ここに独りでいる事がそもそもおかしくなりそうだった。

 夢なら覚めてくれ。

 そう願わずにはいられない。


「タク」

「……姉、ちゃん?」


 振り向くと姉ちゃんが居た。全裸だった。

 姉ちゃんも全裸なのかと思いつつも不思議と興奮はしなかった。そりゃもうピクリとも動かない。

 不思議に思うのになぜかその事を納得していた。

 だってこの身体は欲というものが必要ないのだからと無意識にわかっている。のに俺はわからない。

 いやそもそも俺ってなんだ?


 ……やめろ。俺は長谷川拓斗だ。

 そんな名前は知らない。

 勝手に前世の記憶とか頭に流し込むんじゃない。


「……俺は、誰と話してんだ……?」


 頭の中で誰と話してる? そもそも話してるのか?

 やめろ認識とか概念とか思い出させるな人間のままでいさせろ気が狂う。


「タク」

「助けて姉ちゃん」

「大丈夫だよ。タクは」


 そう言って姉ちゃんは俺を抱き締めた。

 ぬくもりを感じて安心した。

 でも人肌ではない。

 記憶でできたぬくもりだと直感した。


「……姉ちゃん。ってどういうことなんだよ?」


 姉ちゃんの不自然な言い回しに気付いた瞬間、俺を抱き締めていた姉ちゃんの両足が突然引きちぎられたみたいになって傷口から血が溢れ出した。

 足だけじゃない。

 下腹部にも穴が空いていて、その穴から溢れる血の隙間から真っ白な空間も少し見えていた。


 足が無くなった拍子ひょうしに姉ちゃんは俺を押し倒された。

 抱き締めていてくれたはずの姉ちゃんは俺にすがっている状態になっていた。

 姉ちゃんの豊満な胸が押し当てられている感覚も再現されていた。


 仰向けに倒れている俺に乗っかる姉ちゃんの口からは血が垂れていた。

 それでも姉ちゃんは痛みを感じている様子はなくて、それが不気味でもあり安心できた。

 苦しんでないならそれでいい。


 姉ちゃんの唇は少しずつ俺に近付いてきて気付けば触れ合い舌を絡ませていた。

 脳みそが溶けていくような快感は現実世界以上だった。

 それでも姉ちゃんの体からは血が溢れ続けている。

 姉ちゃんは俺の肩を掴んで唇を離した。


「タクの命、少しもらうね」

「ああ。その為にここに来たんだ」


 俺は何を言っているんだろうかと思った。

 でもその意味を、その意味の本質を俺は間違いなく知っていた。


 姉ちゃんは俺の左肩を愛おしそうにキスをして、その次には噛み付いた。

 肩の肉を噛みちぎって咀嚼して、肩の傷口から溢れる血を飲んでいた。


 痛いと感じたのは一瞬だけで、姉ちゃんがむさぼるように血を飲んでいるのを俺は喜んでいた。

 狂気的ななにかではない。

 自分の一部を姉ちゃんに分け与えられる事を純粋に嬉しいと思っていた。

 俺の血と姉ちゃんの血が混ざり合う感覚が全身にほとばしっていた


 これはおそらく現実世界の人間とは乖離かいりしている。

 でも目の前の姉ちゃんは間違いなく姉ちゃんだった。


 お互いに血塗れで、その垂れ流れていく血はどこまでも真っ白な空間に広がっていく。

 猟奇的りょうきてきな現状のはずなのに、そこに恐怖はない。

 どころか俺は俺の血をすする姉ちゃんを抱き締めて頭を撫でていた。

 愛おしさだけが溢れてくる。


 溢れているのは血ばかりなはずなのに。

 なんなら片方の腎臓が消失してそこから血が垂れ流れているのに、感じるのは姉ちゃんと繋がっていくような一体感はセックスを遥かに凌駕りょうがしていた。


 自分の片方の腎臓がなくなって、姉ちゃんの一部になった事を理解した瞬間、臓器移植手術は成功したのだとわかった。

 現実世界での手術は成功したのだ。


 いや、正確にはという方が正しい。

 これはある種の契約であり、滞りなく成立した魂の契約。


「ありがとう。タク」

「もういいの?」

「うん」


 依然として俺に馬乗り状態の姉ちゃんは血を飲み終えてぐったりと俺の胸に倒れ込んでいた。


「これ以上はタクが逝っちゃうから」

「それでもよかったけど」

「それはだめ。たぶんこれからもタクが居ないとダメだから」

「そっか」


 お互い、これから先の未来を見ていた。

 これから起こることも、起こってしまう事もわかっていた。わかってしまった。

 けれども向こうに戻ったら全てを忘れているのだろう。


 だから俺も姉ちゃんもまだ死ねない。死なない。


「じゃあ、そろそろ戻ろう姉ちゃん」

「うん。あ、でも……」


 姉ちゃんは自分の足が無い事を思い出してどうしようかと迷っていた。


「姉ちゃん、おんぶかお姫様抱っこ、どっちがいい?」

「じゃあ、お姫様抱っこ」

「承りましたお姫様」


 お互い血塗れなまま、俺は姉ちゃんをお姫様抱っこして歩き出した。

 姉ちゃんは嬉しそうに微笑んでいた。


「タク」

「ん?」

「もう少しだけ、眠ってるね」

「ああ。ゆっくりするといい」

「うん」


 姉ちゃんはそう言って目を閉じた。

 姉ちゃんの体の中にある俺の腎臓が熱くなるのがわかった。

 それは体の内側を焼くような熱さであり、姉ちゃんの身体の隅々まで熱い血が行き渡っていく。


「待ってるよ。姉ちゃん」


 俺は眠る姉ちゃんの頬にキスをした。


 これからまだ分岐点がある。

 俺も姉ちゃんも踏ん張り時だ。


 眠った姉ちゃんを抱えたまま、いつまでも歩き続けて次第に真っ白は眩しくも優しく俺たちを包んでいた。


「わかっちゃいるが、しんどいなこりゃ」


 真っ白な空間が終わる間際、そうボヤきつつも俺は笑った。まあでも向こうの俺、頑張ってくれ。


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