第75話 朝陽。

「普通の姉弟に戻ろう……タク」

「……きゅ、急に何言ってんだよ……姉ちゃん」

「椎名ちゃん。タクの事、お願いね」

「も、桃姉っ?!」


 お花見をした日の翌日の朝だった。

 姉ちゃんを見送る月曜日。

 何を言っているのだと問いながら、その意味を理解してるくせに受け入れたくなかった。だから問い掛けた。


 昨日まで、さっきまで幸せだった。

 そりゃ離れて暮らすことになってしまったのだから淋しくなるけれど、それでもそんなことを言われるなんて思ってなかった。


 あっさり車に乗って行ってしまった姉ちゃんに手を振る事もできず、俺は下を向いていた。


「……拓斗……」

「…………」


 俺が最も恐れていた事。

 姉ちゃんからの拒絶。

 今更普通の姉弟に戻れるはずなんてない。

 姉ちゃんの事を好きになった時から危惧きぐしていた事。


 傷付く覚悟がなかったから、ずっと姉ちゃんに対しての気持ちを隠していた。

 悶々とした日々を過ごしながら、ひた隠しにしていたのだ。

 それでもバレて、開き直って、やっと受け入れてもらえた気持ちだった。


「拓斗」

「……なんだよ……」


 もう、どうでもよくなった。

 そうしないと無理だと思った。

 姉ちゃんの言った「普通の姉弟に」という言葉の意味を、真意を考えられるような余裕はなかった。

 意味があるとも思えなかった。


 そもそも単身赴任を受けたのだって、実は俺との関係性がほんとは嫌だったのかもしれない。

 優しい姉ちゃんだから受け入れていてくれていただけで、ほんとは死ぬほど嫌だったのかもしれない。

 だとしたら俺は姉ちゃんの優しさに付け込んでいただけのクズ弟だ。


「家に戻ろうよ」

「……ひとりにしてくれ……」


 考えられない。考えたくない。

 受け入れたくない。

 今のこの現実を。


 心の準備なんてできてなかった。

 あまりにも急な現実。


 今日は姉ちゃんを見送る一時ひとときの夜明けの朝だったはずだったんだ。

 なのに今は理不尽に昇る太陽がフラれた俺を嘲笑あざわらっているようにすら感じられる。


 椎名を無視して家に入り、玄関のドアに背中を預けて崩れ落ちた。

 失った。1番恐れていた。

 そうならないように、そうなってしまわないようにと生きてきた。


 けど結局、こうなった。


「……なんで……」


 涙が出たわけではなかった。

 受け入れられてないからだろう。

 姉ちゃんの言葉を受け入れたくないから。

 泣いたらそれは嫌々でも受けれたことになると思っているから、涙は出ていない。

 困惑しているという言葉が最も正しい表現。


「拓斗!!」


 ドア越しに椎名が俺の名前を呼んだ。

 鬱陶しいとすら感じた。

 放っておいてほしい。

 返事をするほどの余裕も今の俺にはないんだよ。


「学校で……待ってるから」


 冗談にしても酷い。

 これで学校に行けるわけなんてない。

 その前に線路に飛び込む自信すらある。


 フラれた事実を受け入れてしまう前に考える事をやめて死んでしまえばいい。

 そうすれば今よりさらに傷付かずに済む。

 混乱したままの今ならまだ幸せだった微かな余韻を引き摺ったまま死ねる。


「椎名」


 ドア越しの椎名に声を掛けた。

 まだ居るかわからなかったし、こんなかすれた小さな声が聞こえているとは思えない。


「なに」


 それでも返事をした椎名。

 これほど誰かに縋りたいと思ったことはなかった。

 みっともないと思う。


「……ひとりに、しないでくれ……」

「うん」


 自分で言っててわらえた。

 メンヘラもいいとこで、ついさっきまで「ひとりにしてくれ」なんて言った傍から女に縋る俺はきっと滑稽こっけい無様ぶざまに見えるだろう。

 恥ずかしい事この上ない。


 それでもどうして今俺は椎名に縋ろうとしているのだろうか。

 それはシスコンだからだろう。

 腐ってもシスコンで、堪らなく死にたくなっていても死ねないのだ。


 あわよくば死にたい。その方が楽だ。

 けれど死ねないのはそれでも姉ちゃんが好きだからだろう。

 けど俺が自殺したら悲しんでくれるだろうかとか、フッた事を後悔してくれるだろうかとか、悪魔がしたり顔でささやくように真っ黒な思考が頭の中を渦巻いている。


「入るよ」


 ドアノブを回す音が背中越しに伝わってきて、身を預けていたドアから少しだけ身をかがめた。


 ゆっくりとドアを開けた椎名は俺の前に立って、そしてドアは閉まった。

 顔を上げる気力はとうに無くて、おおよそ全ての何かを拒否していた。


 椎名は膝を着いて俺を抱き締めた。

 抱き締め返す力も無いし、みっともない今の俺を椎名にも見られなくなかった。しょうもない男のプライドなのだろう。実に痛々しい。


「……椎名……」


 抱き締めてくれている椎名は泣いていた。

 なんで椎名が泣いてるのか意味がわからなくて、でも気にかけるほどの余裕はない。


「覚悟……してたんだよ。してたはずなんだよ……」

「……うん……」


 こうなる事は、ずっと前に覚悟してたはずだった。

 それは姉ちゃんへの気持ちがバレる前の話で、姉ちゃんに嫌われるかもしれない事とか、姉弟で、家族で居られなくなるかもしれないって傷付く覚悟はしてたつもりだった。


 好きになってはいけない人を好きなった。

 だから、傷付く覚悟はしてたはずだった。


「……なんでだよ……」


 抱き締めてくれる椎名のあたたかさが、姉ちゃんにフラれた事実を突き付けている。

 どうしようもないような行き場のないこの気持ちを持て余して、けれど椎名に八つ当たりできるような気力も無い。


 まるで魂が抜けていくような感覚。

 誰かに殺してほしいと願ってしまいたくなるような絶望感が全身に蔓延まんえんしている。


 自分で死ぬ勇気はない。

 だから誰かに殺してほしい。

 女にフラれたくらいでと、きっと誰かは嗤うだろう。嗤ってるのは俺自身だった。


「……椎名」

「……なに」

「俺は、フラれたのか」

「……たぶん。でも……」


 分かりきっているような事を、それでも聞くしかなかった。

 聞いておきながら俺は椎名の胸に顔を埋めてそれを聞かないように逃げていた。


 最低な男だと我ながら思う。

 姉ちゃんにフラれて幼馴染の胸に縋っている。

 惨めで哀れだ。

 痛々し過ぎて自分に苛立ちすら覚えている。


「……今日は学校、休もうか」

「……ああ……」


 どこも行きたくない。

 誰とも会いたくない。

 誰とも話したくない。


「嗤えよ……椎名」

「嗤えるほど、あたしは優しくないよ」


 どうしようもない幼馴染だ。

 自暴自棄で卑屈な事を言っているのに、そんなことすら甘えさせてはくれない。

 バカにして、なんなら「あたしの気持ちがわかったか?」って言えばいいのにさ。


 優しさって。なんなんだろうな。



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