第85話 大人の毒。
笑顔でいることが苦しくなったのはいつからだろうか。
「次生頼むけど長谷川さんどうします?」
「あ、じゃあわたしも同じのをお願いします」
知っている。
タクと離れて暮らすようになってからだ。
今もこうして新人の歓迎会をしている間も、無理にわたしは笑っている。
「長谷川ちゃん、あんまりご飯食べてないっぽいけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ。最近ダイエットしてるだけなんですよ」
「長谷川先輩、そんなスタイルいいのにダイエットしてるんすか……私なんて暴飲暴食で最近彼氏に小言言われたっすよ……」
新しい職場。新しい同僚。新しい環境。
もろもろ全部がストレスになる事くらいは知っている。
それでも忙しい中でもちゃんとコミュニケーションを取れていれば問題なんてなくなる。
でもそういうことじゃない。
「長谷川くんってお酒強いんだね」
「え? そうですかね?」
「わりともう結構飲んでるでしょ?」
「そんなに飲んでましたっけ? わたし」
お酒を飲んでいても、どこかさめている自分がいる。
飲んでるのに酔えていない。
酩酊感はあるのに、どこまでもただ不快に感じるだけのこのお酒をわたしはそれでも飲んでいる。
酔うことすらできないお酒なら、それはもうただの毒でしかない。
「長谷川先輩って彼氏とかいるんすか?」
「いないよ」
「……私なんかより美人なのに……」
「恋人作る余裕とかあんまりないし」
嘘ではない。
タクとはもう別れている。
……姉弟での恋愛についての線引きって難しい気はするけど、でもたぶんそうだ。
普通の姉弟として今わたしは生活している。
自分で言った言葉が間を置かず心に刺さる。
タクへの想いを引き摺っている。
それでも愛想笑いができるのは接客業をしてきたからだろう。
なんでもないふりをするのが上手くなっている。
上手くなってしまっている、という方が近い気もするけど。
「そろそろお開きにしよう。早く帰らないと嫁が怒るんだ……」
「店長が遠い目をしてる」
「店長とこのお子さんちっさいっすもんね」
時刻は21時を過ぎていた。
3号店は今日他店舗からの応援が来てくれていてみんな休みだったから18時から飲んでいた。
やっと帰れる。
今のわたしに、新人さんを歓迎できるだけの心の余裕はない。酷い先輩だと思う。
仮にも主任なのにね。
「というわけで、また明日から仕事なわけですけども、3号店を盛り上げていきましょう! お疲れ様でした! 解散!!」
店長の締めの挨拶を聞き終えてみんな立ち上がった。
よろけててみんなフラフラの酔っ払いたち。
わたしも思いのほか足にきていてバランス感覚が危うい。
それでも帰れるのが嬉しい。
解放されたような気持ち。
そして一瞬、こう思うのだ。
『タクに会える』と。
でもそう思った瞬間にはもうそういう関係ではないことを思い出して悲しくなる。寂しくなる。
ちょっと前なら、酔っ払ったわたしがタクに抱き着いて「酒臭い」と言われてじゃれ合ったりしてたのに。
「お疲れ様でした〜」
「お疲れ様です〜」
「お疲れ様で〜す」
店長はタクシーを呼んでそそくさと帰っていった。
わたしは家が近いから歩いて帰るけど、今の足取りでは遠く感じる。
「長谷川さん、今から2人で飲み直しません?」
「あ、高原くん」
本日の主役の高原くんは陽気に話し掛けてきた。
個人的にはひとりでゆらゆらしながら帰りたいし、飲み直したい気分でもない。
「ごめんなさい。わたし明日早いから」
「いいじゃないっすか〜。同じ2号店のメンバーだったじゃないですか」
「う〜んでも……」
やけに近い距離感の高原くん。
その距離に居ていいのはタクだけであって、不快感を感じた。
2号店の時に高原くんとお酒を飲むことはなかったからわからなかったけど、お酒が入るとと雰囲気がだいぶ変わってしまうタイプのようだ。
正直、あまり得意ではない。
「今日の主役っすよ?」
「それはそうだけど……節約もしたいし」
ほんとは歓迎会だって行きたくはなかった。
仕方ない付き合いだと思ったから参加したし、3号店でこれからも仕事をする為の必要経費だと思っている。
けれどわたしがここに来て主任をしているのはお金を稼ぐ為でもあるわけで、高原くんと飲む為に使いたくはないなぁと思ってしまう。
こうして断る理由をぼやけた頭で考えるくらいには、わたしは高原くんの事が苦手だ。
「いいんですか? 断っても?」
「……えっと……どういうこと?」
「おかしいなと思ってて」
「……なにが? かな?」
急に高原くんの雰囲気がガラリと変わったのがわかった。そしてそれを怖いと感じた。
同僚たちはもう周りにはいない。
「なんで長谷川さんが主任なのかなぁって思って」
「……なにが言いたいの?」
「話を聞くと2号店の店長が推薦したって聞きましてね」
「そう、だけど?」
変な
そしてそれはある種の悪意でもある。
「長谷川さんって中卒じゃないっすか。なのにもう主任任されるとか普通ないっすよね。中卒なのに」
「……中卒なのはそうだけど」
「店長にカラダでも売ってたんじゃないですか?」
高原くんの歪んだ笑顔。
わたしの事を馬鹿にするのはいいけど、店長はわたしにそんな事はしなかったし気遣ってくれていた人だ。
「そんな事してません」
「ほんとにぃ?」
「ッ?!」
肩を掴まれて全身に悪寒が走った。
いやらしく肩を撫でるその手に嫌悪感が一気に増していく。
怖くてどうしていいかわからなくなる。
こんな時にタクが居てくれたらと思わずにはいられない。
「まあいいや。本当の事とかどうでもいいし」
そう言ってあっさり手を離したので一瞬安堵した。
けどその安堵もすぐに意味を無くした。
「店長にカラダ売って主任になったって職場に言いふらされたくなかった俺の言うこと聞いてた方がいいと思うけどなぁ」
今度は反対側の肩まで手を回して密着するような状態で耳元で
耳に掛かるその息で全身に鳥肌が立った。
おぞましいと思った。
獣に襲われそうになっているような感覚。
「……そんな事してないから、言っても無駄だよ」
「納得力の話っすよ。中卒の長谷川さんが小規模の卸売会社とはいえ出世して、そう思う奴だっているでしょって話」
「……脅してるの?」
「いやぁ? べつに。独り言っすよ。職場の休憩中にポロっとそういう事とか言っちゃいそうだなぁって思っただけっすよ」
腕を回していた高原くんはおぞましい笑みを浮かべたままわたしの腰を撫でてきた。
この人に触れられたくない。気持ち悪い……。
脳裏にタクの顔が浮かんだ。
そしてタクに届かない助けを心の中で何度も唱えるように祈った。
「ね? だから飲み直しに行きましょうよ」
「…………嫌っ」
わたしは高原くんの手を振り払って走った。
けどお酒のせいでまともに走れなくてよろけてしまった。
そして横から光が迫ってきた。
その近づいてきた光が車のヘッドライトの灯りだと気付いた瞬間、わたしの視界はグニャリと鈍い音と共に歪んだ。
意味がわからなくて、でも恐怖もなくて。
どうなっているのかよくわからない。
薄れていく意識はわたしが誰なのかすらわからなくなっていくようで、それがどこか気持ちいいとすら思った。
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