第73話 シナモン。

 愛してる。


 この言葉を扱えるようになるには俺はあとどのくらいの年月が掛かるのだろうか。

 高校生の時の俺ではおそらく足りなかったのだろうと今なら思う。

 この言葉の意味を知れるのは、きっと死ぬ時なのだろうと思う。


 こうして年老いていく今でさえ、この言葉を使いこなせているとは思えていない。


 高校生の時の自分。

 肌を重ねている時の自分。

 手を繋いで歩いているだけの時の自分。


 一概に言えることがあるとするならば、総じて俺は幸せだったと言うことだけ。

 自分が感じている幸福感も、それは結局「愛」から来ているものであることはわかっていて、けれどもどれだけ言葉を尽くしても完全には伝わっていないのだろうと思ってしまう。


 嘘偽りのない言葉だという自信はある。

 けれど言葉にした時点でそれは少しだけ形が変わってしまっているように感じて、それは人によってはほんの少しの歪さがあるのだろう。


 言葉という形とは、おそらくは形であるからして個としての概念で表現されているように思うが、実際は形なんて概念が全てを邪魔しているのでないかと思う。


 点が、線が、形が、伝えたいことを区切ってしまっているのだろう。

 もどかしさを感じつつもそれでも生きていかなければならないままに生きてきて、そして俺はこの人生を後悔はしていない。

 どうあればもっと幸せになれたかはもう散々考え尽くした。


 次があるとするならば、願わくば「愛してる」を完璧に伝えられる人で在りたいと思う。


 若いうちはそんなことを恥ずかしげも言えることもあるだろう。

 逆に恥ずかしいと思って言えずにいることもあるだろう。


 それでもお前は、精一杯伝えなければならない。

 それしか後悔しない方法を、俺は知らない。



 ☆☆☆



「……ん」


 朝だった。

 どんな夢を見ていたかは憶えていない。

 ただ目尻から滑っていく涙だけが夢の内容を物語っているわけだが、結局その意味は分からずに心の中のしこりのような感情も寝ぼけた頭から消えていく。


 日曜日の朝であり、本来姉ちゃんはもっと慌ただしかったりもするが、この土日は有給を取っているからか姉ちゃんは隣でまだぐっすり眠っている。

 繋がれたままの手はほとんど触れているだけの状態だが、それでも姉ちゃんの手のぬくもりが感じられる朝は幸せだと感じた。


 姉ちゃんの隣、反対側には椎名も居るが同じくぐっすり寝ている。

 結局3人仲良く眠っただけだったが、たったそれだけだが自分自身はかなりいい睡眠だったと思う。


 引っ越しの作業で普段使わないような全身の至る所の筋肉痛に乾いた笑いはしたものの、俺は朝食を作るために忍び足で部屋を出た。


 引っ越しの作業も終わっているし、今日1日は俺と姉ちゃんと椎名の3人でのお花見デートとなった。

 その為自由な1日をなるべく有効に使うためにもスムーズな朝ごはんを作らなければならない。


「……昼ごはんはお花見用に3人で作るって話しててだったし、となると……うん、買い物行かないとな」


 お花見しようと言う話は昨日の夜に決まった故に全く準備していない。

 3人仲良く手を繋ぎながら修学旅行気分で夜更かししながらまったりと話していくうちに決まった予定なのだが、思えばお花見なんてするのはいつぶりだろうか。


「……まだ父さんたちが生きてる頃にした以来か」


 父さんも母さんも生きていて、俺がまだ小さかった頃の話。

 あの頃はまだ姉ちゃんのことを好きなわけではなかった。

 てか姉ちゃんと半分しか血が繋がってないって事も知らなかった頃だった気がする。


 たぶんその時の光景はどこにでもあるような普通の家族で、いやまあその時も椎名は居たな。

 しぃパパとしぃママ(椎名の父と椎名の母)から椎名を預かってお花見に行ったから、普通の家族プラス幼馴染という構図である。

 昔から七島家は共働きだったし、仲良かったからな。


「久々に作るな。シナモンの香りがまたいいんだよなぁ」


 姉ちゃんと過ごせる貴重な休日である。

 卵も贅沢に使ってありったけ作ろう。


「……おはよ。拓斗」

「おはよう」


 ほとんどまぶたが下りたままの椎名がキッチンに来た。

 シナモンの香りに釣られて寝ぼけたままの椎名が俺の肩に顎を乗せてぼんやりと眺めている。


「……なに作ってるの?」

「シナモンフレンチトースト」

「はやくたべたい」

「顔洗って待ってろ」

「うい〜」


 ……椎名のくせにやんわりと胸が当たっている、だと?!

 この短期間にこれだけの成長を遂げているとは、やはり生命の神秘とは偉大なものである。


 まあ、姉ちゃんなら押し当てられて胸が潰れる感じになるからまだまだと言えるだろう。精進せよ。


「なんかあたしも手伝いたい」

「なら焼いてくれ。俺は仕込みしてるから」

「おけまる」


 寝起きの椎名はテンションは基本的に低く少しバカっぽい語彙になる。

 普段の学校がある日の俺を迎えに来る時にはしっかりしている方の椎名さんなわけだが、泊まりに来た日の翌日の朝はだいたいこんな感じである。


「あの、椎名さん、よだれ垂れてますよ」

「これはずるい。お腹空く」


 フライパンでシナモンたっぷりのフレンチトーストを焼いているのでそうなるのも仕方ない。

 とはいえ寝起きのだらしない低血圧な椎名さんも見慣れている俺も俺でドン引きしないのはどうしようもない幼馴染なのだろう。


 俺と椎名の間に男女特有のキャピキャピした感じはないのである。

 なんなら熟年の夫婦くらいの空気感すらある。


「フレンチトーストのさ、『くたっ』ってする感じ、いいよね」

「水分吸いまくってるあの感じな。それが美味いんだよなぁ」

「冷えても美味しいのずるいよね」


 まったりとした空気にシナモン香るキッチン。

 仕込み終わった俺はさらにここから珈琲を準備する。


「パッサパサになった食パンすら美味しくするこの料理考えた人はマジ神だと思うじゅるり」

「椎名、よだれかけ用意しようか?」

「だれが赤ちゃんだこら」

「って俺のTシャツで拭くなよ!!」

「あたしのよだれなんだから感謝するといいよ」

「嫌がらせ以外のなにものでもないだろ」

「でも桃姉のよだれは?」

「大歓迎」

「シスコンめ」

「褒めるなよ。照れるだろ」

「寝言は寝てから言って」

「未だ寝ぼけてる椎名に言われたくないな」


 挽いた珈琲豆をセットしてお湯を注ぐ。

 珈琲の香りがシナモンと合わさり、さらに食欲をそそる。


「タク、椎名ちゃん。おはよぅ」

「おはよ姉ちゃん」

「おはよ。桃姉」

「寝起き早々にお腹空く匂い〜」

「もうできるから顔洗ってきて」

「う〜ん」


 寝起きの姉ちゃんも可愛いなぁ。

 天使だなやっぱり。


「あの、椎名さん。痛いんですけど」

「鼻の下伸ばすな。てかあたしの時も鼻の下伸ばせシスコン」

「よだれ垂らしながらフレンチトースト焼いてる幼馴染に鼻の下伸ばすような性癖は持ち合わせてないんだなこれが」

「あほ。ばか。たこ」

「罵倒ボキャブラリーの貧困。小学生並だな」

「誰の胸が小学生だこら」

「被害妄想が過ぎる……」


 段々と椎名の貧乳ネタが椎名自身の自虐ネタになりつつあるのは幼馴染として心配である。可哀想に。


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