第87話 手術前。
人生において、手術台に乗るような事は今までなかった。
ドラマとか映画の話だとすら思ってた。
父さんと母さんは即死だったから、身元確認で警察署だった。
その時姉ちゃんは握っていた俺の手をさらに強く握り締めていた。
父さんと母さんの死体を見た時はあまり現実感がなかった。
なにかの冗談なんじゃないかって思った。
というかそうであってほしいと思ってた。
けど現実はどうしたって無情で理不尽に毎日を繰り返していく。
そして姉ちゃんは高校を辞めて働き出した。
姉ちゃんは生活が苦しくなってもいつも「大丈夫だよ」と言って笑ってみせた。
それが不安に
中学になって、俺は姉ちゃんの事が好きなのだと気付いた。
思春期だから、一種の気の迷いだと思った。
だから好きじゃなくなるようにと悶々としつつも諦められるようにしていた。
その時は姉ちゃんとの距離は遠かった。というか遠ざかるようにしていた。
自分の気持ちは単純なマザコン的なものの一種なのではないかとも思った。
親が死んだのは小学生の頃で、俺は姉ちゃんを母親として見て安心しようとしているだけなのではないかと。
姉ちゃんは今でこそ母性を感じる素敵な女性だが、その母性は親が死んでからだった。
元々母性というのは母親が子どもを守る為の本能を言う言葉であるが、人間が使う母性とは女神様のような慈愛のあるあたたかな何かであるように感じる。
姉ちゃんは俺を守ろうと懸命に働いていたし、精一杯の笑顔で傍に居てくれた。
けれど親が死ぬまではよくあるような姉と弟だったんだ。
姉ちゃんは俺をよくからかってたし、わりとわがままな方だったと思う。ちょっと鬱陶しいとすら思ったこともわりとある。
普段の椎名をマイルドにしたような感じとでも表現するべきか。
あとよくパシられてた。
昔の俺は渋々飲み物とか取りに行かされたりした。
断ったら殴られる、とかはなかったけどな。
姉ちゃんの事を好きになって、それからいつだったかに俺と姉ちゃんは半分しか血が繋がってないのだと知った。
でも知ったのも中学の間だったのは覚えてる。
たぶんそれが余計に姉ちゃんへの気持ちに拍車をかけた。
たまにあるだろう。
従姉妹とか遠い親戚の歳の近い異性に好意を抱くようなそれに近いんだとは思う。
親戚とかいないから実際は知らないけど。
要するに自分の中でそれが免罪符になってしまったのだろう。
それからだった。色々調べ始めたのは。
そして調べれば調べるほどにもどかしい気持ちになっていった。
こんなにも近いのに、どうしようもなく遠い。
姉ちゃんが姉でなければもしかしたらこの気持ちは
だけど姉と弟という関係性でなければおそらく俺が姉ちゃんを、長谷川桃という女性を好きになることはなかったのかもしれないわけで。
だからどうしようもなくもどかしくて、気持ちを隠して一生を姉と弟として生きていこうと思ってた。
まあどんだけ隠してても椎名にはすぐにバレた。
たぶん、初めから椎名を好きでいればこんなにも苦しむことはなかっただろう。
姉ちゃんは姉ちゃんで、俺はただの半分血の繋がった弟でそれぞれおおよそ真っ当な幸せな生活が出来たかもしれない。
椎名にもそういえばよく言われていた。
「あたしを好きになればいいのに」と。
そしたら全部解決じゃんと。
たしかにそれが1番丸く収まる。
けどそうはならなかった。
もちろん椎名の事が嫌いなわけじゃない。
親しみは感じてたし愛着というか、それに近しい感情はあった。
それでも姉ちゃんの事を好きなままだったのはどうしてだろうか。
禁断の恋というやつだからだろうか。
好きになってはいけない人を好きになった。
それは例えば先生と生徒とか、他人の恋人、あるいはその婚姻関係にある異性か。
それともそんなことではなくて、俺は姉ちゃんに
姉ちゃんは「家族」に固執してて、俺は「姉」に固執してた。そう考えると
家族と姉とでは本質が違う。でも近しいものだ。
恋愛とは難しい。
俺と姉ちゃんと、俺と椎名。
どっちも普通とはおそらく違う。
キラキラしてるような初々しい感じはない。
ただひたすらあたたかい何かを求めている。
「拓斗……」
「椎名」
俺の左手を優しく握る椎名。
そして右には意識のない姉ちゃん。
眩しい光はあの世すら連想させる異質な空間。
椎名の顔は心配からか不安げだった。
手術をするのだから、失敗するリスクは少なからずある。
事前に手術についての注意点やリスクは聞いているし、承知した上で受けている。
最悪俺が死んでも姉ちゃんが助かればいいとか言ったら椎名にビンタされた。
ふたりとも生きてて初めて意味があるんだからと言われて、冗談だよなんて気休めも言えなかった。
まあ、冗談じゃないのが椎名にはバレていたのだろう。
「椎名」
「……なに?」
「ちょっと姉ちゃん助けてくる」
「なにカッコつけてるのよ……」
「カッコイイだろ」
「バカね。ほんと」
そう言って椎名は涙混じりに微笑んだ。
そこからの記憶はない。
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