第77話 執着。

 姉ちゃんが引っ越してから3日。

 依然として落ち込んだままだった。

 それでも椎名に連れられて学校やバイトに行ったりはしていた。

 そもそも口数が多い方ではないし、特段仲のいい奴が椎名以外にいるわけでもないので問題なく過ごせてはいた。


「……サボってた家事、やんないとなぁ……」


 以前は姉ちゃんの為にとあくせく家事を率先してやっていたが、ひとりになるとどうでもよくなってしまっていた。

 しかし生活しているとどうしても買い出しや洗濯などしなくてはならない。


 たぶんみんな日々の生活に追われて心の傷が見えなくなってくまで堪えているんだろうなぁ、とかなんとなく考えながらいざ洗濯機の前に立った。


 そして俺は立ち止まった。


「……姉ちゃんの、パンツ……」


 おそらく姉ちゃんのであろう桃色のレースのパンツ。

 椎名のではないだろう。なにせ隣の家なのだから、そうそう長谷川家の洗濯機を使うようなことはない。

 そしてやはりどう見ても女物のパンツであり、というか前に姉ちゃんとの行為時に見たことがあるパンツであった。

 可愛いと褒めたら照れていたのを憶えてる。


 俺はその姉ちゃんのパンツを手に取った。

 手に取ってしまった。

 震える手でそのパンツの手触りを感じ取った。


「……落ち着け、俺。これはなんというか、人としてやってはいけない気がする……」


 シスコンである俺がそれでもやらなかったこと。

 この一線を超えてしまうのはいけない。

 だが姉ちゃんを感じられる確かなもの。


 しかし脳裏には姉我好先生がチラつく。

 姉ちゃんのパンツで失恋から来る傷心を癒そうというのはいよいよ人としての大事な何かを失う気がする。

 そんな葛藤を抱えながらも少しずつ姉ちゃんのパンツは自然と鼻先へと近づいてくる。


「拓斗〜晩ご飯食べ……」


 いつの間にか家に来ていた椎名と目が合った。

 洗濯機の前で姉ちゃんのパンツ片手に震えている俺はどう見ても異常者である。


「…………」


 流石の椎名でも、こんな俺を目撃してしまったなら幻滅するだろうか。

 正直、それでもどうでもいい気はしている。


 姉ちゃんにフラれてそれだけ自暴自棄な今の自分にとって、この社会的に死にかねない状況下にあるにも関わらずこの手に握るパンツを手放そうとはしていない。


「……拓斗、それは駄目」

「…………」


 あきれた顔をしながら近付いてくる椎名。

 持っていた姉ちゃんのパンツを取り上げられてしまい悲しくなった。


「拓斗、正座」

「…………はい」


 幼馴染に姉ちゃんのパンツを手にしているのを見られ、そして正座させられるとか死にたいな。


「拓斗、これは桃姉から盗んだの?」

「……いえ、洗濯機回そうと思ったら入ってて……」

「なるほどね」


 カゴに溜まりに溜まった洗濯物たち。

 フラれてからまともに家事をしていなかった事は椎名も知っている。

 辻褄は合うと思ったのだろう。


「で、たまたま見つけて嗅ごうとしたと」

「……はい。葛藤してると椎名さんが来ました」

「葛藤してる時点で色々と駄目だけど……よく堪えたと褒める方がいいのかなぁ……」


 貶されようが褒められようが最早どっちでもいい。

 殺してくれよいっその事。


「百歩譲ってあたしのだったら許すけど、桃姉のだし……」

「…………」


 それはそれでどうかと思うが、椎名曰く自分の物ではないので判断が面倒、らしい。


「とりあえずこれはあたしが桃姉に渡しとく」

「……はい」

「欲求不満?」

「わからない」

「パンツ嗅ごうとしてたのに?」

「欲求不満だから嗅ぎたかったわけじゃ、たぶんない」


 フラれてから3日、1度もそそり立ってはいない。

 そんな事を考える余裕はない。

 日々の事に追われつつ心にある喪失感を引き摺ったまま今に至る。

 現に今も姉ちゃんのパンツを嗅ごうとしていたのに反応はしていないわけで。


「落ち着きたかった、んだと思う」


 正座したまま、床をただ見つめながら俺はそう呟いた。

 姉ちゃんがいない喪失感と、姉ちゃんまでいなくなってしまうのではないかという不安。

 この家からは物理的に居ないけど、そういうことじゃなくて、親が死んだ時みたいな漠然とした恐怖と不安。


 自分が思っている以上に精神的に幼いままな事も自覚して、どうしていいかわからなくなっていく。


 今なら姉ちゃんが「家族」に執着する理由もわかる気がする。

 なんなら姉ちゃんは高校生の時には俺を養う為に働き出したわけで、今の俺よりも怖かったのではないかと思う。


「拓斗」


 椎名は膝を着いて俺を抱き締めてくれた。

 姉ちゃんとは違う。

 けれど落ち着いてしまうのは椎名だからだろう。


 椎名には親がちゃんと居て、俺や姉ちゃんの気持ちを完全に理解することはできないだろう。

 それでもそばに居てくれている。


「なぁ椎名」

「ん?」

「椎名は、何処にも行ったりしないか?」

「しないよ」

「……ありがとう」


 椎名の胸に押し付けられるようにして抱き締められて、それで落ち着く俺は赤子みたいだ。

 客観的に観たならきっと恥ずかし過ぎて死にたくなるだろう。

 男のくせに、とか考えてしまうだろうな。


 それでもこんなみっともない姿を晒していられるのは椎名だからなのだろう。

 今や姉ちゃんと同様に、親より長くほとんど一緒に居る存在となった幼馴染。

 今更恥のひとつ見せてしまったくらい、どうってことない気さえした。


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