第86話 理不尽。
「緊急手術は成功しましたが、今のままでは長くは持たないでしょう」
緊急治療室から出てきた医者は淡々と俺たちにそう告げた。
その宣告は俺にとってこの世の終わりのように感じた。
病院に着いて医者に言われた第一声がこれであり、思わずに医者に掴みかかりそうになったところを椎名が止めた。
「先生……『今のままでは』っていうのはどういうことなんですか?」
震える手で俺を掴んで
タクシーの中では1度冷静になっていたが、言葉ひとつでこうも荒ぶる自分の未熟さを感じつつも無理やり深呼吸をして少しでも冷静になろうと
それでも目の前の医者に対して睨み付けるようにしてしまうのはただの八つ当たりであり、行き場の無いこの怒りは収まらない。
そんな俺を医者は静かな目でただ見つめるだけだった。
この医者からすれば、姉ちゃんもただの患者の1人なのだろうさ。
そうじゃなきゃ救う為に仕事ができないのもわかるけど、それでも今の俺には綺麗事でもいいから言って欲しいのだ。
大丈夫です。助かりますって。
「詳しくは別室にてお話致します」
病院の廊下に響く足音の反響にすら
どうしてこうなっているのか。
姉ちゃんはただ俺の為に頑張っていてくれただけなのに。
どうして姉ちゃんはこんな目に合わなきゃいけなかったのだろうか。
「緊急手術は成功してなんとか一命は取り留めましたが、内蔵が著しく損傷している状況であり、臓器移植が必要です」
「内蔵が……」
「失礼ですが、ご両親は」
「数年前に事故で両親共に死んでます。姉が俺にとっての保護者で、唯一の血縁です」
「……そうですか」
医者は険しい顔をした。
こんな話を未成年の学生相手にするのはこの医者でも躊躇ったりはするのだろう。
或いは責任の話か。
「移植に必要な臓器はなんなんですか?」
「腎臓です。腰を強く打ち付けていて両方とも激しく損傷していますので」
「……俺は姉ちゃんとは半分しか血は繋がってませんけど、血液型は同じです」
「血液型が同じでも適合検査は必要になりますが、弟さんがドナーとして合意して頂けるならこちらとしても対応できます」
その言葉を聞けて少しだけほっとした。
まだなんとかなるかもしれない。
「ですが臓器移植が成功したとしても、車椅子での生活にはなると思われます」
「それでもいい。生きててくれるなら」
車椅子での生活。
それはつまり今の仕事はもうできないという事であり、どころか働く事すら難しい状況であるという事なのだろう。
でもそれでもいい。
姉ちゃんが生きててくれていれば、それだけでいい。
なにも望まない。
一生介護をしたっていい。
学校も辞めて働いたっていい。
姉ちゃんは今まで頑張って俺を養ってくれてたんだから、今度は俺が姉ちゃんの為に働けばいい。
姉ちゃんの為ならマグロ漁船だろうが殺し屋だろうがなんだってやってやる。
……それでもいいから、生きててほしい。
「それともうひとつ、弟さんにはお伝えしておかなければいけない事があります」
「……なんですか」
発狂しそうな精神状態の中、医者はそれでも現実を突き付けてきた。
今の俺にはこの医者が悪魔にすら見えてしまう。
「お姉さんの子宮が破裂していて、もう子どもは望めない体に……」
姉ちゃんの子宮が? 破裂?
……頭がその事実を飲み込めない。
隣にいた椎名は口元を両手で押さえて愕然としていた。
子どもが望めない。
姉ちゃんは誰よりも家族を大事にしてて、その繋がりを誰よりも求めてた。
その姉ちゃんが、もう子どもを産めない。
こんなことが、あっていいのだろうか。
どこまでも残酷なこの現実を俺はどうやって受け入れればいいのだろうか。
姉ちゃんが一体誰に何をしたって言うんだよ。
どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだよ。
意味があるなら誰か教えてくれよ。
ふざけんなよ……
「……そう、ですか……」
絞り出して言えたことはそれだけだった。
俺だって、姉ちゃんのと子どもがほしかった。
デザイナーズベイビーなら可能性はあった。
新しい戸籍を手に入れて赤の他人として姉ちゃんと結婚して、俺たちの新しい家族だって未来にあったかもしれない。
けれどその未来すら根本的に奪い取る絶望的な事実は受け入れ難いことだった。
なにかの間違いなんじゃないかってさえ思う。
それともあれか? この医者は俺と姉ちゃんの関係を知ってて馬鹿にしてるんじゃないのか?
近親で恋愛とかキモイとか思ってたりするのか?
だからこんな意地悪な事が言えるのか?
……わかってるさ。
この医者にそんな悪意もなければ知ってるはずもないことくらい。
「現状の説明は以上ですが、一刻も早く臓器移植は必要ですので適合検査を受けて頂かないといけません」
「……わかりました」
思うところはある。
いくらでもある。
理不尽だと訴えたい。叫びたい。
けれどそんなことをしても意味がないと頭ではわかってる。
現実と感情の不一致で頭がおかしくなりそうだ。
それでも今はそんなことをしてる暇はない。
今姉ちゃんを助けられるのは神なんかじゃなくて、俺だけなのだ。
だから俺がしっかりしないと。
姉ちゃんの為に。
そう無理矢理に自分に理不尽を飲み込ませて俺は立ち上がった。
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